金田一耕助ファイル20    病院坂の首縊りの家(下) [#地から2字上げ]横溝正史   目 次  第二部 転生の章   第一編 大恐喝者本條徳兵衛のこと        耕助不吉な予感に|戦《おのの》くこと   第二編 直吉二度の|奇《き》|禍《か》に|怯《おび》えること       耕助鉄の小を譲られること   第三編 関根美穂冒険を決意すること       法眼弥生心臓発作に悩むこと   第四編 本條直吉連日酒びたりのこと       「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」同窓会のこと   第五編 同窓五人の転生ぶりのこと        |呪《じゅ》|詛《そ》を吐く幻燈写真のこと   第六編 耕助・弥生奇妙な対面のこと        金田一耕助爆弾を投げること   第七編 矢継ぎ早の殺人事件のこと        鉄也・美穂イニシアルのこと   第八編 本條会館「温故知新館」のこと       「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」恐怖に|戦《おのの》くこと   第九編 耕助愚者の犯罪を説くこと        愚者犯罪計画に熱中すること   第十編 愚者耕助の|罠《わな》に落ちること        耕助・弥生最後の対決のこと  拾遺     第二部 転生の章     第一編 [#ここから4字下げ] 大恐喝者本條徳兵衛のこと  耕助不吉な予感に|戦《おのの》くこと [#ここで字下げ終わり]      一 「ときに、金田一先生」 「ときに、警部さん」  よくそういうことがあるものだが、いまの金田一耕助と|等《と》|々《ど》|力《ろき》秘密探偵事務所の所長、等々力|大《だい》|志《し》のふたりの場合がまさにそれであった。  そこは|銀《ぎん》|座《ざ》八丁目も昭和通りにちかいところだから、東銀座に当たっているが、そこに第二風間ビルという地下一階、地上六階のビルが建っている。もとこのビルは風間建設の総合本社になっていたのだが、日本の高度成長に歩調をあわせて、風間建設も急成長をとげ、いまでは東南アジアからアフリカ、南米まで|驥《き》|足《そく》をのばすにいたったので、このビルでは万事窮屈になってきた。そこで東京の副都心といわれる|新宿《しんじゅく》方面へ、地下二階地上十二階というでっかいビルを建て、そっちのほうへ本社を移し、こっちは第二風間ビルと名称を改めたが、いまでも三階までは風間建設が使っている。しかし、四階からうえは不用になったかして、貸しオフィスとして開放したのが一昨昭和四十六年の秋のことである。  金田一耕助の東京方面におけるよき相棒、等々力警部も寄る年波には勝てず、それより少しまえに停年退職をして,|渋《しぶ》|谷《や》のほうで等々力秘密探偵事務所というのを開設したが、思いのほかこれが成功して、まもなく事務所の手狭さをかこつようになってきたところへ、金田一耕助によってもたらされたのが、第二風間ビルの四階よりうえを開放という朗報であった。かくて等々力大志は東銀座と渋谷と、ふたつの秘密探偵事務所をもつご身分になったのだから、退職警部のはじめた事業としては、まずは成功の部であろう。  その日、すなわち昭和四十八年四月八日は日曜日で、しかも絶好のお花見|日《び》|和《より》であった。金田一耕助は昼過ぎ|築《つき》|地《じ》のほうに用事があって出向いていったついでに、立ち寄ったのが第二風間ビルの四階にある、等々力秘密探偵事務所である。日曜日だというのに、よくはやる秘密探偵事務所には、日曜も祭日もないとみえ、オフィスは開いており、等々力元警部も所長室で忙しそうに、若い婦人所員になにか命令をつたえていた。  金田一耕助はこのオフィスでは木戸ご免もおなじことだから、ふらりと所長室へ入っていくと、等々力所長は満面笑みくずれて、 「やあ、これはこれは、どういう風の吹きまわしですかな。きょうはどちらへ。まさかお花見ではないでしょうな」 「まさかとはなんです。まさかとは? このわたしがお花見としゃれこんではいけませんか。しかも、きょうは花まつりですぜ」 「わっはっは、そういえばそうでしたね。しかし、わたしみたいに仕事にふりまわされてちゃ、盆も正月もありませんや。少々お待ちください」  待たせておいた婦人所員に、 「それじゃさっきいった要領で。それで、君、出先からそのまま帰ってもいいよ。いったいもう何時だい」  と、腕時計に眼をやって、 「あれ、もう三時を過ぎてるのかい。じゃ、表のオフィスにいる連中にも、もう引き取ってよろしいと伝えてくれたまえ。わたしはせっかくの珍客のご入来だから、もう少しここにネバることにするから。金田一先生、あなたきょうはごゆっくりしていただけるんでしょうな」 「はあ、久しぶりにご尊顔を拝したんですからね。警部さんさえよかったら、きょうはゆっくりさせていただきますよ」  金田一耕助はいまでもこのひとを警部さんと呼んでいる。かれは断わりもなしに相手のまえの安楽椅子に腰をおろすと、ながながと寝そべるように、よれよれの|袴《はかま》をはいた腰から下を投げ出した。  やがて三、四名の所員がドアの外から声をかけて出ていく気配を、ボンヤリ背中できいていた金田一耕助は、 「いや、驚いたもんですね」 「なにが……?」 「いえさ、世間では週休二日制が一般化しつつあるというのに、ここでは日曜も祭日も返上らしいですからね。よくはやる秘密探偵事務所とはこんなものですかね」 「いや、そのことですがね、金田一先生。先生にはいろいろお世話になっております。しょっちゅう先生のほうからお客さんをまわしていただきながら、こんなことをいうとバチが当たるかもしれませんが、わたしはこの秘密探偵事務所という仕事に、ほとほとうんざりしてるんです」 「あっはっは、|栄《えい》|耀《よう》の餅の皮というところですかね」 「いや、そうおっしゃられても一言もありませんが、こちらへお客さんをまわしてくださる先生ですから、わたしの仕事がどんなものか、だいたいおわかりでしょう。縁談、失せもの、旦那さんや奥さんの浮気調査。これじゃ大道易者の仕事とたいして変わりはありませんや」  等々力所長のその表現がいくらか当をえているような気がして、金田一耕助はおもわず吹き出しそうになったものの、数年まえの警部時代のこのひとをしっているかれには、いっぽう同情もできるのである。 「それゃあね、わたしがもっと若くて警視庁にいたところで、昔のようなわけにゃいかないでしょう。いまは万事組織で動く時代ですからね。うちの|倅《せがれ》などもふたことめには組織がどうの、グループがどうのと持ち出すんですからね。こっちはアタマにきますよ」 「そうそう、等々力二世はお元気ですか」  等々力大志の倅はいま警視庁にいて警部補である。 「ええ、元気は元気です。しかし、あいつも学校を出て試験にパスするとすぐ警部補でしょ。あんなやつになにがわかりますか。わたしなんざ警部補になるまで、ずいぶん長いことかかりましたからな」  それから等々力元警部の|愚《ぐ》|痴《ち》が|蜿《えん》|蜒《えん》とつづいたのである。  それにしても、金田一耕助は別として等々力元警部もずいぶん年をとったものである。  昭和四十八年で金田一耕助はいくつになったのであろう。その年の春私は満でかぞえて|古《こ》|稀《き》であった。私は金田一耕助の正確な生年月日をしらないのだけど、かれの思い出話を総合すると、私より十ぐらい若いらしい。  いったい若いときから|爺《じじ》むさくみえる男は、案外年をとらないものだが、金田一耕助はその典型的な部類に属するであろう。だいいちその頭髪である。本人はいや、これでもずいぶん少なくなりましたといっているが、あいかわらず|雀《すずめ》の巣のようにもじゃもじゃしているところは、旧態依然たるものがあり、第一|白《しら》|髪《が》というものが一本もない。 「ひとさまによく染めてるんじゃないかといわれるんですが、まさかね。わたしみたいな無精もんに、そんな克明なまねができるわけがありませんからね」  あっはっはと私にむかって笑ってみせ、こうなると無精も自慢のタネになるものかと感心させられたことがあるが、じっさい私みたいに長年のつきあいで、年代を追ってその業績を記述してきたものには、しぜん年齢がわかるわけだが、しらないひとが見たら四十そこそこにみえるかもしれない。顔色の冴えないところは昔からだが、いくらかふっくらとしてきて、それに|小《こ》|皺《じわ》というものが一本もない。服装はちかごろ年がら年中ウールの|単《ひと》|衣《え》だが、よれよれの袴はこれまた旧態依然たるものがある。  それに反して等々力元警部のほうはたしかに年がよった。だいいちその頭だが、まるで綿帽子をかぶったように真っ白である。年をとると|禿《は》げるひとと白くなるひととふたとおりあるようだが、このひとはあとの部類に属するのであろう。昔から身だしなみのよい人物だったが、房々とした白髪をうしろに|撫《な》であげているところはみごとである。血色も悪くない。ちかごろ運動不足とみえて以前にくらべると、いささかふとり気味だが、ただこのひとの場合皺のふえたのが目立つのである。  しかし、これ以上年のことをあげつらうのは止したほうがよいかもしれぬ。  さて、等々力元警部は蜿蜒として愚痴の百万遍を唱えていたが、そのうち自分で自分の愚痴の|虚《むな》しさに気がついたのか、ふいと口をつぐむとつぎの瞬間、ボーッと血の気が|瞼《まぶた》を染めた。久しぶりに会った相手にくどくどと、老いの繰りごとをきかせたことが、この老いたる元警部を少年のように恥じらわせるのである。金田一耕助はその愚痴をどう思って聞いているのか、タバコをくゆらせ眼をショボショボさせながら、ただまじまじと相手の顔を|視《み》|詰《つ》めていた。当然そこにシラけた|気《き》|拙《まず》い沈黙が落ち込んできて、元警部はむやみに恥じらい、金田一耕助はやたらにタバコを吹かせていたが、それがとつぜん、 「ときに、金田一先生」 「ときに、警部さん」  と、いう同時発言となり、それがあまりピッタリあったタイミングだったので、つい爆笑を誘い、その爆笑をキッカケとして、ふたりのあいだに温かい感情が交流しはじめたのであるということを、私はこの章の冒頭に書こうとしていたのだ。      二  金田一耕助も等々力元警部もこの爆笑をキッカケとして、急に打ちくつろいだ気分になり、 「警部さん、あなたいまなにをいおうとなすったんです」 「いや、いや、金田一先生、あなたからどうぞ。あなたこそいまわたしになにをおっしゃろうとなすったんですか」  金田一耕助はゆっくりタバコをくゆらせながら、まじまじと元警部の顔を見ていたが、急に|悪《いた》|戯《ずら》っぽい眼つきになって、 「よろしい、それじゃあなたがいまなにを発言なさろうとしたのか、ひとつわたしがオーギュスト・デュパンかシャーロック・ホームズもどきに推理してみようじゃありませんか」 「さあ、さあ、どうぞ。ぜひどうぞ」  等々力元警部はいかにも嬉しそうである。金田一耕助は急に悪戯っぽい眼つきから、がらりと真剣で意地悪そうな表情に|変《へん》|貌《ぼう》すると、 「あなたはいま非常に満ち足りた境遇でいらっしゃる。あなたのはじめられたこの新事業は、誠実と秘密厳守をモットーとして、順調に繁栄している。等々力二世の|栄《えい》|志《じ》警部補は、いま警視庁でも将来を嘱目される存在でいらっしゃる。またご自分も奥さんも健康的に申し分なく、いわば現在のあなたはいうことなしの境遇でいらっしゃる。しかし、それにもかかわらず、あなたはときどき、隙間風が吹き抜けてゆくような|侘《わび》しさを感じていらっしゃる。それはなぜか。あなたのお仕事の大半が縁談、失せもの、夫婦の浮気沙汰、つまり大道易者的調査|事《ごと》に限定されていらっしゃるからです。つまり現在のあなたは|既《すで》に|隴《ろう》を|得《え》て|復蜀《またしょく》を|望《のぞ》む|既《すでに》|得レ[#「レ」は返り点]隴《ろうをえて》|復《また》|望レ[#「レ」は返り点]蜀《しょくをのぞむ》というご心境にあるわけです。そこへこの金田一耕助というドン・キホーテがひょっこり現われた」  と、そこで金田一耕助はタバコの火をつけかえると、 「そこで愚痴の百万遍をならべていらっしゃるうちに、自然脳裡によみがえってきたのは、この金田一耕助を相棒にかたらい、たがいにシテとなりワキとなり、幾多の難事件を解決された栄光の日々のことです。ところがこの金田一耕助の関係した事件のなかでただひとつ、まことに不本意な結末で満足しなければならなかった事件がひとつある。それはなにかというと、昭和二十八年秋の病院坂の首|縊《くく》りの家で起こったあの生首風鈴殺人事件です。それにしてもあなたがなぜあの事件を思い出されたか。警部さんはさっきたゆとうような視線をこの四階の窓から外へ|這《は》わせて、昭和通りをこえて築地の空をごらんになってましたね。それではきょう築地でなにがあったか、あなたは三日まえの新聞各紙の死亡記事や死亡広告でそれをご存じだったわけです。すなわちあの生首風鈴殺人事件の関係者のひとり、本條会館株式会社の会長、|本條《ほんじょう》|徳《とく》|兵《べ》|衛《え》氏の葬式ならびに告別式が、きょう築地の本願寺で|執《と》り行なわれたということを」  金田一耕助はまた新しいタバコに火をうつすと、みずからも所長室の広い窓から視線をすべらせ、築地の空に眼をやったが、すぐその視線を等々力元警部の白頭にもどすと、 「あなたはまえから本條会館の急成長に、深い疑惑をもっておられた。むりもありません。昭和二十八年の事件当時、青ペンキ塗りの薄汚れた町の片隅の一写真館にすぎなかったものが、わずか二十年のあいだに高輪の一角に、地下二階、地上九階という偉容をほこる本條会館として急成長を遂げたのですからね。それは本條徳兵衛氏は機略にもとみ胆力もすわった人物でした。また本條写真館そのものは創業明治二十五年という古い|暖《の》|簾《れん》を誇る店でした。しかし、ただそれだけでこの驚くべき急成長は可能であろうか。そこであなたはひそかに手をまわして、本條会館の内容を調査なすった。そして、そこに五十嵐産業の|厖《ぼう》|大《だい》な資本が投下されているのに気がつかれた。このことはいまや衆知の事実ですが、その五十嵐産業の会長は当時もいまも|法《ほう》|眼《げん》|弥生《や よ い》女史です。そこであなたはこのふたりに、強い疑惑をもちつづけてこられた。すなわち本條徳兵衛は法眼弥生の致命的な弱点を握っていて、それをタネに|恐喝《きょうかつ》しつづけたのではないか。では、法眼弥生の致命的な弱点とはなにか。あの|悽《せい》|惨《さん》な生首風鈴殺人事件に関係があるのではないか。……しかし、悲しい|哉《かな》、あなたがそういう疑惑に到達されたとき、即ちあの壮麗な本條会館が竣成した昭和四十五年には、|遺《い》|憾《かん》ながら昭和二十八年の事件はすでに時効が成立していました。しかもあなたはその前後に現職を退かれたのですから、あの生首風鈴殺人事件の苦い思い出は、長くあなたの肩にのしかかってきていた。そこへ当事者であるところの本條徳兵衛の死亡記事と死亡広告ですから、あなたが強いショックを受けられたのもむりはありません。現職を退かれたとはいうものの、責任感の強いあなたのことですからね」  そこで元警部の等々力大志がなにかいおうとするのを、金田一耕助はかるく制して、 「まあ、もう少しわたしにしゃべらせてくださいよ。さっきあなたは築地の空に走らせていた視線をもどして、改めてわたしをごらんになったとき、おやというような顔をなさいましたよ。そう、きょうのわたしはふだんよりいくらかましな|服装《み な り》をしておりますからね。そこでこいつひょっとすると、本條徳兵衛の告別式に参列したんじゃないかと思われたんでしょう。そこで、つい『ときに、金田一先生』という発言になり、わたしはわたしでそのことについて、あなたのご注意を喚起しようとして、『ときに、警部さん』という発言になったんですが、それが偶然カチ合ったので、かくは金田一耕助の長広舌となりにけりというところでさあ」 「金田一先生、恐れ入りました。あなたの推理はみごと|肯《こう》|綮《けい》にあたっているんですが……」  と、まず相手の虚栄心をくすぐっておいて、 「金田一先生、先生はどうお思いです。本條徳兵衛が法眼弥生を恐喝していたんじゃないかってこと」 「警部さん、あなたは万事につけて慎重なかたです。現職時代職務に忠実なかたでした。だから警視庁にいらっしゃるあいだはかりそめにも、そういう大それた疑いを持っているってことを、部外者であるところのわたしにお洩らしになったことはありません。だけど現職を退かれて身軽になられたとき、いちどだけそういう疑惑をお持ちのことをお洩らしになったことがおありでしたよ。まるで心の|蟠《わだかまり》を吐きだすようにね。すみませんでした。あのときわたしはことばを濁して、わざとその問題にふれるのを避けたんですけれどね」 「で、いまならいっていただけるんでしょう。本條徳兵衛のことをどう思っていらっしゃるかってえことを」 「あいつは一代の大恐喝者でしたよ。生涯弥生女史をユスりにユスってきたんですからね。もっとも……」 「もっとも……?」 「恐喝されるほうもただのネズミじゃありません。ユスられながらも五十嵐産業にひとつの有利な傍系事業、本條会館株式会社というものを創りあげたんですからね」 「しかし、本條徳兵衛はなにをタネに法眼弥生をユスっていたんです。やはりあの昭和二十八年の事件で本條徳兵衛が、なにか一役を演じているんですか」  金田一耕助は悩ましげな眼をあげて、元警部の顔を仰ぎ見ながら、 「警部さん、本條写真館は昭和二十年三月九日の夜から、十日の未明へかけてのアメリカ空軍の大空襲で、跡形もなく焼け落ちたんですよ。それが二十一年の夏には、われわれがしってるとおりの写真館として復興してたんだそうです。そんな金がどこから出たんです。だいいち当時は建築資材を節約するために、ふつうの住宅は十五坪以内という、きびしい制限を受けていたということは警部さんもご存じでしょう。するとあれはあきらかに違法建築です。だから当時同業者のあいだでは、こういう陰口がささやかれていたそうです。本條さんが|羨《うらや》ましい、法眼さんがついているからって」 「それじゃ、金田一先生、本條徳兵衛は昭和二十一年ごろ、すでに法眼弥生をユスっていたとおっしゃるんですか」 「あるいは|然《しか》らんですね。それについて警部さん、こういうエピソードがあるんですよ」  と、金田一耕助は昭和二十八年九月二十日、あの酸鼻をきわめた生首風鈴殺人事件の発見された夜、高輪署へ顔を出すまえに本條写真館へ立ち寄った話をすると、 「ああ、その話ならあの当時うかがいましたが、それで……?」  そのとき写真館の飾り窓のなかに、法眼病院三代の写真が飾ってあったことを指摘し、 「ところがそれをそこへ飾ったのは徳兵衛自身ではなくて、あそこに|兵《ひょう》|頭《どう》|房《ふさ》|太《た》|郎《ろう》という|賢《さか》しらぶった坊やがいたでしょう。当時二十二、三でしたが……」 「兵頭房太郎、よく憶えておりますよ。小生意気な坊やでしたね」 「そうそう、あの子が持ちまえの賢しらぶりを発揮して、自分で勝手に法眼病院三代の写真を飾っておいたんですが、徳兵衛はそれに気がつかなかった。だからそいつをわたしに見つかったときの、あの男の|周章狼狽《しゅうしょうろうばい》ぶりはそうとうのものでしたよ。まあ、ああいうしたたかものですから、たくみに体裁をとりつくろいましたがね。しかし、法眼家と自分のうちとはとくべつの関係はない。ただわりに近いものだからこうして病院が改築されるたびに、ごひいきに|与《あず》かっているんだと、その点をしきりに強調してましたがね」 「先生、法眼病院三代の写真というのはどういうんです」 「いや、失礼。厳密にいえば、法眼家としては二代ですね。法眼|鉄《てつ》|馬《ま》先生と戦災で爆死なすった|琢《たく》|也《や》先生と。ただ病院としては三代になっていたわけです。法眼鉄馬先生があそこへ病院を建てたのが明治四十二年、そのときはおそらくただたんに、近まわりだというので竣成記念の写真撮影を依頼されたんでしょう。これは徳兵衛の祖父の|権《ごん》|之《の》|助《すけ》というものが撮影したんだそうです。この権之助というのが明治二十五年に、あそこへ本條写真館というのを創立したんですね。それから大正十年に改築したときの写真がありましたが、これはおそらく、二代目の|紋十郎《もんじゅうろう》というものが撮影したんだろうと徳兵衛はいってましたが、この紋十郎というのが徳兵衛のおやじなんですね。それから終戦直後の廃墟となったのが一枚、これはもちろん徳兵衛が撮影したものですが、そのときのあの男の説によると、法眼病院はもう一度改築しているんですね。昭和七年か八年に。そのとき徳兵衛が竣成記念の写真をとった記憶があるといってましたよ」 「そうすると、金田一先生、法眼家と本條写真館の結びつきは、明治四十二年以来ということになりますか」 「まあ、そういうことでしょうね」 「すると、徳兵衛が法眼弥生をユスっていたとしても、その根元はわれわれが考えていたより、はるかに古く、かつ深いものがあるというわけですね」 「警部さんはそれについていままでどう考えていらっしたのですか」 「わたしはあの事件、つまり昭和二十八年のあの生首風鈴殺人事件、あの事件について、徳兵衛がなにかしっていたのじゃないかと思っていたんですがね」 「ご明察ですね。わたしもあの晩、すなわち酸鼻をきわめたあの大惨劇が演じられた晩、本條徳兵衛が、どこでなにをしていたかしりたいですよ」      三 「それじゃ、金田一先生は徳兵衛が直接あの事件に関係があるとおっしゃるんですか」 「なんらかの形でね。それが法眼弥生を恐喝する、いっそう有力な武器になったんじゃないかと思うんです。しかし、警部さんはどう思っていられたんですか。あの男があの生首風鈴殺人事件に関係があるとして……」 「わたしはね、金田一先生、あの晩われわれよりさきにあの連中、本條写真館の三人が現場へ到着しているでしょう。あの三人が最初の発見者です。ですからそのときなにか法眼家に関するなんらかの事実、それが暴露され、世間に発表されれば法眼家の名誉が大いに傷つくという、そういう重大な証拠を発見し、それをいちはやくわれわれの眼から|隠《いん》|蔽《ぺい》し、そいつをタネに弥生をユスっていたんじゃないかと思ったんですが、それも|下《げ》|司《す》の知恵はあとからでね。本條会館に五十嵐産業の資本が投下されているということをしってからのことですね。しかし、先生、昭和二十一年当時徳兵衛がすでに弥生をユスっていたとしたら、なにをタネに……?」  金田一耕助はまじまじと相手の顔を視守りながら、 「警部さんは憶えてらっしゃいませんか。本條写真館のショウ・ウインドウが明治・大正・昭和三代にわたる風俗史料の写真展覧会みたいだったってことを」 「ええ、それはよく憶えておりますよ。いまでも本條会館の一階ロビーに、これ見よがしに飾ってありますからね」 「そうです、そうです。それについて房太郎坊やは誇らしげにこういってましたよ。旦那はとても|几帳面《きちょうめん》なひとですからね、乾板からフィルムまで、全部年代順に整理してあるんですと。そのほかに法眼家の名誉をいちじるしく傷つける、若き日の弥生の写真があったとしたら……?」 「金田一先生、それじゃ徳兵衛が若き日の弥生のいかがわしい行為を盗み撮りでもしておいたと……?」  金田一耕助はゆっくり首を左右に振って、 「このあいだ新聞で読んだ死亡記事によると本條徳兵衛氏、享年七十六歳とありました。ところで法眼弥生女史はいまでも健在のようですが、ことし八十三か四です。若き日の弥生女史のなんらかの写真がいまでも本條の家に残っているとすれば、それを撮影したのはおやじの紋十郎か、祖父の権之助ということになるんじゃないでしょうか。ついでに申し上げておきますと、さっきもいったとおり、あの場所にはじめて法眼病院が建ったのは明治四十二年で、それを撮影したのは初代の権之助だといったでしょう。そこではじめて法眼家と本條写真館とのあいだに、なんらかのひっかかりが出来てきた。ところが弥生女史が琢也先生と結婚したのは、その前々年の明治四十年になるわけです。ですから若き日の弥生女史のスキャンダラスな写真を撮影する機会があったとすれば、それは初代の権之助ということになるんじゃないですか」 「じゃ、先生は法眼弥生は親、子、孫の三代にわたって、本條写真館にユスられていたとおっしゃるんですか」 「ところが権之助や紋十郎の場合、そういう事実はなさそうなんですね。ふたりとも|律《りち》|儀《ぎ》で、実直で、曲がったことは大嫌いという性格だったらしいし、だいいちこの二代のあいだに急に身上をふとらせたという事実もないんです。いや、徳兵衛だって戦前から、戦争中へかけてそうだったそうです。昔から剛腹だったそうですが、どちらかというと融通がきかぬくらい律儀で実直なところは、祖父譲り、親譲りといわれていたそうです」 「ところが、ある日突然恐喝者に変貌したというわけですか」 「背に腹はかえられぬというところじゃないですか。戦災で家が焼けてしまった、復興するにも資金はない。そこでなんらかの証拠をタネに弥生女史に頼みこんだら、これが案外うまくいった。本人は恐喝だとは思わなかったかもしれませんが、結局は恐喝になったわけですね。しかも恐喝者というものは、いちど味をおぼえてしまうと、なかなかその味を忘れかねるということは、警部さんもよくご存じでしょう」 「それで二十八年の事件にも、一役演じたんじゃないかとおっしゃるんですね。演じたとするとどういう役廻りでしょう」 「わかりません」  金田一耕助は悩ましげな眼をして、かるく首を左右にふりながら、 「しかし、恐喝者というものはつねにスケープ・ゴート、つまり|生《いけ》|贄《にえ》の|山《や》|羊《ぎ》を肥らせておく必要があるんじゃないでしょうか。この場合スケープ・ゴートは法眼家です。その法眼家の不利になるような事態が生じたら、徳兵衛は身を挺してでもそれを除去するために働いたでしょうね」  等々力元警部は急に若返ったかのごとく、瞳がいきいきと輝いてきた。血色もよくなったかのようである。しかし、それも|束《つか》の間であった。やがてガックリ椅子に体を埋めると、|侘《わび》しげな眼を金田一耕助にむけて、 「金田一先生、ありがとう。わたしも久しぶりに若々しい血が躍動するのを覚えましたよ。しかし、それもこれも昔の夢、万事は風と共に去りぬですかね。だいいちあの事件はとっくの昔に時効が成立しているんですからね。わたしに残された生涯は、縁談、失せ物、旦那さんや奥さんの浮気の調査……やれやれですわい」  とつぜん金田一耕助は|弾《はじ》けるような笑い声をあげた。この男としては|精《せい》|悍《かん》で、相手に|挑《いど》みかかるような笑い声だった。 「警部さん、あなたもずいぶん老いこまれたもんだ。あなた、ほんとうにあの事件は万事終わったと思っていらっしゃるんですか」 「なんですって? 金田一先生、そ、それ、どういう意味ですか」 「わたしゃあね。警部さん、事件はまだまだこれからじゃないかと思ってるんですよ。なるほど二十八年の事件は時効になってしまった。しかし、あの事件は長く尾をひいて、そこから近い将来、あれ以上の事件が起こるんじゃないかという気がするんです」 「金田一先生」  等々力元警部は大きく|呼《い》|吸《き》をあえがせた。 「ああ、そうか、それじゃあなた本條徳兵衛の死に疑問があるとおっしゃるんですか」 「そう、恐喝者はつねに身に襲いかかる危険を覚悟していなければならない。被恐喝者がいつ逆襲してくるかもしれませんからね。しかし、本條徳兵衛の場合直腸ガンだったそうですが、その死因には疑いはなさそうです。あの男は|稀《き》|代《だい》の大恐喝者であったにもかかわらず、まずは生命を|完《まっと》うしたほうです。そのかわりここにひとり、生命の危険にさらされている男がいるんです」 「だれです、それは?」 「本條|直《なお》|吉《きち》、徳兵衛の倅ですね。いや、失礼しました。こちらへは連絡がなかったようですね」 「どういうこと?」 「わたしはきょう渋谷の事務所に寄ってみたんですよ。そしてあなたがこちらにいらっしゃるってことを確認しておいて、こうしてお伺いしたんじゃありませんか。改めてお願いいたします。わたしにはあなたのご協力が必要なんです。ご協力いただけるでしょうね、民間人として」  等々力元警部は|唖《あ》|然《ぜん》として、金田一耕助のもじゃもじゃ頭を|視《み》|詰《つ》めていたが、やがて感動に声をふるわせて、 「金田一先生、やらせてください。いや、お手伝いをさせてください、あれ以上という事件の。わたしゃ老骨に鞭打って……いや、いや、老骨などとは申しますまい。わたしゃこうみえても体のほうはいたって頑健なんですからね」 「そうそう、縁談、失せ物、旦那さんや奥さんの浮気沙汰の調査、大道易者みたいな仕事をさせておくにはもったいないほどね」  それから快い|哄笑《こうしょう》が部屋いっぱいにとどろきわたった。等々力元警部の笑い声にも、久しぶりに若々しい弾みがあったが、しかし、それは決して|上《うわ》っ調子なものではなく、極度の緊張ときびしい抑制がその哄笑を規制していた。哄笑はすぐやんだ。 「で、本條直吉がどうかしたんですか」  と、金田一耕助の顔をのぞきこんだ。金田一耕助はそそけ立ったような顔をして、 「このついたちですから本條徳兵衛が最後の息を引きとるより、五日まえのことでしたが、わたしはあの男、すなわち本條直吉氏の訪問を受けたんです」  金田一耕助の顔色はいかにも悪く、いかにも不吉な予感に|戦《おのの》いているようにみえた。いきおい元警部の胸も高まり、おのずと顔面の紅潮してくるのを覚えずにはいられなかった。    第二編 [#ここから4字下げ] 直吉二度の|奇《き》|禍《か》に|怯《おび》えること  耕助鉄の小函を譲られること [#ここで字下げ終わり]      一  金田一耕助が昭和二十八年の事件の当時、世話になっていた|大《おお》|森《もり》の割烹旅館松月をとっくの昔に引き払って、その後緑が丘町の緑が丘荘というアパートの二階にネグラを構えているということは、読者諸賢はとくよりご存じのはずである。  日本の高度成長の結果はなにもかも装いを改めて、かつてはあんまり見てくれのよろしくない、木造二階建てのアパートに過ぎなかった緑が丘荘も、いまや五階建てのがっしりとした鉄筋コンクリート造りのマンションと化し、その名も緑が丘マンションと改めている。金田一耕助は緑が丘荘時代以来の先入権があるばかりか、このマンションを建てたのも風間建設とやらで、かれは二階正面の、このマンションとしてはいちばんよいフラットを、無償で……と、いうことはロハでということである……|風間俊六《かざましゅんろく》から贈られた。世間からみると結構このうえもなきご身分のようだが、ちかごろ金田一耕助は、この友人の好意がしだいに重荷になってきている。  さて、昭和四十八年四月一日の日曜日は、あいにくの曇り空だったが気温がべらぼうに高くて、まるで初夏を思わせるような陽気であった。金田一耕助のフラットでは管理人夫人の|山《やま》|崎《ざき》よし江さんが、旅に出る金田一耕助のためにせっせと荷造りによねんがなかった。 「奥さん、いいんですよ。そんなに厳重にしなくても。どうせ気まかせ風まかせという旅なんですから」 「ええ、よくわかっております。でも先生は忘れっぽくていらっしゃるんですもの。よござんすか。ここに洗面用具やタオル、ハンケチの類を詰め込んでおきましたから」 「ああ、ありがとう」  よし江さんのテキパキとした態度にくらべると、金田一耕助はいかにも|物《もの》|憂《う》そうだが、その理由をよし江さんはよくしっている。金田一耕助がまたひとつの難事件を解決したのであろうことを。  金田一耕助という男がなにか難しい事件を解決すると、そのあと救いようのない孤独感に襲われるということは、読者諸賢もよくご存じのとおりである。かれの好んで扱うような事件がめでたく解決するということは、そこに何人かの犠牲者が出るということである。自分というドン・キホーテがしゃしゃり出なかったならば、口を拭って世の中を通っていけたであろう紳士あるいは淑女の頭上に、法の刑罰という|鉄《てっ》|槌《つい》が下るのである。金田一耕助はそれを正義と信じて行なってきた。  しかし、成功したとき金田一耕助は決して得意ではいられない。いや、得意どころかその反対に自己嫌悪の念が年々歳々深くなる。当然かれは救いようのない孤独感に襲われ、まるで石もて追われるもののごとく旅に出る。いまの金田一耕助がそれであった。  それにしても山崎さん夫婦も久しいものだ。ここがアパートからマンションに変貌しても、この夫婦は依然として管理人である。それは風間俊六の希望によるところで、よし江さんは管理人夫人であると同時に金田一耕助のハウス・キーパーでもあった。 「それじゃそろそろお出かけになりますか」  毎度のこととはいいながらよし江さんには多少の感傷がある。独身のまま年老いて、なんの身寄りもないこのひとの将来を思うと、山崎さん夫婦は利害打算を越えていつも胸が|疼《うず》くのである。 「いまちょうど三時ですね。じゃハイヤーを呼んでください。行先は|上《うえ》|野《の》としましょう。上越線になるか信越線になるか、あるいは東北線になるか、それは列車の時間表しだいということにいたしましょう。どうせ気まかせ風まかせの旅ですから。あっはっは」  金田一耕助はわざと陽気にふるまおうとしているのだが、その笑い声は乾いていて|侘《わび》しそうであった。 「承知しました」  よし江さんが受話器を取りあげようとしているところへ、逆に電話のベルが鳴り出した。よし江さんは受話器を取りあげて、 「はあ、はあ、こちら金田一耕助事務所でございますが……はあ、でも、先生これからご旅行に出ようとしてらっしゃるところなんですけれど……なんでございますって? 病院坂の事件の関係者のひとり、本條直吉さまとおっしゃるんでございますか」  金田一耕助はぶら下げていたボストン・バッグを床におくと、目配せをしてよし江さんの手から受話器を取りあげた。よし江さんはほっと深い溜め息をつくと電話から一歩退いた。本條直吉の名前をきいたとたん、金田一耕助の全身をおおうていた、あの虚脱と倦怠と孤独の|翳《かげ》りが、潮の退くように影がうすれて、その代わり瞳に生気の灯がともるのを認めたからである。 「はあ、はあ、こちら金田一耕助ですが……なあんだ、あなた直さんか、いや、失敬、失敬、はあ、はあ、いや、旅ったって用事のある旅ではありません。ひとつ事件が片づいたもんですから、どこか静養にでもと思って。……いや、それゃあなたなら大歓迎ですよ。それにしてもあなたいまどちらに? なんですって? 緑が丘のバス停のそばの公衆電話に? それじゃすぐじゃありませんか。ええ、ええ、お待ちしておりますよ。正面玄関をあがって二階のとっつきがわたしのフラットです。ではのちほど」  電話なかばによし江さんは音もなく姿を消していた。      二  それから五分ののち、金田一耕助は自分のフラットの応接室で、本條直吉と相対していたが、ドアを入ってきた直吉の姿をひとめ見たとたん、金田一耕助はおもわず大きく眼をみはった。直吉は頭に|繃《ほう》|帯《たい》をまき、左腕を肩から|吊《つ》っている。左の頬に大きく|絆《ばん》|創《そう》|膏《こう》を貼っているのみならず、右脚を少し引きずっているのがいたいたしいようだが、それでいてそうとう|酩《めい》|酊《てい》しているようである。 「あなた、その怪我どうかなすったんですか」  金田一耕助がおもわず口走ったのもむりはない。直吉はトロンとした眼で笑いながら、 「満身|創《そう》|痍《い》とはこのことですかな。いや、それだからこそこちらへお伺いする気になったんです」 「やあ、それはどうも。さあ、さあ、どうぞ」  と、手を貸して安楽椅子に案内すると、直吉は右手にぶら下げていたアタッシェ・ケースをテーブルのうえにおき、 「金田一先生、しばらくでした。先生はあの時分とちっともお変わりになりませんね」 「いやあ、やっぱり年をとりましたよ。しかし、あなたはお変わりになりましたね。立派におなりです」  そうなのだ。それは必ずしも金田一耕助のお世辞ではなかった。直吉はたしかに変わったのだ。いくらか肥り気味の貫禄もさることながら、あのころのふてくされたような不良味は、あとかたもなく|払拭《ふっしょく》されて、いま金田一耕助の眼のまえにいるこの男は、いくらか酔っているとはいえ、|真《しん》|摯《し》で誠実な中年の紳士のようにみえる。むりはない、本條直吉ももう五十なのだから。 「ときにお父さんはお元気ですか」 「先生はいまおやじがどういう状態なのかご存じじゃあないんですか。ご存じなんでしょう」 「どうしてですか」 「だって先生はあの事件、昭和二十八年の事件以来、ズーッとうちを監視しつづけてこられたそうじゃありませんか」 「どなたがそんなことおっしゃるんですか」 「おやじですよ。ごく最近おやじからその話を聞いてわたしゃ|愕《がく》|然《ぜん》としましたよ。正直いってわたしゃ先生のことなんかすっかり忘れてました。あの当時、金田一耕助という男を警戒しろと、口を|酸《す》っぱくするほどおやじからいわれたんですが、わたしは先生なんか問題にもしなかった。だからきょうここへきたのもばんじおやじのアドバイスによるもんなんです。わたしにはまだあなたがそんな凄いひとかどうかわからないんですからね」 「いえね、本條さん、なるほどわたしはお宅に強い関心を持ちつづけてきました、あの事件以来。なにしろあまりにも急成長ですし、その急成長の背後にはつねに五十嵐産業がひかえているんですからね。だからなにかあるとは思ってました。しかし、わたしもこれでそうとう忙しい体でしょう。お宅だけにかかずらっているというわけにはいかんのです。だからちかごろのお父さんの消息は存じあげないんですが、どうかなさいましたか」 「おやじはいま死にかけているんです。いえ、ほんとの話。直腸ガンで慶応病院へ入院してます。医者の話ではあと一週間の命だろうということですが、もちろんそんなことおやじの耳にゃ入れていません。しかし、おやじのほうではちゃんとしってるようです」  金田一耕助は傷ましそうな顔色になって、 「そのお父さんがあなたをここへ寄越されたんですね、どういうご用件で」 「いや、それを申し上げるまえに先生はいったいなにをご存じなんです、おやじのことを。ここでいっときますがおやじは絶えず先生を警戒してきたようです。しかし、先生を憎んでるんじゃないんですよ。むしろ尊敬申し上げているようです。あの男はおそらくなにもかもしってるんだろうが、それでいてよくもいままでだんまりでいてくれたもんだと。おやじはそう述懐してましたが、先生はいったいなにをしってらっしゃるというんです」 「あっはっは、好敵手、好敵手をしるというところですか。いえね、本條さん、ああいうお父さんですからげんざい自分の倅であるところのあなたにも、ほんとのことは打ち明けてなかったと思うんですが、あなただってまんざら馬鹿じゃない。お父さんと五十嵐産業の会長、法眼弥生さんとの関係を、少し異常だとお思いになったことはありませんか」 「おやじが法眼さんの大奥さんをユスっていたとでも……?」 「あっはっは、問うに落ちず語るに落ちるとはこのことですね。ではあなたもうすうすは気がついていられたんですな」 「それは……先生、全然気がついていなかったといえばウソになりましょう。それゃ少しおかしいと思ったことはあります。なにしろおやじのいう目が出るんですからね、法眼さんの大奥さんというひとは……しかし、おやじはあのとおりのやりてですし、法眼さんとうちとはひい|祖《じ》|父《い》さん以来の関係でしょう。だからおやじがお願いして、いくらかあの大奥さんからご融通を願う。それを|資本《も と で》におやじが事業を拡張して、融通願ったぶんに利息をつけてお返しする。そういう点おやじは非常に律儀ですからね。その律儀さがお気に召して、そのつぎご無心申し上げたとき、法眼さんの大奥さんがまた快くご融通くださる。まあ、そういうことを繰り返しているうちに、雪だるま式にふくらんでいったんだとばかり思っていたんです。しかしそれがあんまりトントン拍子ですから、多少はおかしいと思わないこともなかったんですが、まさかおやじがあの大奥さんをユスっていたなどとは、最近まで夢にもしりませんでした」 「じゃ、だれに聞かれたんですか、そんなこと」 「おやじに聞いたんです。おやじ自身の口から」 「お父さんがいつそんなことを」 「きょうは四月一日ですからもう先月になりますが、先月三月十五日のことです。おやじは自分の病気をしってたんですね。だから遺言のつもりでわたしに打ち明けたんです。ところで、先生はなにをタネにおやじがあの大奥さんをユスっていたかご存じですか」 「しっちゃいません。しかし想像はできますね」 「いってください、その想像というのを」 「古い写真の乾板かなんかじゃありませんか」  直吉はしばらく金田一耕助の顔を|視《み》|据《す》えていたが、やがて|匙《さじ》を投げたというふうに、大きな溜め息を吐き出すと、デスクのうえのアタッシェ・ケースを開いて、なかから縦二○センチ、横一五センチ、深さ八センチくらいの古びた頑丈な鉄製の|函《はこ》を取り出した。 「金田一先生、それがこの函のなかに入ってるんだそうです」 「そうですとおっしゃると……?」 「この鉄の函には鍵がふたつあったんだそうです。おやじはその鍵のひとつを持っていたそうですが、とっくの昔に捨ててしまって、いまこの函の鍵を持っているのは法眼さんの大奥さんだけなんだそうです。さて、おやじの遺言というのは自分が死んだら翌月の命日に、|田園調布《でんえんちょうふ》の法眼家へ|赴《おもむ》いて、若奥様の|由《ゆ》|香《か》|利《り》さん立ち会いのもとにこの函をお返ししろ。そうすると法眼弥生名義のうちの株の半分を、無償で交付願えることになっているというんです」 「あなたはこの函の中身をごらんになったことは……?」 「金田一先生、函をお改めください」  金田一耕助は函を手許に引き寄せると、いわれるままに改めてみた。鍵はしっかりかかっていた。 「おやじはわたしに自分の二の舞いをやらせたくないんですね。金田一先生はその方面の消息に通じていらっしゃるでしょうが、恐喝者というものはつねに生命の危険にさらされているんだそうですね」 「まあ、そういうことでしょうな」 「この場合、相手が相手だからまさかそういうことはあるまいとは思ったが、それでも自分の後半生はスリルの連続だったといってました。だからおまえにはそういう思いをさせたくないし、また取り引きが公正に成立すれば、もうこれ以上、そんな危ない橋を渡る必要はないはずだというんです」 「じゃ、あなたはお父さんの命令どおり実行なさるおつもりだったんですね」 「はあ」 「それにもかかわらず、あなたはなぜここへいらっしたんです。それもお父さんのアドバイスだとおっしゃいましたね」  とつぜん直吉の顔がベソをかくように|歪《ゆが》み、歯を食いしばってこみあげてくる戦慄を抑えるのに必死となっているように身受けられた。金田一耕助は大きく眼を見張って、思わず息をあえがせた。 「本條さん、あなたその怪我は……?」 「金田一先生!」  直吉は絶叫するようにいってから、急に椅子のなかに体を埋めると、泣き笑いをするような表情になり、やがて顔を横にそむけると、ものに|憑《つ》かれたように|喋舌《し ゃ べ》りはじめた。 「わたしはだれかに|狙《ねら》われているらしいんです。だれかがわたしの命を狙っているらしいんです。五十にもなって、|小《こ》|鬢《びん》に白いものをおいている男がこんな馬鹿なことをいうと、先生はさぞ片腹痛いとお思いになるでしょう。最初のときはおやじもそうでした。しかし、二度目のことがあってから、ようやくおやじも真剣に考えてくれたようです。考えて、考えて、考えつめたあげくのはて、きのうポッツリこういいました。金田一耕助先生のところへ行ってなにもかも打ち明けろ。先生はわしが恐喝者であることはよくご存じのはずだから、一切合財ぶちまけろ。そして、先生にご相談に乗っていただけって。そのときわたしははじめて先生のことを|細《こま》|々《ごま》ときかされたんです。わたしは半信半疑でここへきたんですが、先生はやっぱりおやじのいうとおりのひとでした。先生、わたしを助けてくださいとは申しません。二度あることは三度あると申します。また三度目の正直ってことばもあります。親の因果が子に報いといえば古いといって笑われるかもしれませんが、わたしゃもう自分の命などどうでもいいという気になっています。ただわたしにもしものことがあったら、わたしを狙っているやつに復讐してほしいんです」      三 「そうすると、本條直吉氏は二度襲撃をうけたとおっしゃるんですか」  等々力元警部はさぐるように金田一耕助の顔を|視《み》|詰《つ》めている。 「そういうこってすね。最初は戸外で二度目は本條会館の内部です。わたしは本條直吉氏の指摘した二度の遭難場所へ出向いていって、いろいろ聞き合わせたり調査したりしましたが、直吉氏のことばにウソはないようでした。ここで遭難の前後の情況をお話するまえに、本條家の家庭のほうから申し上げておきましょう」  金田一耕助は手帳を開くと、 「本條家は|経堂《きょうどう》の|赤堤《あかづつみ》にあります。かつて日本でも一流の大会社の重役が住んでいたうちを、昭和四十年ごろ手に入れて改築を施したもので、かなり豪勢なものです。家族は本條徳兵衛氏にひとり息子の直吉氏、直吉氏の奥さんの|文《ふみ》|子《こ》さん。この文子さんというひとは徳兵衛氏のおめがねにかなった奥さんで、器量は十人並みというところですが、非常な良妻賢母のようです。同業者のお嬢さんで、あの事件のあった昭和二十八年の年の暮れに結婚しています」 「先生はあらかじめ調査しておかれたんですか」 「はあ、あの当時ね。なにしろあの事件を契機として直吉氏の変わりかたがあまり激しかったもんで、つい好奇心を持ったんですな。あの事件以前の直吉さんだったら、いまごろは臭い飯の一度や二度は食っていたでしょう。おやじを融通のきかぬ堅い一方の人間として軽蔑し、自分はヤミ商売やギャンブルにうつつを抜かしているという人物でしたからね。ところがあの事件以来すっかり神妙になり、徳兵衛氏のいうことなら唯々諾々。そこらになにかありゃしないかと、ひそかに手をまわして調査しておいたんです」 「いや、恐れ入りました。わたしゃあの事件の捜査主任でありながら、そこまでは手がまわりませんでしたよ」 「それゃあなたはあの事件にばかりかかずらってるわけにゃいきませんからね。戦後は大事件、怪事件が続出ですから。そこへいくとわたしのはまあヒマつぶしみたいなもんです」  金田一耕助は慰めがおに、 「さて、本條家の家庭へお話をすすめましょう。この直吉文子の夫婦のあいだに昭和二十九年に|徳《とく》|彦《ひこ》、三十一年に|直《なお》|子《こ》という一男一女が生まれているんですが、ここに面白いのは長男の徳彦君で、ことし私立高校を出て私立大学へ入学したが、ゆくゆくはそこの芸術科へ進んで写真をやるんだそうです。なかなか秀才で好青年らしいんですよ」 「金田一先生はそんなことまで調査してらっしゃるんですか」 「まあ、そうとう執念深い男だと思ってください」  金田一耕助は白い歯をみせて笑いながら、 「ところであの生首風鈴殺人事件が発見されたのは、昭和二十八年九月二十日の晩のことでしたね。ところがその晩、法眼家では弥生女史の孫娘由香利さんというのが、|五十嵐《いがらし》家の末孫|滋《しげる》君というのと結婚して、アメリカの軍用機でロスへ飛んでるでしょう。この夫婦のあいだにその翌年、ロサンゼルスで|鉄《てつ》|也《や》君というひとり息子が生まれてるんです。鉄馬の鉄と琢也の也との組み合わせですから、おそらくこれは弥生女史の命名でしょう。だからこの鉄也君と徳彦君おない年ですね。鉄也君はロス生まれのロス育ち、学齢に達したので両親とともに帰国し、いちじこちらの小学校へ通っていたんですが、三年のときまた両親とともに西ドイツのデュッセルドルフ、ご存じでしょう、いまや西ドイツで各国商社が|鎬《しのぎ》を削ってる都市ですね、そこへいった。弥生女史はそうして由香利さんを自分の後継者としてみっちり|鍛《きた》えていったんですな。いま五十嵐産業はロサンゼルスにも、デュッセルドルフにも支店を持ってるようです。さて、鉄也君ですが、中学へ入るについて両親とともに帰国してきたんですが、さっき徳彦君について面白いことがあると申し上げたのは、このふたり高校で一緒でしかもとても仲好しだということ、これはこないだ直吉氏からきいた話なんですがね。ふたりともサッカー部にいて、三年のときは鉄也君が主将、徳彦君が副主将を務めていた。したがって直吉氏はたびたび鉄也君に会ってるわけです。ことに鉄也君のお父さんの法眼滋氏、このひとは由香利さんの|婿《むこ》養子として入籍してるんですが、本條会館の重役をやってますからちょくちょくやってくる。なにしろ|茅《かや》|場《ば》町にある五十嵐産業の総合本社とちがって、本條会館のほうはなんとなく雰囲気が華やかですから、若い鉄也君などもやってくる。だから、直吉氏はこっちのほうでも鉄也君と顔を合わせるチャンスがある。これまたこのあいだ直吉氏に聞いたんですが、この鉄也君というのがまたなかなかの秀才の好青年らしいんですが、この春三つ大学を受けて三つともしくじって目下浪人中の身らしいんです。三つとも最高に難しい学校だそうで、あれじゃ浪人もやむをえんでしょうと、このあいだ直吉氏も話していましたがね」  金田一耕助の話の途切れるのを待って、等々力元警部はことばを|挟《はさ》んだ。 「金田一先生、そうするとこういうことになりますな。恐喝者の孫と被恐喝者の|曾《ひ》|孫《まご》とが、おなじ高校にいて親友であるというわけですか」 「そういうことになりますな。妙な因縁といえばいえますが……」 「ところで法眼弥生女史というひとはどうしてるんです。もうかれこれ八十でしょうが」 「八十二か三になるはずです。いまでも五十嵐産業の会長をやってますが、この二、三年だれにも会わないそうです。それで孫娘の由香利さんが会長代行をやってるんですが、これが弥生女史の|薫《くん》|陶《とう》よろしきをえて凄く切れるひとだということです」 「社長はだれです」 「ご主人の滋氏ですね。しかし、あそこは完全に女性上位だと世間の評判ですね」 「ところでさっき先生の口から名前の出た、兵頭房太郎という小生意気な坊やはどうしました」 「ああ、あの坊や」  金田一耕助は顔をほころばせて、 「あの坊やといっても、いまでは四十二、三になってるんでしょうが、いまから十年ほどまえ写真屋はいやだ、写真家になるんだといって本條会館をやめちまったんだそうです。ちかごろの雑誌は、ほら、みんな口絵に女性のヌード写真を扱ってるでしょう。ああいうことをやっていて、なかなか売れっ児だそうですよ。いまでもよく本條会館へ顔を出してるようですがね」 「これで役者はだいたい揃ったようですね。では、聞かせてください、本條直吉氏の二度にわたる奇禍というのを」 「承知しました。最初のは先月の十七日、即ち徳兵衛氏から遺言をきいた日からなか一日おいた夜のことですね。申し忘れましたが徳兵衛氏は直吉氏に遺言をし、鉄の函を譲ったその翌日、慶応病院へ入院したそうです」 「法眼病院を避けたところが意味深なんじゃないですか」 「そういえばおやじは食べ物などにも、非常に神経質だったと直吉氏もいってましたね。徳兵衛さん、直腸ガンで死ぬのはやむをえんが、他から人為的に死にいたらしめられるのはいやだったんでしょうな」 「それはそうでしょうね。で、三月十七日に?」 「直吉さん、ちかごろ新しい愛人ができて、その愛人が|成城《せいじょう》に住んでるんだそうです。わたしもその場所へいってみましたが、そこは下り坂になっていて、右側には大谷石をたたんだうえに住宅が並んでいます。左側はそうとう傾斜の急な|崖《がけ》になっており、崖の下は映画会社の撮影所ですが、ちかごろのことですから、その崖のうえにもいろいろ工夫をこらして、けっこう立派なうちが並んでいますよ。直吉氏の愛人はそういううちの一軒に住んでるんですね。その道小型自動車なら入れるんですが、大型車は無理なんです。直吉氏リンカーンを持っており、運転手君もいるんですが、ちかごろ出来たばかりの愛人で、あんまりひとにしられたくないし、道幅の関係もあって、そこへいくときはいつも小田急を利用し、成城駅からは徒歩なんですね。直吉さんこの二月ごろから週一回、毎週土曜日の夜、そういう妾宅通いをはじめたんだそうです。いつも九時ごろいって十一時ごろには妾宅を出る。さて、問題の三月十七日は土曜日です。直吉氏九時少しまえにその道へ差しかかった。そうそう、申し忘れましたが、その道少し湾曲しながら二○○メートルもつづいておりましょうか、坂を下ったところで大通りと合流してるんですが、途中に街灯がふたつついていますから、夜でもそうとう明るいわけです。さて、直吉さんがその狭い道を少し下ったところで、急に背後にけたたましい爆音が聞こえてきた。直吉さんがなにげなく振り返ると、一台のオートバイが自分をめがけて、フル・スピードで突進してくるようにみえた……と、直吉氏はいってるんですがね。直吉氏はとっさに身の危険を感じてとびのいた。ちょうどそこは家と家との切れめになっており、左側が急傾斜の崖になっていて、|灌《かん》|木《ぼく》や雑草が一杯生えています。道路に沿って低い柵があり、鉄条網が張ってありますが、直吉氏は夢中でその鉄条網をとびこえたとたん、ズルズルと崖下まで|辷《すべ》り落ちたというんですね。そこに|蹲《うずくま》ったまま耳をすましていると、爆音は坂を下って大通りへ出て、そのまま遠ざかっていったといってました」 「つまりそのオートバイに乗った男が、直吉氏を跳ね殺そうとしたというんですか」 「直吉氏はそういってます」 「しかし、金田一先生、それは不可能ですぜ。これが四輪車ならともかく、二輪車というものは非常に安定性をかくものです。二輪車がフル・スピードで走っていて、なにか障害物にでもぶつかってごらんなさい。自分のほうがふっ跳んで、悪くすると首根っこをヘシ折ってしまいますぜ」 「わたしもそのとおり直吉氏にいったんですが、直吉氏はきかないんですね。あのとき背中をまるくしてオートバイに乗ってた男の体は、たしかに殺気をはらんでいたというんです」 「顔は? そこ街灯がふたつもついていて、夜でもそうとう明るい場所だとおっしゃいましたね」 「それがとっさのことですし、それにフル・フェースというんですから、首のところまでスッポリかぶるヘルメットがあるでしょう、あれをかぶっていたうえに、大きな|塵《ちり》|除《よ》け眼鏡をかけていたというんですね。服装はふつう暴走族の着用しているような、革のジャンパーに革のズボン、ブーツを|穿《は》いていたように思うと、そこらは記憶が|曖《あい》|昧《まい》なんですね」 「じゃ、身長や体つきは……?」 「それが全然わからない。ただ背中をまるくしていて、その全身から殺気がほとばしっていたことは確かだといってます。また、じっさいそういうことがあったのは事実らしく、わたしこの二日に現場へいってみました。直吉氏の辷り落ちた崖のすぐそばの家には、|画家《え か き》さんが住んでいるんですが、その|画家《え か き》さん、毎週土曜日の八時から九時まで放映される、推理映画をテレビで見ていたんですね。その映画が終わってCMになったので、スイッチを切ったところへ、物凄い爆音が家のまえを通り過ぎ、悲鳴のようなものが聞こえたので、奥さんとふたりで表へとび出すと、崖の下で|呻《うめ》き声がきこえる。さいわいその画家さんロープを持っていたので、それを投げ出してやると、まもなく五十くらいの紳士があがってきた。紳士は丁重に礼をのべ、|跛《びっこ》をひきながら成城駅のほうへ立ち去ったが、その物腰はなにかひどく怯えているようにみえた。と、まあ、そういう話なんですね。これを直吉さんがわからきくと、おやじから空恐ろしい話をきいたばかりのところへこの一件だから、すっかり怖くなって女のところへいく気もなくなり、そのまま小田急でかえってきたが、そのとき足を|挫《くじ》いたのが祟って、いまだに跛をひいていると、かすり傷の跡など見せましたよ」 「で、愛人のほうは?」 「いちおう当たってみましたが、剣もホロロで追いかえされましたよ。|赤《あか》|坂《さか》のクラブへ出ている女で、直吉氏のものになるのは土曜日の夜だけという契約なんです。つまり土曜日の女というわけですが、直吉さんはそれっきり姿も見せず、クラブのほうにもなんの連絡もないので、すっかりお|冠《かんむり》になってるようです。直吉さんにいわせると、もう怖くてあっちのほうへは寄りつけないといってます。ちかく話し合って手を切るつもりだともいってましたが、つまり、恐喝者はつねに生命の危険にさらされるということばが身に|沁《し》みついて、被害妄想狂みたいになってるんですね」 「と、するとその女はべつに問題ないわけですか」 「しかし、まあ、念のために調査してみてください。その女の周辺にオートバイを操る男があるかどうか、それから直吉氏を殺さねばならぬ動機の有無」 「承知しました。所と名前とクラブはどこ?」  金田一耕助が手帳を見ながら口伝すると、等々力元警部はメモにひかえた。 「では、第二の事件に移りましょう。第一の事件は直吉氏の疑心暗鬼、といっていえないことはありませんが、第二の事件はあきらかに誰かの作為が働いているようです。場所は本條会館の最上階、九階のスイート・ルームです。わたしそのスイート・ルームというのも検分してきましたが、廊下へ通じるドアは内開きになっています。内部はすぐとっつきが洋風になっていて、そこで二、三人ならテーブルをかこんで、お茶なり冷たい飲物なりをのめるようになっており、テレビなどもそこに備えつけてあります。さて、ドアから見て右側に、二○センチくらい|床《ゆか》をあげて十畳くらいの日本座敷があり、五、六名くらいなら茶卓をかこんで食事が出来るようになっています。その一方に床の間と押し入れつきの八畳の日本座敷があり、バス、トイレなども完備しています。つまり本條会館も七階までは結婚式場やご宴会場、花嫁花婿さんならびにご親戚御一同様のお控え室、花嫁さんのお召し更え室、ということは貸し衣装室ということですね、それから写真のスタジオ、大食堂など非常に華やかな雰囲気につつまれていますが、八階、九階はホテルになっていますから、これは廊下などひっそりしたもんです。つまりそこで新郎新婦の披露をして、そのままハネ・ムーンに立つひともあるが、なかに東京で一夜を過ごして翌朝旅に出る、そういうひとたちのためにホテルが用意してある。但し、このホテルは結婚式とは関係ないひとでも、泊ろうと思えば泊れることになってるそうです」 「なるほど、なかなか抜け目のない商法ですな」 「そこは徳兵衛さんのおやりになることですからね。ところがいまいったスイート・ルームというのはホテルの一隅にあることはあるが、そこはひとに貸すためにあるんじゃなく、本條家一族の|憩《いこ》いの場として用意してあるんだそうです。ですから徳兵衛氏倒れたあとはもっぱら直吉氏直属の部屋になってるわけです。監事室は一階にあって、会長もそこで事務を執るが、疲れたら一服しようとか、懇意なひとがお見えになったら、ちょっとお食事をともにするとか、あるいはホテルが満杯の場合、よんどころない筋に提供するとか……」 「あるいは直吉社長がご婦人をひっぱり込むとか……」 「あっはっは、なかなかご明察ですね。問題はそれなんです」 「それとおっしゃると?」 「本條直吉さん、家庭を非常に大事にしてるそうですが、五十といえば現代では男盛り、成城の女性でもわかるとおり、スイート・ルームを利用して、ちょくちょくとね。さて事件のあったのは先月の二十六日、月曜日の夜の八時ごろだったそうです」 「それで……?」 「はあ、ところがいまいった八時ごろ監事室にいた直吉社長のインター・ホーンのベルが鳴り出しました。これは館内通話専門だそうですが、見るとスイート・ルームのところのランプに灯がついている。それが直吉社長を驚かせたというのは、その日その時刻にスイート・ルームにはだれもいるはずがないんですね。それでも念のために受話器をとると、甘い、低い、ささやくような女の声で、あなたあ、いつまで待たせるのよう、はやく来てえ……」 「先生、それが|罠《わな》だったんですか」 「そうです、そうです。それで直吉氏が監事室を跳び出して九階へあがっていった。一階から九階までといってもエレベーターだからすぐですね。スイート・ルームには鍵がかかっていたそうです。それを開いて、内開きのドアを押して左から一歩なかへ踏みこんだとたん、背後から声がかかった。通りがかりのボーイさんが声をかけたんですが、これにはべつに深い意味があったわけではなく、直吉社長、そのとき黒っぽい洋服を着ていたんですが、その背中に白いナイロン・テープの切れ端がくっついていた。それを注意しようと呼びとめ、呼びとめられた社長は左から一歩踏みこんだところで立ちどまった。そのとたんうえから落下してきたものが、直吉氏の左頭部と左頬をかすめ、左肩を強く打ち、大きな音を立てて床に|顛《てん》|落《らく》した……」 「なんです、それ……?」 「南部風鈴。|鋳《い》|物《もの》で出来た重いでっかいやつですね。ぼくも見せてもらいましたが……」 「犯人が持ち込んだんですか」 「いや、そのスイート・ルームにはいつもその風鈴がぶら下ってるんだそうです。徳兵衛氏の愛玩の品だそうですよ」 「するとなんですか、ボーイが呼びとめなかったら、一瞬、直吉氏が立ちどまらなかったら、その風鈴がまともに直吉氏の頭上に落下していたろうと……」 「わたくしはボーイにも会って確かめてみたんですが、ボーイさん蒼くなってふるえあがっていましたよ。あれがまともに社長の頭上へ落下していたら……と。わたしも実験してみましたが、これは紐と|剃《かみ》|刀《そり》を使った非常に単純なメカニズムで、ドアをむこうへ押すと、ひと呼吸おいて紐が切れるようになってるんですね。わたしも重い、でっかい南部風鈴がドスンと大きな音を立てて落下してきたときには、骨の髄まで凍るような恐怖を覚えましたね」 「先生、それで動機は?」 「わかりません。皆目見当もつきません」 「先生、オートバイの一件といい、この一件といい、いささかいま流行の推理小説めいているじゃありませんか」 「警部さんもそうお思いですか」 「そうですとも。だからこれ推理小説マニアの立てた計画じゃないですか」 「で、動機は?」 「推理小説によくある手ですが、自分も被害者のひとりだと思わせておいて、他の人物を殺すという……」 「鉄の函と百万円を賭けてですか」 「金田一先生、それどういう……?」 「いえね、警部さん」  金田一耕助はデスクから大きく身を乗り出して、 「本條直吉氏はこういうんです。金田一先生とてオール・マイティーではあるまい。おやじにしろ、わたしにしろ全然犯人も動機もわからないんだから手の施しようがない。金田一先生とておそらく同様であろう。もちろん本條直吉殺人事件が実現するまえ、先生が動機なり犯人なりを看破してくだされば、こんなありがたいことはないが、もしそれが無理な場合、ということはわたしが殺された場合、せめてその復讐をしていただきたい。それにはわたしが殺害された場合、この鉄の函をこじあけてでも、中身を調査し、そのなかに本條直吉殺害の動機が発見され、犯人が指摘できるようならば、ぜひそいつをとっちめてほしい。自分ももちろん警戒するが闇夜の|礫《つぶて》は防ぎにくいという。これが調査費であるといって、手の切れるような一万円紙幣を百枚と、鉄の函をおいていきましたから、これはエープリル・フールではなかったわけですね」    第三編 [#ここから4字下げ] 関根美穂冒険を決意すること  法眼弥生心臓発作に悩むこと [#ここで字下げ終わり]      一  左背後からスーッと伸びてきた腕が、デスクのうえに散乱している、数冊の本のうちの一冊を取りあげた。  法眼鉄也はそれほど反射神経の鈍いほうではない。いやいや、高校時代サッカー部のキャプテンをやったくらいだから、反射神経はひと一倍鋭いはずである。それにもかかわらずデスクのうえに散らばっている本の一冊を、もののみごとに取りあげられたというのは、背後にきて立った人物の行動が、あまりにも隠密的であったと同時に、いま机上にひろげられている一冊の本のなかから、ある文章を写しとるのに、鉄也があまりにも熱中していたということを意味するのであろう。  しかし、さすがに長袖のカーディガンを着た腕が、もういちど伸びてきて、机上にひろげられている本を取り上げようとするまえに、鉄也はバッタリ本を閉じ、ノートのあいだにボールペンを挟んだまま、窮屈なジーパンの|臀《しり》のポケットへむりやりに突っ込んでしまった。鉄也は毛糸のカーディガンの色合いなり、編みかたなりから、振りかえらなくてもうしろへきて立っている女の子が、だれであるかということをしっているのである。鉄也はふてくされたように、ジーパンをはいた長い脚をデスクの下で大きく開いて、固い椅子にずっこけるように腰をおろしたまま、きっと正面を切っているが、その顔は怒りと驚きと|屈辱《くつじょく》に|強《こわ》|張《ば》っていた。  |関《せき》|根《ね》|美《み》|穂《ほ》は最初に取りあげた一冊を左手にかかえたまま、いま鉄也がバッタリ閉じた一冊を取りあげた。その顔には奇妙な、物問いたげな表情がうかんでいる。デスクのうえにはもう五冊、おなじ型の本が積んである。その背表紙に刷ってある文字を|覗《のぞ》き込んだ美穂の顔色は、いよいよ厳しく物問いたげである。彼女はかかえていた二冊の本を、そっとデスクのうえに置きなおすと、いきなり右手をのばして、鉄也のジーパンの臀のポケットのものを抜き取ろうとしたが、その手ははげしく払いのけられて、鉄也の腰をおろした椅子の脚がはげしく床のうえで|軋《きし》む音を立てた。  そのとたん、ふたりの周囲から、 「しっ」  とか、 「静かにしろい」  とか、低いが|叱《しっ》|責《せき》するような声が起こったので、鉄也の顔面はいよいよ怒りに燃えて朱が走った。鉄也と美穂の|小《こ》|競《ぜ》り合いがいっさい無言のうちに演じられたというのも、そこが最も静粛を要する図書館の閲覧室だったからである。  四月八日といえばどの学校でも学年末試験もすみ、入学試験の発表もおわったあとだが、日本の若い世代はよっぽど勉強好きとみえ、その図書館の閲覧室はところどころに空席が目立つとはいえ、それでもそうとうの閲覧者が席をしめているのは、それが日曜日の午後のせいであったろうか。しかし、さすがに貸し出された本は参考書よりも小説の類が多かったらしい。  鉄也は憤然とした顔色のまま椅子から立つと、七冊の本をかかえてそれを貸し出し係りに返すと、そのまま図書館を出ていった。ことし十八歳になるはずだが、ずいぶん背の高い少年である。一八○センチを少し超えているのではないか。肩幅の広い、胸板の厚いがっちりとしたその体は、七五キロをオーバーしていることと思われる。ピッチリと身についたジーパンをはいたその|臀《でん》|部《ぶ》ははち切れそうで、大股に歩くとき、左右の|尻《しり》がブルンブルンと揺れるようである。  それを追う関根美穂も小さいほうではない。一六四、五センチはあるのではないか。それでも鉄也とならぶと首ひとつ以上ちがっている。急ぎ脚に歩くとき、エスカルゴのスカートがゆれて、サイケ調のブラウスのうえに、|粗《あら》い模様編みのカーディガンを引っかけている。年齢は鉄也とおなじだが、髪を長くのばして肩に垂らしたその顔は小麦色の肌をしていて、聡明そうな瞳をもった少女である。  図書館の外は公園だが、この春最初の快晴の日曜日のせいか、家族連れの行楽客でそうとうの|賑《にぎわ》いをみせている。  美穂はやっと鉄也に追いつくと、右手を相手の左手の|肘《ひじ》において、 「鉄也くん、待ってよ。あんたそんなに憤ってんの」  鉄也はほんとに憤っているのである。いや、憤っているというよりは困惑しているのである。しかし、それかといって少女の手をふりほどいて、いってしまうには後ろ髪をひかれる思いがあるらしい。 「鉄也くん、なんとかいってよ。あんたほんとうに憤ってんの」 「そりゃ憤るさ。あんなスパイみたいな真似をされちゃ……」  だが、そういいながらジーパンのまえのポケットへ突っ込んだ左手を抜き出すと、少女の手を探りはじめた。少女はすぐその意味を察したのか、肘においた手をまっすぐにのばして、ふたりは|掌《たなごころ》と掌とを合わせて五本の指をからませた。美穂の頬は幸福そうに上気して、思わず首をかしげて少年の肩にもたれかかった。鉄也の長髪は天然カールらしく、頸のところでカッコよく|渦《うず》を巻いている。  鉄也と美穂は幼なじみである。鉄也が小学生時代、両親とともに西独のデュッセルドルフに四年いたということはまえにもいっておいたが、おなじころ美穂も両親とともにそこにいた。おなじ日本人小学校でふたりは一緒だった。美穂の父の関根|健《けん》|造《ぞう》は外交官で、任地の関係で彼女もアメリカうまれであった。おなじ年にアメリカでうまれたということと、かなり自由に英語を操るということが、ふたりの仲を急速に親しいものにした。  美穂の両親はいまでも外国に住んでいる。美穂だけが学校の関係で日本へ送り還されたが、そのとき美穂の身柄を預かったのは、鉄也の両親の滋・由香利の夫婦であった。日本へかえると美穂は|青《あお》|山《やま》に住む祖父母のもとに引き取られた。美穂の祖父の関根|玄竜《げんりゅう》はかなり有名な彫刻家だが、奇矯をもってしられている。しかし、そういうひとに限って孫に眼のないものである。玄竜も妻のいと子もこの美貌で聡明な孫にたいしてまるっきり眼がなかった。美穂にはほかに父の兄に当たる|竜一郎《りゅういちろう》という伯父があり、|吉祥寺《きちじょうじ》のほうに住んでいるが、某私立大学の教授を務めているこの伯父に、美穂はどういうわけかなじめなかった。美穂の眼からみるとこの伯父は、味も素っ気もないひとにみえたし、度の強い眼鏡をかけた伯母の|幾《き》|久《く》|子《こ》は、外聞ばかりを気にかけている完全な教育ママであった。したがって男と女とふたりいる、美穂にとっては|従《い》|兄《と》|姉《こ》にあたるひとたちも、彼女の眼からみると偽善者以外のなにものでもなかった。  したがって美穂はかなり足繁く田園調布にある法眼家を訪ねていった。美穂にとってはこの世で唯一の相談相手は由香利であった。由香利はふつうの主婦ではなく、五十嵐産業の会長であると同時に、財団法人法眼病院の理事長でもある、祖母弥生の秘書を務め、いまでは年老いた祖母の役職を代行しているから、家を外に出歩くことも多かったが、それでも美穂が電話をかけておくと、出来るだけ時間をさいて彼女の相談に乗っていた。  世間の評判によると由香利おばさまというひとは、祖母まさりの切れものということになっているらしいが、美穂にとっては教養豊かで、思いやりのふかい、ただ|優《やさ》しいおばさまで、家庭にいるときは主人思いのよき主婦であり、いつも美穂から相談をうけると、適切なアドバイスを与えることを忘れなかった。  鉄也と美穂は住居の関係で中学も高校もちがっていたが、美穂のほうから母を慕ってくるので、東京へかえってからもふたりのあいだには、デュッセルドルフ以来のつきあいがつづいていた。鉄也もときどき青山の家へ訪ねていくことがあるが、かれがいくと玄竜夫婦は大喜びで歓待した。いまどき珍しく些事にこだわらぬおおらかな性格を愛したのだが、非常な秀才だときいているのに、ちっとも秀才ぶらないところもよかった。 「それはそうと鉄也君は将来なにになるつもりだね」  あるとき美穂の祖父の玄竜が訊ねたことがある。七十になんなんとして、長くのばした髪も口ヒゲ顎ヒゲも真っ白だが、膚もほどよく陽焼けして、体も壮者のように頑健である。 「お祖父さま、それでこのひと困ってるのよ。だって、このひとの大お|祖《ば》|母《あ》ちゃまはこのひとに医者になって、法眼病院をついで欲しいとおっしゃるらしいのよ。ところがおじさまとしては経済をやって五十嵐産業をついでほしいというご希望なの」 「それゃどちらもごもっともだが、それでママの希望はどうなんだ」 「おばさまは物分かりがよくていらっしゃるから、なんでも好きなことをやりなさい。|省《かえり》みて他に恥じないように出来るなら、自分の好きなようにやりなさいっておっしゃってるらしいの」 「まあ、あの奥さんのことだからな。わが子に対しても理解がおありなんだな。そこいらが幾久子とだいぶんちがっている」  玄竜老人の声は苦々しげだった。幾久子というのはまえにもいったとおり、長男竜一郎の家内である。 「ところで鉄也君自身の希望はどうなんだ。医者か、実業家か。君はなかなか秀才だそうだから、どちらだってお茶の子じゃないか」 「ところが、お|祖《じ》|父《い》さま、それがそうじゃないのよ。このひとはこのひとでまた違った希望をもってるもんだから、それでこのひと悩んでるのよ」 「ほほう、それで鉄也君自身の希望というのはなんなんだね」 「オペラ歌手」 「ウソだい、ウソだい、美穂っぺの馬鹿。おれそんなこと考えてもいやあしねえ。だいいち自信なんか全然ねえもん。自信のねえとこに希望なんかあるはずがねえじゃねえか」 「フーン。オペラ歌手ねえ。オペラ歌手とすると鉄也君はなんだろう。テノールじゃないな。バリトンかバスか」 「まあ、このひとならバスね」 「あのねえ、美穂」  そばからいと子お祖母ちゃまがことばをはさんで、 「わたし歌劇のことはいっこうわからないんだけれど、バスじゃ役が狭いんじゃない。バスでも主役がとれる歌劇ってあるのかい」 「それはあるわ。『フィガロの結婚』なんかそうね。そのほかいろいろあるから、バスだって心配はいらないのよ。お祖母ちゃま」 「そうだな。鉄也君はお世辞にも二枚目というわけにはいくまいから、バスってところがちょうどいい役どころかもしれんな」 「まあ、憎らしいお祖父ちゃま。あんな失礼なことおっしゃって」 「なんだ、なんだ、なにが憎らしいんだ。おれ|褒《ほ》めていってるんじゃないか。それとも美穂はニヤけた二枚目タイプの男がいいのかい」 「しらない、お祖父ちゃまの意地悪!」 「それはそうとお祖父ちゃまお祖母ちゃま」  と、鉄也があいだへ割って入って、 「美穂ちゃんはピアニストが志望なんでしょ。希望どおりにしてあげるといいんじゃないですか」 「素質があると思うかね、鉄也君は?」 「ぼくにはわかりません、まだ若僧だから。でもママはいつも褒めてますよ。このひとのピアノを。うちのママ、あれでそうとう音楽のことわかるらしいんですよ」 「でもねえ、鉄也さん、ピアノをやるとすると日本の学校だけじゃいけなくて、あちらへ留学しなければならないんでしょ」 「いいじゃありませんか。美穂ちゃんは海外生活には慣れてるんですし。しかし、おじさまおばさまのお気持ちはどうなんですか」 「いやあ、あのふたりは極楽トンボみたいなもんだから、当人の好きなようにさせてやってほしいといってるんだ。しかし、ばあさんとしちゃ早くお嫁にいって、曾孫の顔を見せてほしいというのが本音だろうな。わしもそう思わんものでもないが……どちらにしても年寄りというもんは、若いもんの希望にあんまり抵触せんことじゃ。オペラ歌手にピアニスト、似合いのカップルじゃないかな。わっはっは」  玄竜老人も極楽トンボの口らしく、ノンキそうに笑っていた。  これが去年の秋のことである。いまにして思えばあの時分がおれにとっていちばん幸福な時代だったかもしれないと、鉄也の胸にはいまさらのように、深い悲しみと熱い怒りがこみあげてくるのである。      二  掌と掌をピッタリ合わせて、指をからませた鉄也と美穂は、どちらからともなく人影の少ない公園の隅っこのほうに歩を運んでいた。 「おい、美穂」  とつぜん鉄也が|咽《の》|喉《ど》にひっかかったような声をかけた。 「なあに」  美穂は鉄也の肩に頭をあずけたまま甘い声である。彼女はまだ男の声の変調に気がついていなかった。 「おまえおれがこれからホテルへいこうと誘ったら、ついて来るかい」  美穂はハッとしたように男の肩から頭をはなしたが、|絡《から》み合った指をときほぐそうとはしなかった。きびしい眼で首ひとつうえにある、男の横顔を見守っていたが、正面切った男のその横顔には、美穂の表情よりもっときびしいものがあった。美穂はまた男の肩に頭をあずけると、絡ませた指に力をこめて、 「いいわ、あなたがそれを望むのなら」 「おまえそんなこといって、いままで男の子とホテルで遊んだことがあるんじゃねえのか」 「まあ、失礼ね、あたしこれでもバージンよ」 「うっふっふ、いまどきそんなこと自慢になるかよう」 「そういうあなたこそ……」  と、いいかけて、 「まあ、よしましょう。あなたはそんなひとじゃないわねえ。それにしても鉄也くん、あなたどうしてそんなにひとが変わったの。去年までのあなたじゃないみたい」 「そりゃひとも変わろうさ。受けた学校三つともしくじったんだもんな。おまえとはわけがちがうよ」 「ウソよ」 「ウソ?」 「受験に失敗したからひとが変わったんじゃなくってよ。ひとが変わったから受験に失敗したんじゃないの」 「だれがそんなこといってるんだ」 「あたしがいってるのよ。あなたこの二月のはじめごろからすっかりひとが変わったみたいよ。デートの約束をスッポカしたり、たまに会ってもあたしの顔を正面から見れなくなったし、それにそのヒゲはなによ」 「ヒゲはヤングの特権さ」 「それはそうかもしれない。だけどあなたの受けた学校三つともお堅い学校よ。試験官の心証をよくするために、ヒゲを生やしてるひとでも、わざと剃って受ける学校よ。それだのにあなたったら……」  美穂はそこでくやしそうに絶句した。  なるほど二月のはじめから生やしはじめたという鉄也のヒゲは、もうそうとう立派なものになりかけている。長く伸ばしたモミアゲは|顎《あご》ヒゲと合流し、口ヒゲもあっぱれな太さを示している。元来が毛深い|性《たち》なのである。 「ねえ、鉄也くん、二月のはじめになにがあったの、教えて。あたしだれにもいわないから。あなたが秘密を守れとおっしゃるなら、おばさまにだっていわないから」 「ママ?」  反射的に振りかえった鉄也の顔には複雑な影が動揺していた。 「ママがおまえになにか頼んだのか。ああ、そうか。おまえママに頼まれておれをスパイしてんのかい」 「なによ、そのいいかたは? そりゃおばさまだって心配なさるわよ。以前はあんなにいい子だったあなたが、二月以来すっかりひとが変わったようになってしまったんですもの。青山の祖父なんかとってもあなたの家庭を尊敬してたのよ。子供を見れば親がわかるって。いままでのあなたはパパを熱愛し、ママを熱愛以上に尊敬していらしたわね。それがいまじゃそうじゃないみたいよ」  鉄也はしばらく黙っていたのちに、 「それにしても、きょうおれがここにいるってことはどうしてわかったんだい。おれのあとを尾行したのかい」 「ひとぎきの悪いこといわないで頂戴、尾行だなんて」 「じゃ、おれがあそこにいることがどうしてわかったんだい」 「それはねえ、鉄也くん」  美穂は少し改まった口調になって、 「いまあなたをいちばん愛し、あなたのことをいちばん心配してらっしゃるのはおばさまでしょ。そのつぎはあたしよ。だから……愛するものの第六感とでもいうのかな」 「よけいなお世話だ。つまらねえお節介はよしてくれ。おれの問題はおれが片をつける。だれの世話にもなるもんか」 「いまおれの問題とおっしゃったわね。じゃ、やっぱりなにか問題があるのね。それもあなたの性格をすっかり変えてしまうほどの大問題が。そして、その問題の解決法がさっきの七冊の本のなかに出ているというの」 「なによお」 「まあ、落ち着きなさいよ。あたしに本を取り上げられたときの、あなたの驚きようったらなかったわよ。全身硬直したみたい。あたしね、鉄也くん、いいえ、あたしばかりじゃないわ、ひとを愛する女というものは、とてもスパイ精神が発達するのね。あたし本を取り上げるまえにしばらくあなたの背後に立って、あなたを観察していたのよ。あなたとっても熱心に本の一部を写し取っていたわね」 「おまえおれがどの記事をメモしてたか気がついたのかい」 「正直いってわからなかった。だってあなたったらノートのうえにおっかぶさるようにしてるんだもん。それにあれ新聞の縮刷版でしょ。そこへもってきて、自慢じゃないがあたし少し近視の気味があるのよ。あの距離じゃ縮刷版の新聞の活字なんて読めやあしないわよ」  美穂はごくしぜんな態度で鉄也を公園の隅のベンチに導き、エスカルゴのスカートをさばいてそこに腰をおろした。指をからませたままなので鉄也もいきおい美穂のそばに腰をおろさざるをえなかった。美穂は地の利をえらんだのである。そこならだれにも立ち聴きされる心配はなさそうだった。  ほんとうをいうと鉄也は美穂の手をふりほどいて、ここから逃げ出したいのである。かれは美穂の聡明さをしっている。近視だといっても、いかに縮刷版だったとはいえ、社会面のトップに組まれたあの大きな活字が眼に入らなかったはずはない。 「ねえ、鉄也くん」  美穂は頭を鉄也のたくましい肩にもたれさせたまま、はたして鉄也の|惧《おそ》れていたことを切り出した。 「あなたのきょう借り出した七冊の本、昭和二十二年から八年までの『毎朝新聞』の縮刷版だったわね。あなたが熱心にメモを取っていたのは、二十八年の縮刷版だったでしょう。あたしはいまもいったとおり近視だから、あなたがなんの記事のメモをとっていたかわからなかったわ。でも……」  と、美穂はちょっと|口《くち》|籠《ごも》ったのち、 「昭和二十八年におたくに関係のある家でどんなことがあったか、あたしまえからしってんのよ。でも、そんなことどうでもいいことなんじゃない。あなたの生まれるまえのことだから、あなたに全然責任のないことじゃなくって」 「美穂はおれが昭和二十二年から八年までの新聞の縮刷版に、興味をもってるってことをママに告げぐちするつもりかい」 「いっちゃいけなくって」 「いけない、いけない、それは絶対にいわないでくれ。後生だから絶対に、絶対に」 「じゃ、いわないわ。鉄也くん、誤解しないでほしいんだけど、あたしおばさまに頼まれて、あなたをスパイしてたわけじゃないのよ。だからあたしがあなたに関してなにをしりえたからといって、いちいちおばさまに報告する義務はないのよ」 「おれ、それ聞いて安心したよ。ところで美穂」 「なあに?」 「話をそらすようで悪いんだけど、おれおまえにちょっと聞きたいことがあるんだ」 「どんなこと」 「おまえはクラシックが志望だけど、テレビの歌謡番組なんか視ることあるかい」 「そりゃあるわよ。だって|大《おお》|晦《みそ》|日《か》の紅白歌合戦なんかちょくちょく視るもん」 「じゃ、おまえ『ザ・パイレーツ』というバンドがあるのしってる」 「『ザ・パイレーツ』ならしってるわ。一流中の一流のバンドだもの。だけど、それがどうかして?」 「じゃ、バンド・マスターの|佐《さ》|川《がわ》|哲《てつ》|也《や》というひとしってる?」 「そうそう、高校時代のあたしの友人でね、もち女の子よ。そのひとがひどく佐川哲也さんに熱をあげてんのよ。おかしいくらい。あのひと片眼に眼帯を当ててるでしょ。あれがシックなんですって。だけど、あのひとがどうかして?」 「おれ、あのひとに|凄《すご》く関心をもってるんだ。いや、あのひとのほうが凄くおれに関心をもってるらしいんだ。おれその理由をしりたいんだ」 「だってそんなことどうしてわかるの、あのひとがあなたに関心持ってるってこと?」 「これは徳なんかもしってることだから、打ち明けてもいいんだけどね」  ここで鉄也が徳とよんだのは本條徳彦のことで、美穂も鉄也をつうじてしっているのである。 「あのひとよくうちの学校の正門のまえにクルマをとめて、だれかを物色してるらしいんだな。ところがあのひとテレビやなんかで顔が売れてるだろ。それでおれの友人がサインを貰いにいったんだ。そしたらこの学校に法眼鉄也ってサッカーの選手がいるだろ、しってたらここへちょっと連れてきてくんないかっていうんだってさ。そいで友人がおれを引っ張っていったんだ。そしたらおれの顔をまじまじ見ながら、ああ、君が法眼鉄也君か、じつはぼくは君のファンなんで、ちょっと会っておきたかったんだ。こんごの活躍を祈るって、そのままいっちまったんだ。それ以来、そんなことがちょくちょくあるんだが、それがあんまりたびたびだから、おれだって気になるだろうじゃねえかよう」 「鉄也くん、それでそのひとあなたになにか敵意をもっているようなの」 「ううん、そうじゃねえと思う。むしろその反対におれになにか好意をもっているらしいんだ。だけどおかしいじゃねえかよう。見ず識らずのおれにあんなに関心を示すというのはよう。あれ、単なるファンじゃないと思う」 「鉄也くん、それでそのこととちかごろのあなたの変わりようと、なにか関係があるというの」 「おれそんなに変わったとは思わねえけどさあ。薄っ気味悪いじゃねえかよう。全然しらねえひとがおれにつきまとってるみてえだもん」 「いいわ、じゃあたしにまかしといて。あたし直接あのひとに会ってきいてやるわ。なんで鉄也くんにそんなに関心を示すのかって」 「会うってどうするんだ。テレビ局へ押しかけていくのか」 「そうしてもいいけど、もっといい方法があるわ。ナイト・クラブK・K・Kの楽屋へ訪ねていくのよ」 「ナイト・クラブK・K・Kってなにさ」 「あら、鉄也くんはしらなかったの。いまじゃ東京でも一流中の一流のナイト・クラブだっていうわよ。『ザ・パイレーツ』はそこの専属で、佐川哲也なんかもそこで認められてテレビへ出るようになったんだというわよ」 「へえ、おまええらいことしってんだな」 「うっふっふ、ほら、さっきあたしのお友達にあのひとの熱烈なファンがいるといったでしょ。そのひと|町《まち》|田《だ》|啓《けい》|子《こ》というんだけど、よくはやる開業医のお嬢さんなの。だからお小遣いなんかも|潤沢《じゅんたく》らしくて、はじめのうちテレビ局の出口やなんかで待ってたらしいんだけど、あのひと中年の魅力というのかしら、若い女の子のファンが凄くいるのね。そいでお啓もちまえの資力にものをいわせて、ナイト・クラブのほうへ遊びにいくのね。高校生としてはとても|早《ま》|熟《せ》た子。大学はちがってるけどあたしが頼めばなんとかしてくれるわよ」 「そいで、あのひと奥さんはあるんだろうな」 「それがないのよ、独身なのよ。だから女の子が騒ぐんじゃないの。そうとうのプレイボーイだっていう話よ」  そこが付け目だといわぬばかりに、美穂はケラケラ笑っていたが、その瞬間、鉄也は憤然としてベンチから立ち上がった。 「止せ、そんなこと。おまえにそんなことさせたくねえ」 「あら、どうして」 「どうしてって……」  鉄也はちょっと|怯《ひる》んだかにみえたが、つぎの瞬間、地団駄を踏むような調子で、 「おまえにそんなことさせたら、青山のお祖父ちゃまお祖母ちゃまにすまねえ。ナイト・クラブなんかへ出入りしやあがると承知しねえから。お啓なんてアマッ子馬に食われて死んじまえだ。そんなやつとつきあうんじゃねえぞ」 「あら、どうして? さっきホテルへ誘ったくせに。それにバージンなんていまどき自慢にならないといったでしょ」 「あれは冗談だ。いいか、おまえはこの問題から手を引くんだ。おれの問題はおれが片をつける。よけいな手出しをしやあがると、二度と付き合ってやらねえぞ」  大股にいきかける鉄也のあとから追いすがるようにして、 「鉄也くん、あんたあたしをおいてくつもり? うちまで送ってくれないの」 「送ってやりたくとも送ってやれないよ。おまえは勝手にかえれ。だけどもういちどいっとくがな。おまえがナイト・クラブへなんか出入りしていると聞いたが最後、二度と会ってやらないかんな」  鉄也は図書館へとびこむと、クロークへでも預けてあったのだろう、フル・フェースのヘルメットをかぶって出てくると、正面玄関わきの駐車場にとめてあったオートバイの鍵をはずして|跨《また》がった。美穂はおどろいて駆けよると、 「鉄也くん、あんたどうしたの、気でも狂ったの。暴走族にでもなるつもり」 「おお、暴走族にでもなんでもなってやる。そこどけ、どかないか。どかなきゃ跳ねとばしてしまうぞ」  美穂が悲鳴をあげてとびのいたとき、鉄也を乗せたオートバイは物凄いスピードで走り出していた。けたたましい爆音をあとにのこして。      三  田園調布の町は東急|目《め》|蒲《かま》線の同名の駅から、西北にむかって放射線状に道路がひろがっており、|銀杏《いちょう》並木の美しい、東京都内にあってはまずは最高級にぞくする住宅街であろう。しかし、四月八日というその季節では銀杏もまだやっと芽吹いたばかりで、それがかえってこの落ち着いた高級住宅街を、すがすがしくて新鮮なものによそおうていた。  その田園調布のいっかくにある法眼家は、金田一耕助が訪れたことのある、昭和二十八年ごろからみると二度建てかわっている。もともと東京の大空襲をおそれて、急遽地方へ|疎《そ》|開《かい》していったひとの邸宅を買い入れたものだから、法眼家の家風や家族構成に合致せぬ不自由さが多かったうえに、病院坂の本宅が法眼病院の一部として包含されることになり、ここをいよいよ本宅として根をおろすことにきまったので、弥生の好みにあわせて建てかえたものである。それが第一回の改築で昭和三十三年のことであった。  ひとつには昭和二十八年に結婚して、アメリカへわたった滋と由香利の夫婦のあいだに、その翌年鉄也という男の子がうまれ、しかも、その三人が遠からず帰朝するであろうその際にそなえて、親子三人が水入らずで暮らせるようにとの、弥生の配慮から改築が行なわれたのである。  そのころすでに法眼家は、付近の眼をそばだてしめるほどの豪邸になっていたが、その後五十嵐産業の事業が成功して、商社としてしだいに頭角をあらわすにつれ、周囲の土地を買い足してさらに増築をおこなったので、いまや三三○○平方メートルの敷地をもつ法眼家は、法眼御殿とよばれるほどのあっぱれ豪邸に成りあがっている。  それでいてこの豪邸に住む法眼家ゆかりの人間といえば、まことに微々たるものだった。弥生を頂点として滋・由香利の夫婦に一子鉄也。滋・由香利夫婦のあいだには鉄也しか子供がうまれなかったのである。ほかに鉄也にとっては曾祖母にして祖母なる|五十嵐《いがらし》|光《みつ》|枝《え》がいるが、彼女はいまや家族と奉公人の中間の地位におかれている。  ほかに四十代と三十代と二十代と三人のお手伝いさんがいるが、それらのお手伝いさんも昭和二十八年時代とすっかり顔ぶれがかわっている。そのほかにもうひとり、この三月のはじめから住みこんだ女性がいる。|遠《えん》|藤《どう》|多《た》|津《つ》|子《こ》という四十がらみの老練の看護婦である。弥生ももう八十二、三歳、ちかごろはとかく健康がすぐれないので、主治医の|喜《き》|多《た》|村《むら》博士の指示で、遠藤多津子を付き添い看護婦として住み込ませたのである。喜多村博士はいまは亡き弥生の夫、法眼琢也の愛弟子だったが、いまでは法眼病院の院長としてよく職責をはたしている。  法眼鉄也がオートバイを駆って通用門から入っていくと、家のなかがなんとなくざわついていた。 「あら、若旦那、おかえりなさい」 「|里《さと》|子《こ》、どうしたの、表門が開いているようだが、だれかお客様?」 「はあ、喜多村先生がおみえになっております」 「喜多村先生が……? 大お|祖《ば》|母《あ》ちゃまがどうかしたの」 「はあ、急に発作を起こされたとかで、若奥様がお電話をなすったんです」 「それでパパは?」 「はあ、旦那様はゴルフでしたが、若奥様がお電話なすったので、たったいまお帰りになったところでございます」  法眼滋は五十嵐産業の社長は社長だが、すべての実権は会長であるところの祖母の弥生が握っており、弥生が閉じこもりがちになったこの二、三年は、孫の由香利が会長の職を代行している。弥生にもしものことがあったら由香利が、すべての実権を握るのだろうというのが世間の取り沙汰である。  鉄也の部屋は別館の二階にある。その階段へ一歩足をかけたままかれはちょっと|躊躇《ちゅうちょ》した。鉄也にとっては曾祖母の弥生は、このうえもなく尊敬すべき女性であると同時に、またこのうえもなく懐しい大お祖母ちゃまでもある。学齢に達して両親とともにはじめて故国の土を踏んだとき、かれの帰国をだれよりも喜んでくれたのはこの大お祖母ちゃまであった。鉄也は幼いときから|頭脳《あ た ま》がよかったが、その頭脳のよさをちっとも外に見せようとしない、そのおおらかな性質を、弥生はこよなく愛したのである。小学校の三年のときかれはまた両親とともに西ドイツへ去っていったが、中学へ入るについて日本へよびもどされて以来、鉄也はこの曾祖母にとってこのうえもない誇りとなっており、眼のなかへ入れても痛くないほどの可愛い存在になっていた。それに対して鉄也もまたこの世にも偉大な大お祖母ちゃまを、このうえもなく尊敬し、愛し、かつ慕った。  そういう慕わしい大お祖母ちゃまにもかかわらず、鉄也はこの三年間いちども顔を見たことがない。弥生は本館の奥のひと間に閉じこもったきり、由香利以外のだれとも会おうとしないのである。 「大お祖母ちゃまはね、ああいう気位のたかいおかたですから、お年をとられたところをどなたにも見られたくないの。でも、あなたのことはしじゅう心にかけていらっしゃるんですから、期待にこたえてあげなくてはいけませんよ」  由香利も若いころからみると、すっかり落ち着いた中年婦人になっている。弥生の|薫《くん》|陶《とう》よろしきをえて、すごく頭脳の廻転のはやい女性だというのが世間の評判らしいが、家庭にあってはみじんもそういうところをみせぬこの母を、鉄也はこのうえもなく愛し尊敬していた。と、同時に曾祖母と母に頭をおさえられながら、それでもなおかつ母を熱愛してやまぬ好人物の父も好きだった。  鉄也が階段に一歩足をかけながら、躊躇したゆえんのものはそこにある。引き返して本館のほうへいき、両親をとおしてでも大お祖母ちゃまにお見舞いを申し述べるべきかどうか……げんにかれは階段へかけた足をおろして、くるりと廻れ右をしたのだけれど、そのとたん、 「鉄ちゃん、鉄ちゃん」  と、大声でわめきながら小走りに走ってくる、光枝の小山のようにふとった体が眼に入ると、 「おばあちゃん、またあとで」  と、いい残して、そのまま階段を駆けのぼると、自分の部屋へとびこんでなかから鍵をかけてしまった。  対人関係に関するかぎり、好き嫌いのひじょうに少ない鉄也なのだが、どういうわけか、父方のこの曾祖母にして祖母なる女性だけはどうしても好きになれなかった。光枝も七十を越えているのだろうが、豚みたいな肥満体は二十八年時代とちっとも変わっていなかった。さすがにちかごろは婦人服党に転向しているが、くびれた二重顎は昔のままで、趣味の悪さは鼻持ちがならなかった。  しかし、鉄也がこの父方の祖母をうとましく思うのは、そういう知性と教養の低さを指摘するのではない。その点むしろ鉄也は同情しているくらいなのだが、どうしてもかれの鼻持ちのならないのは、このひとはむやみに愚痴が多いのである。光枝の愚痴の多いのにも、多少は同情出来るのである。由香利の腹に二人以上子供が生まれたら、その一人をもって五十嵐家を相続させる予定であった。それだのに鉄也一人しか生まれなかったので、五十嵐家の将来はいま中ブラリンになっている。光枝の愚痴はそこからはじまり、そこで終わるのである。  鍵のかかったドアの内側に立って、鉄也はしばらく外の気配に耳をすましていた。さいわい光枝は階段のしたから引き返したらしく、本館のあわただしい気配にひきかえて、別館のほうは森閑としずまりかえっている。鉄也はあらためて自分の部屋を見わたした。  豪勢な部屋である。十二畳くらいのその洋間の壁には三つの額がかかっている。それは昭和二十八年、金田一耕助が改築されるまえのこの家をおとずれたとき、ホールの壁にかかっていた琢磨と鉄馬、琢也と三代の写真である。この三つの額をここへ移したのは、つねに鉄也の自覚を刺激しようという弥生のかしこい配慮からであったろう。  壁際の書架にギッチリ本がつまっている。それらの多くは鉄馬や琢也の蔵書のなかから、かれの理解にたえうるであろうものを母の由香利がえらんで当てがったものである。したがって文学書も多く、琢也の歌集がならんでいることはいうまでもない。ほかに初歩の医学書や経済学入門のような本があるのは、曾祖母と父の希望によるものであろう。それに対して西洋のクラシック音楽の本がならんでいるのは、鉄也のせめてもの抵抗を表現するものとしてうなずけるのだが、その一部に内外の推理小説の本がズラリと並んでいるのはどうしたことか。鉄也の意見によると推理小説こそ、もっとも知性にとんだ消閑の読みものだそうで、これには母の由香利はいつも苦笑を禁じえなかった。ほかに大きなグランド・ピアノにテレビとステレオ。おびただしいレコードは全部西洋のクラシック音楽に関するもの。なかにつけてもオペラの曲が多いのは、かれのほんとうの希望がどこにあるか示しているといえよう。  かつてこの部屋は鉄也にとって、誇り以外のなにものでもなかった。自分はこういう厚遇に|価《あた》いする人間として、この世に生をうけてきたのだ。それだけなんらかの形で、世の中に貢献できるような人物にならなければならない。この豪勢な部屋のたたずまいは、いままでつねにかれに責任感をもたせ、かれを|鼓《こ》|舞《ぶ》|鞭《べん》|撻《たつ》してきたのである。  しかし、いまはちがっている。自分はこういう厚遇に、全然価いしない人間なのだという観念が、鉄也の表情を兇暴なものにし、その表情の底には恐怖と絶望が凍りついている。  鉄也はもういちどドアのそばにより、外のようすをうかがっていたが、やがて書架にギッチリ詰まっている、おびただしい本のなかから一冊の本を抜きとった。それは経済学入門書である。そのページを|繰《く》るまでもなく、そこにはさまれている一通の封筒がすぐ発見される。封筒のなかから出てきたのは、キャビネ型の一枚の写真である。  鉄也は臆病なほうではない。しかし、その写真のおもてに眼をやったとたん、おもわず視線を他にそらせた。それから深呼吸一番、勇気をふるって写真のおもてに視線をもどした。  鉄也が一瞬眼をそらしたのもむりはない。それは世にも恐ろしい写真であった。画面一杯に男の生首が大きくクローズ・アップされていた。顔中ヒゲに埋まったような男の生首であった。逆立つ長い頭髪を束ねて、風鈴のように宙にぶら下げてあるらしい。写真は生首のやや下方から撮影されたらしく、血にまみれた切断面の無残さは眼をおおうばかりである。  この写真はこの二月三日、差出人不明で鉄也のもとに送られてきたものだが、もちろんそれには手紙がついていた。新聞からでも切り抜いたらしい活字の文字の羅列であった。鉄也は怒りにまかせてその手紙を、ズタズタに引き裂いたうえ焼きすてたが、邪悪にみちたその文句は、印刷された文字となっていまもなまなましく脳裡に刻みこまれている。 [#ここから1字下げ] 法眼鉄也よ。 おまえは法眼滋の子ではない。 おまえのおやじはこの生首のぬしなのだ。 その証拠におまえは鏡をのぞいてこの生首と見くらべてみろ。眉、眼、鼻、口、顔の輪郭、そこに恐るべき相似を発見するだろう。おまえがこの生首にならってヒゲをのばすなら、その相似はさらに恐るべきものとなるであろう。 おまえのおふくろの由香利という女は、若いころ無軌道そのものであった。多くの男と肉体的交渉を持ち、情を通じた。この生首の男もそのひとりなのだ。 おまえのおふくろはこの男のタネを身ごもったまま、五十嵐滋と結婚したのだ。 それがウソだと思うならおまえの誕生日と、両親の結婚記念日とのあいだの日数を計算してみろ。そこに一か月ほどの誤差があることを発見するだろう。 それにもかかわらず滋がそれに気がつかないのは、滋もまた結婚以前から、おまえのおふくろと肉体的交渉を持っていたからなのだ。 おまえのおふくろは淫婦であり、姦婦であると同時に殺人者なのだ。生首の男を殺害し、それから二日ののち滋と結婚してアメリカへ飛んだのだ。 では、おまえのおやじ、即ち生首のぬしはだれなのか。それをしりたくば昭和二十八年、即ちおまえのうまれた年の前年の、九月二十一日以降の東京の新聞を調べてみろ。 ああ、恐ろしい。 病院坂の首|縊《くく》りの家で発見された、あの生首風鈴殺人事件。その事件の犠牲者が即ちこの写真のぬしであると同時におまえのおやじなのだ。 おまえは法眼家とは縁もゆかりもない人間なのだ。おまえはカタリだ、|贋《にせ》|者《もの》だ。宿無しだ。地位も身分もない|蛆《うじ》虫みたいな存在なのだ!![#「!!」は底本では「!!!」] [#ここで字下げ終わり] 「おまえは法眼家とは縁もゆかりもない人間なのだ。おまえはカタリだ、贋者だ。宿無しだ。地位も身分もない蛆虫みたいな存在なのだ!![#「!!」は底本では「!!!」]」  最後の一句はたからかに鉄也の耳底に鳴り渡り、やがてガンガンと頭のなかを駆けめぐった。      四  ちょうどそのころ喜多村博士の注射によって、弥生はやっと心臓不安の発作から回復していた。博士はそれを見とどけておいてから、由香利を物陰に招いて質問していた。 「なにかきょう、大奥様を興奮させるような出来事でもあったのですか」 「いいえ、別に……ちょっとむつかしい取り引きがございまして、祖母に相談にのってもらっていたんです。そしたら急に心臓発作が起きたんですの」 「困りましたな。なにしろお年がお年ですから、気をつけてあげてくださいよ。ご商売のほう、もうばんじあなたでよろしいんじゃございませんか。世間ではもっぱらそういう評判ですが……」 「とんでもございません。あたしなんかまだまだ……それにああいう|利《き》かぬ気のひとでございますから」 「それはごもっともでございますが、そういううちにも気をつけてあげてくださいよ。ではまたなにか変わったことがあったらお電話ください。そういうことはないと思いますが……」 「ありがとうございます。あたしももう大丈夫だと思うんですが、なにかのときにはまたよろしくお願い申し上げます」  主治医を送り出すとその足で、由香利はホールのほうにいる滋のところへ急いでいった。  ゴルフ場から呼び戻されたという滋は、軽装のままクラブを振って、床のボールを打つまねをしていたが、由香利の顔を見ると心配そうに、 「お祖母ちゃま、どう……?」 「ごめんなさい、お電話をしたりして。でも、いちじはどうなることかと思ったもんですから」  滋もむかしの人見知りをするくせは抜けて、いまではあっぱれ少壮実業家としての貫禄をそなえている。年はかれこれ四十だろう。たしか由香利よりふたつ年下のはずである。放っておけば光枝みたいにぶくぶく太る|性《たち》らしいが、本人もそれを自覚しているのかゴルフ、乗馬、テニスなどでできるだけ|贅《ぜい》|肉《にく》を落とすように心掛けているので、ほどよく体がしまっている。もともと運動神経の発達したほうではないが、由香利の指導よろしきをえて、いまでは実業界ではスポーツマンでとおっている。度の強い眼鏡をかけているが、その眼鏡のおくの眼は、だれに対しても優しさにみちている。 「それはそうと、なにかあったのかい、お祖母ちゃまが心臓発作を起こされるような原因が?」  由香利を見るとき眼鏡のおくのこのひとの眼は、いっそう優しさをおびるのである。由香利はかるく|頭《かしら》を左右にふって、 「それがいっこう心当たりがございませんの。古池商事さんのいって来られたことが、少し虫が好すぎるようだと、多少気を悪くしていたようですが、それくらいのことで……やっぱり|年《と》|齢《し》なんでしょうねえ」  由香利は中年太りということをしらぬ体質らしい。もとよりすらりと|均《きん》|斉《せい》のとれた美貌にいっそう|磨《みが》きがかかって、ちかごろの彼女は照りかがやくばかりの美しさである。いかに弥生という後ろ|楯《だて》があるとはいうものの、激烈な企業戦争のなかで戦っていくには、およそ神経をすり減らさなければならないのだろうが、それが彼女にとっては少しも消耗とはならず、かえって肥料となっているのではないか。法眼由香利の機略胆力といえば企業界では有名なものだが、それがちっとも表面へ出てギスギスならないところは、やっぱり祖母譲りなのだろうと財界ではもっぱら評判である。 「どうしたの。少し顔色が悪いようだが……」 「だってやっぱりショックだったんでしょうね。あのひと肉体的にはあのとおり衰えていても、精神的には不死身だとばかり思っていたんですもの。あなた」 「うん?」 「ここへきて、あたし心細いのよ」 「ああ、そうか、そうか」  滋は眼鏡の奥でうれしそうに笑いながら、そばへよって強く由香利を抱きしめて、唇のうえに唇をかさねてやった。  こういうとき滋はいつも内心得意なのだ。あのじゃじゃ馬をこういう柔順な妻に飼い馴らしたのは自分ではないか。なるほど自分は仕事のうえでは無能かもしれないけれど、この女の長所を伸ばし、短所を|矯《た》めたのはすべて自分という亭主の力ではないかと。  しかし、滋はしらなかったのである。その日、弥生と由香利が用談中、看護婦の遠藤多津子がひと束の手紙を持って入ってきたということを。そのひと束の手紙のなかに本條直吉の手紙がまじっていて、それが弥生の心臓発作の原因になったのだということを、由香利はなぜか夫の滋にも話さなかった。    第四編 [#ここから4字下げ] 本條直吉連日酒びたりのこと  「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」同窓会のこと [#ここで字下げ終わり]      一  等々力元警部は生涯その日の自分を許すことができないであろう。老先長からぬ元警部だが、おそらくこの世に|訣《けつ》|別《べつ》を告げるその瞬間まで、その日のことを思い出すたびに、|屈辱《くつじょく》と自責の念に|肚《はら》の底まで煮えくりかえる思いがすることだろう。  その日とはすなわち昭和四十八年四月十一日のことである。あとから思えばその日こそ本條直吉の見えざる敵が|牙《きば》を剥き出し、その邪悪にして|血腥《ちなまぐさ》い意志を行動に移してみせ、その決意のなみなみならぬものであることを、世間に|誇《こ》|示《じ》した日なのである。  だいたい等々力元警部は金田一耕助からきいた本條直吉の告白なるものを、そのまま|鵜《う》|呑《の》みにすることができなかった。半信半疑というよりは疑惑の念のほうが強かった。  金田一耕助は昭和二十八年の事件以来、本條徳兵衛と直吉親子の関係を、つぶさに観察し研究してきている。あの事件以前の直吉はヤミとギャンブルに|憂《う》き身をやつしているような、この世のゴミみたいな小悪党にすぎなかった。それに反しておやじの徳兵衛はそれをハラハラしながら、|拱手《きょうしゅ》傍観している気のよい親に過ぎないように見受けられた。少なくとも直吉はあきらかに徳兵衛を小馬鹿にしていた。  ところがあの事件を契機として、本條家ではどんでん返しが起こったのである。徳兵衛は親の権威を回復し、あのやくざの悪党がりの直吉はすっかり神妙になって、徳兵衛のいうことならなんでも|唯《い》|々《い》|諾《だく》|々《だく》になってしまった。あの世間のゴミみたいだった小悪党が、なぜああも神妙な人格に|豹変《ひょうへん》したのか。金田一耕助はこの親と子の心理的|葛《かっ》|藤《とう》に興味を|抱《いだ》いたのである。  かれはとくに念をいれて直吉にあの晩のことを訊ねてみた。 「そういやあわたしはあの晩から、おやじに頭があがらなくなっちまったんです。出掛けるまえからそうでしたよ」  直吉は正直に答えた。 「出掛けるまえからとおっしゃると?」 「いえね、女から妙な電話がかかってきたでしょ、正直なところわたしは薄気味悪かった。そしたらおやじがいっしょにいくといい出したんです。年寄りの冷や水はよせといったんですが、ほんとのことをいうとわたしゃおやじについてきて欲しかった。頭から馬鹿にしながら、心の中では甘えがあったんですな」 「あのとき兵頭房太郎君もいっしょでしたね」 「あいつは昔っから出しゃばりですから、なににでも首をつっこみたがるんです」 「それから三人揃ってあの家へ出向いていかれたわけですが、あの生首を発見されたときの三人のようすはどうでした。あれはあなたにとって生涯の一大事ですから、いまでも憶えていらっしゃると思うんですが」 「いえね、金田一先生、この|年《と》|齢《し》になると|見《み》|栄《え》も外聞もありませんから、万事正直にぶちまけますが、あんときわたしゃわっと叫んで逃げ出そうとしましたよ、あれが正真正銘の生首とわかったときにゃね。なにもかも無我夢中で、腰を抜かさなかったのがふしぎなくらい。房の野郎も似たり寄ったりで、ふたり|縺《もつ》れるようにして、あの部屋をとび出そうとしたんです。そこでふっとおやじのことを思い出してふりかえってみると……」 「お父さんはどうしてらしたんです」 「おやじは生首の下に立ったまま、まじろぎもしないで|視《み》|詰《つ》めてましたよ。だいたい背伸びをして手をのばし、あいつにさわってみて、あれが正真正銘まちがいなしの生首だってことを、たしかめたのもおやじなんです。そうだ、そのときだったかもう少しあとだったか、おやじが妙なことを|呟《つぶや》いてたのを、わたしゃいま思い出しましたよ」 「妙なこととおっしゃいますと……?」 「こんな馬鹿な! こんなはずが……とかなんとか、そういう意味のことばでしたね」 「すると、お父さんはこの場にこんなものがあるべきはずがないということを、しってらしたふうだったとでも……」 「いまから考えるとそうだったかもしれません。しかし、そのときにゃわたしだって、こんな馬鹿なことがと思いましたからね」 「なるほど、それで……?」 「わたしはおやじを引っ張って逃げようとしたんです。いや、逃げ出すんじゃなく、病院坂のうえの交番へ届け出ようといったんです。房もおなじ意見でした。しかし、おやじは|肯《き》きませんでした。おやじはこういうんです。それじゃお客さんの注文をどうするんだと。冗談じゃない、おやじ、これは人殺しだぜ、殺人事件なんだぜ、お客さんの注文をどうのこうのっていってる場合じゃねえ。悪くするとこっちに疑いがかかるかもしれねえ、早く、早くって、恥ずかしながら房もわたしもシドロモドロでした」 「ところがそのとき、お父さん少しも騒がずというわけですか」 「そうなんです、金田一先生、そんときおやじはこういったんです。直吉も房もなにをそんなにガタガタしてるんだ。見ろ、この生首を。こいつが切り落とされたのは、きのうやきょうのことじゃねえ。もうそろそろ腐りかけているじゃないか。交番へ届け出るのが半時間や一時間遅れたってどうってことはねえ。それより商売|冥利《みょうり》ってことを忘れちゃいけねえ。それ、見ろ。お客さんはちゃんと約束どおり、お代をここへおいていってくだすったじゃねえかって……」 「それからあなたはお父さんのご命令どおり、生首の撮影にとりかかられたんですね」 「金田一先生、そうせざるをえなかったんです。わたしも房もまだガタガタしてましたが、おやじはもうすっかり落ち着いてました。そして繰り返し繰り返しわたしにいってきかせたんです。直吉、これが商売というもんだぞ。あとでサツの旦那がたに|脂《あぶら》を|絞《しぼ》られるかもしれねえけど、そんなことを|惧《おそ》れて商売をなおざりにしちゃいけねえと、房やわたしを|叱《しっ》|咤《た》|鞭《べん》|撻《たつ》しながら、みずからマグネシュームを|焚《た》いてくれたんです。わたしゃまだガタガタしてましたが、おやじの命令どおり動いているうちに、ふしぎに気が落ち着きました。それ以来わたしゃおやじに頭があがらなくなっちまったんです」 「つまりお父さんの持っていらっしゃる大きな人格、強い個性に打たれたってわけですか」 「金田一先生、人間危急存亡のさいに立ち至ると、それぞれの真価を発揮するんじゃないですか。あのときおやじは大将の|器《うつわ》を発揮した。それに反してわたしは自分が意気地なしの|雑兵《ぞうひょう》に過ぎないことを思いしらされた。当然おやじに頭があがらなくなり、おやじのいうことさえ聞いていれゃ、間違いなしと思いこむようになったんです。事実また本條写真館はトントン拍子に芽が出てきたし、わたしも稼業が面白くなってきた。まさかその背後で恐喝という、黒い手段がはたらいていようとは、最近まで気がつかなかったんですがね」 「いや、ありがとうございます。ときにあのときの乾板ですがね、生首を撮影した……たしか五枚だったと記憶してますが、あれはその後どうしました。たしかいちおう警察へ没収されたようでしたが」 「ああ、あの乾板……あれはだいぶのちになって下げ渡されましたよ、五枚とも。門外不出という厳重な条件つきでね」 「では、いまお宅にあるわけですか」 「捜せばどこかにあるでしょう。なにしろあのとおり保存癖のつよいおやじですからね。わたしはその後いちども見たことはありませんが」  以上が昭和四十八年四月一日、本條直吉が緑が丘マンションの金田一耕助事務所を訪れたときの一問一答の一部である。  しかし、金田一耕助はただ念を押してみただけのことである。かれはこういう一問一答がなかったとしても、まえからしっていたのである。本條直吉があの事件を契機として、人間が変わったように神妙になり、堅くなっているということを。      二  等々力元警部はそれをしらなかったのだ。人間の初対面の印象ほど恐ろしいものはない。警部時代の等々力大志がはじめて本條直吉にあったのは、昭和二十八年九月七日、|高《たか》|輪《なわ》署においてであった。直吉は八月二十八日の晩、病院坂の首|縊《くく》りの家で|執《と》り|行《おこ》なわれた、奇妙な結婚式について届け出たのである。その届けをきいたのは、当時の高輪署の捜査主任|真《さな》|田《だ》警部補であったが、おなじ部屋に等々力警部もいあわせた。  あれからもうそろそろ二十年たつ。二十年という歳月は決してみじかいものではない。その間ずいぶんいろんなことがあった。高血圧の真田警部補は高血圧がたたって故人となり、あの当時ヒラ刑事に過ぎなかった|加《か》|納《のう》刑事は、その後警部補に昇進し、金田一耕助と二、三事件をともにしたが、その後さらに昇進していまでは警部となって本庁勤務である。そして、その下に大志の倅栄志警部補が配属されているのである。  等々力元警部はうたた感無量なるものがあったが、しかし、いま思い出しても直吉の初対面の印象ははなはだよろしくなかった。  ふてくされてずうずうしく、うわめづかいに相手の顔色をよむようなところが|胡《う》|散《さん》臭く、油断がならぬように思われた。その後あの事件が起こったので、あらためて直吉の素行調査が行なわれたが、それはいよいよ警部の心証を害する以外のなにものでもなかった。だから金田一耕助がいかに直吉の転生を力説しても、等々力元警部が半信半疑たらざるをえなかったのもむりはない。  その本條直吉に等々力大志は一昨日、すなわち金田一耕助がこの話を持ち込んできた翌日、都内の某所でひそかに会見しているのである。紹介者はもちろん金田一耕助で、自分のもっとも信頼しうる人物として直吉に推薦し、このひとをあなたの身辺警護につけるから、本條会館内どこでも勝手たるべしという、お|墨《すみ》付きをかいてほしいというのが、金田一耕助の要請であった。  直吉はもちろんその要請にしたがって、即座に名刺の裏にそのむねをしたため、判こまで押して等々力元警部に渡したが、その態度が元警部にははなはだ気にくわなかった。直吉はそのときそうとう|酩《めい》|酊《てい》していた。しかも、ふてくされたようなその態度は、昔とそう変わっているとは思えなかった。うわめづかいに相手の顔色をよむくせなど、むしろ昔のままである。  むろん貫禄もつき、風采なども昔とくらべものにならぬほど堂々としているが、それだけに|不《ふ》|遜《そん》にもみえ横柄にも感じられた。それだけならまだよかった。相手は成功者なのだから。ところが不遜にもみえ、横柄にも感じられるその底に、どこか|怯懦《きょうだ》で卑屈な面が顔を出すのである。それからひいて昔ながらのうわめづかいに、ひとの顔色をよむというしぐさになって現われるのだが、等々力元警部にはその点がはなはだ気にくわなかったのである。  しかし、元警部は気がつかなかったのだ。どんな偉大な人物でもガンを宣告されたとたん、人間が変わったように臆病にもなり、卑屈にもなるということを。しかもガンならまだいい。適当の処置をとるなり、治療法を講じればよいのだから。最悪の場合でも死期がだいたい計算できるであろうから。  それにくらべると、直吉の現在の立場ははるかに恐ろしく悲惨であった。原因がわかっていない。動機もわからない。わかっていることといえば、自分がいま生命の危険にさらされているということだけである。それがいつどの方面から、どういう方法でやってくるのか、それさえ雲をつかむようなものである。原因も動機もわからないのだから妥協のしようもない。いきおい酒の酔いをかって、死の恐怖をまぎらせるよりほかに法はないのである。不遜にもなり、横柄にもなるいっぽう、怯懦にもなり、卑屈にもなるだろうではないか。  直吉は等々力元警部をぜんぜん憶えていなかった。それでいて前身を聞こうともしなければ、現在の身分境遇を問いただそうともしなかった。金田一耕助を信頼しているといえばそれまでだが、元警部のプライドを大いに傷つけたことも事実である。  事件の起こった前日、すなわち昭和四十八年四月十日の午後四時ちょっとまえ、かれははじめて高輪の本條会館へ出勤した。かれの任務は三部交替制になっていて、午後四時から十二時までの八時間がかれの持ち時間になっていた。かれのまえの八時間、すなわち午前八時から午後四時までが金田一耕助の持ち時間であることは、等々力大志もしらされていたが、自分のあとの八時間が、だれの担当になっているのかしらされていなかった。  それについて等々力元警部が詰問すると、金田一耕助は雀の巣のようなもじゃもじゃ頭をひっかきながら、はかばかしくは答えなかった。 「いやあ、それはここで申し上げなくても、いずれ交替時間になればわかりますよ。まんざらあなたのご存じない人物じゃない」  金田一耕助はいまにも口笛を吹きそうなほど楽しそうな顔色だったが、等々力元警部にはそれがだれであるか見当もつかなかった。むかし本庁に勤めていて、その後停年で職を退いただれかれを思いうかべてみたが、これといって思い当たる人物はさらにいなかった。  それはさておき四月十日の午後四時少しまえ、本條会館の自動ドアを踏み越えて、壮麗な館内に一歩足を踏みこんだとき、等々力大志は感慨無量なるものを覚えずにはいられなかった。いや、その感慨はいまはじめて覚えるものではない。こういう奇妙な任務をおびてこの館内へ、足を踏みいれるのはきょうがはじめてだったけれど、かれもひとかどの社会人である。友人の倅や娘の結婚式に招待されて、この館内に足を踏み込んだことは二、三度ある。あの青ペンキ塗りの粗末な本條写真館のむかしをしるかれは、そのつどこの急成長に驚異の念を|抱《いだ》き、その背後にあるのではないかと思われる、暗いなにものかに疑惑の念をいだかざるをえなかったこともいちどや二度ではない。  正面フロントの大きな電子時計が四時を示した。等々力大志は自分の腕時計と見くらべておいて、かねて眼をつけておいた監事室へ入っていった。  監事室は本條徳兵衛とその後継者、直吉の二人だけの部屋だったらしい。広さは二十畳じきくらいもあろうかと思われたが、おなじ大きさのデスクがふたつあり、ひとつのデスクのうえには、いまは亡き徳兵衛の写真が飾ってあり、そのまえに大きな花輪がふたつ供えてある。花輪のぬしはふたつとも法眼弥生。  さて、もうひとつのデスクが直吉のものと思われたが、直吉のすがたはそこにはなく、その椅子には金田一耕助が横柄なツラをしてふん|反《ぞ》りかえっていた。金田一耕助のそばには中年の婦人が立っていて、かれのことばをメモにとっていた。  金田一耕助は等々力元警部のすがたを見ると、勢いよく椅子から立ち上がり、 「ホーラ、いらした。このひとは昔から時間の正確なひとでしてね」  と、ニコニコしながら、 「紹介しておきましょう。こちらがいまお話しておいた等々力大志さん。さっきもお話したように、亡くなられたご先代がお若いころ、ひとかたならぬお世話になられたかたで、いずれはこちらで重要なポストにおつきになる人物ですが、そのまえにこの会館の機構なりシステムなりを、よく見学しておきたいというご希望ですからそのおつもりで、よろしくお引きまわしを願います。等々力さん」 「はあ」 「こちらが会長の秘書兼社長の秘書だった|石川鏡子《いしかわきょうこ》さん、いまでは社長秘書専門ですがね。あなたのことは社長やぼくの口から、いろいろお話しておきましたから、当分は石川君にお引きまわし願うんですね。では、ぼくはこれで失礼」  と、|壁《かべ》|際《ぎわ》の帽子かけにひっかけてあった、あまり上等とはいえぬ合いの二重廻しをひっかけて、コソコソと逃げるように出ていく金田一耕助のうしろ姿を見送ったとき、等々力元警部はこのときほど、この男を憎らしいと思ったことはなかった。 「それじゃ館内をご案内いたしましょうか」  石川鏡子に声をかけられて振りかえった等々力大志は、改めてこの女秘書を観察する気になった。  最近亡くなった会長の秘書もかねていたというところをみると、先代徳兵衛のおめがねにかなった女性なのだろう。|年《と》|齢《し》は四十くらいだろうが、言語動作にテキパキとしたところが出てくるのは、この女のなみなみならぬしっかりものであることを示しているのであろう。 「いや、そのまえに社長にちょっとご挨拶をしておきたいんだが」 「ああ、そう、少々お待ちくださいまし。社長はいまスイート・ルームでお客さまとお会いになっていらっしゃるんですが」  と、いいながらインター・ホーンのボタンを押すと、十箇ほど並んだランプのうち、グリーンのランプがついたかと思うと、 「ああ、こちらスイート・ルームだが……」  そういう声は直吉だが、あいかわらず|酩《めい》|酊《てい》しているふうである。しかし、きのう会ったときにくらべるといくらかゴキゲンらしい。 「いま、こちらに等々力さま、等々力大志さまというかたがおみえになって、社長にお眼にかかりたいとおっしゃってるんですが……」 「ああ、ちょっと待って」  直吉は客なる人物とふた言三言応対していたらしく、 「ああ、いいよ、すぐこちらへご案内してくれたまえ。お客さんもお眼にかかっておきたいといってらっしゃるから」  そのあとから酔っ払い特有の|濁《だ》み声で、 「わっはっは」  という笑い声がきこえてきたとき、等々力大志はおやというふうに眉をひそめた。 「お客さんってどういうひと?」 「さあ、さっきここへ金田一先生を訪ねてこられたんですが、すぐお三かたでスイート・ルームへあがっていかれたので……さあ、どうぞこちらへ」  エレベーターは監事室のドアのすぐ片脇についていた。このエレベーターは監事室専用のもので、屋上まで昇れるようになっているが、いま針は九階を指している。石川鏡子がボタンを押すと、エレベーターはすぐ階下まで降りてきた。それに乗りこんで石川鏡子が九階のボタンを押すのを見守りながら、 「お客さんってどういうひと? 男のひと? それともご婦人?」 「いいえ、殿方でいらっしゃいます」 「いったいだれかな。わたしのしってる人物かな」  女秘書は答えなかった。口の固いのもこういうポストにとっては必須条件なのだろう。それに会えばわかることなのだから、これは愚問だったと気がついて口をつぐんだ。  一階から九階までといっても、エレベーターではあっというまである。 「それでは社長さんにお会いになったあとで、館内をご案内いたしましょう。出来るだけはやくうちのシステムに馴れていただかなければなりませんから」  エレベーターの出口とスイート・ルームの入口は、その間五メートルとはなかった。エレベーターの出口は少し引っ込んだところにあり、ちょっと目立たない場所になっている。  石川秘書はそこを出てスイート・ルームのまえまでいくと、軽くドアをノックした。するとそれを待ちかねていたように、なかからドアを開いたのは中年の紳士である。等々力大志も小さいほうではない。もとは一メートル七二センチくらいあったのだけれど、いまは寄る年波で寸が詰まって一メートル七〇くらい。ところがいま元警部の眼のまえに立って、人懐しそうにニコニコ笑っているのは一メートル七七、八センチくらいもあろうか、背の高い男である。年齢は五十かそれにまだ二、三年あいだがあるというところだろうが、|縞《しま》のシャツに|粗《あら》いチェックの上衣を着て、いま流行の幅の広いネクタイがよく似合う男である。スマートで|垢《あか》|抜《ぬ》けがしているので、等々力元警部は芸能人ではないかと|見《み》|紛《まご》うた。 「あら」  と、石川秘書がちょっと度を失ったように、 「ご紹介しましょう、こちら……」  と、いいかけるのを、 「いいですよ、いいですよ、石川さん」  と、相手は手をあげて制すると、 「こちとら旧知の仲なんですからね」 「えっ」  と、元警部は虚をつかれて、 「わたしあなたを存じあげてましたかね」 「いやだなあ、警部さん、わたしをすっかり見忘れちまったんですかい。メリケンのシュウじゃありませんか。むかしさんざんあなたのお世話になった……|多門修《たもんしゅう》ですよ。こんどはご同役だそうですが。なにぶんよろしく」  とたんに元警部は屈辱のために全身が|炎《も》えるようであった。かれはさっき金田一耕助が、コソコソと逃げるように帰っていったその理由が、はじめてわかるような気がしてきた。三部交替のもうひとりとはこの男だったのか。昔さんざん手を焼かせたあのチンピラやくざの。  しかし、元警部はまちがっている。昔はともあれ、多門修はいまでは|赤《あか》|坂《さか》でも繁栄を誇っているクラブK・K・Kの総支配人、その方面では隆々たる羽振りなのである。それでいてこの男は、昔もいまも金田一耕助の崇拝者で、かれの|股《こ》|肱《こう》をもって任じている。  そのときスイート・ルームのなかから直吉の、酔っ払い特有のわめき声がきこえてきた。 「け、警部さん、ま、ま、まあ入んなさいよ。あんたひどいよ、ひどいよ、き、金田一先生も。いま多門君にきいて思い出したんだけど、あんたあんとき、昭和二十八年の事件のとき、さ、さ、さんざんわたしをいたぶった警部さんなんですってね。そうそう、思い出したよ、思い出しましたよ。と、と、等々力……等々力……さあ、さあ、どうぞこちらへ」  等々力元警部が入っていくと、直吉はとっつきの洋室でテーブルにむかい、大きなガラス窓を背景として、すっかり|泥《でい》|酔《すい》していた。腕を吊った|繃《ほう》|帯《たい》はとれていたが、頬には傷跡がいたいたしい。テーブルのうえにはウイスキーのボトルとグラスがふたつ、ほかに氷塊を入れた水|壜《びん》がひとつ。 「け、け、警部さん、さ、さ、どうぞ、どうぞ。や、こ、こ、こいつは失礼、グ、グ、グラスがひとつ足りないな」  立ってかたわらのガラスのケースを開けようとして、とつぜん足をとられたのか、よろよろとよろめいたかと思うと、ドスンと大きな音を立て、二〇センチほどあがった畳のうえにうつ伏せにひっくり返って、そのままおんおん泣き出した。その狂態を凝視している多門修の眼には、|惻《そく》|隠《いん》の情がうごいていたが、等々力元警部はただ冷然として鋭く見守っている。  この奇妙なトリオをそれとなく見詰めていた石川秘書は、急に自分の立場に気がついたのか、猫のように足音のない歩きかたで部屋を出ていったが、その顔色にはふかい驚きと疑惑の色が刻まれていた。      三  さて、問題の四月十一日は|大《たい》|安《あん》に当たっていた。  等々力元警部がいかに大道易者的秘密探偵事務所を持っているとはいえ、かれはそれほど大安だの仏滅だのということに関心を持っているわけではない。それにもかかわらず等々力大志が、その日が大安に当たっているということをしっていたのは、きのう石川秘書からきいたからである。  きのう直吉はさんざん狂態の限りをつくしたのち、やっとわれにかえるとさすがに|極《き》まり悪そうに、なにやらくどくど口のなかで非礼を詫びていた。それに対して元警部は無言のまま控えていたが、多門修はさすがに如才なく、 「いや、わかりますよ。その気持ち。問題は動機ですね。動機さえわかれば犯人もわかる。万事は金田一先生にまかせておけばいいんです。それまでは及ばずながらわれわれが警備に当たりますから」  多門修はなおふた言三言お座なりをいって、 「それじゃぼくはこれで……警部さん。十二時になったら交替します。では、バイバイ」  多門修のあとから等々力大志も出ていこうとしたが、 「ああ、ちょっと、警部さん」  と、直吉に呼びとめられて元警部はその場に踏みとどまった。 「はあ、なにか……?」 「まあ、そう立っていないでそこへお掛けになりませんか」 「はあ、なにかご用で」  元警部は冷然と立ったままである。 「いえね、警部さん、金田一先生はなぜあなたの前身をかくしていらっしたんでしょう。わたしには昔|馴《な》|染《じ》みのあなただのに」 「その必要がないと思ったからでしょう」 「わたしゃいま多門君からきいてびっくらしちゃった。そうそう、多門君とわたしゃまんざらしらぬ仲じゃない。まあ、同業の|誼《よしみ》というのかな。それにK・K・Kならクラブのほうへ、ちょくちょく遊びにいきますからな」  そこで直吉はグビッと酒臭い息を吐くと、 「そうそう、あんたおやじのことをしってるかね」 「法眼家との関係ですか。法眼家を恐喝してたってこと……? それならしってます」 「なによお。金田一のやつ、金田一てえ男、そんなことまで打ち明けたのか」 「いや、そのことならわたしはまえから察してましたよ。警視庁を停年退職したとき、わたしのほうから金田一先生に打ち明けたことがあるくらいですからね」 「君が停年退職したのはいつごろのことだ」  直吉のことばはしだいにぞんざいになる。 「さあ、四、五年まえのことですかな」 「四、五年まえというと昭和四十三、四年のことだね。そうするとあの事件から十四、五年もたつ。それでも君はまだおやじに関心を持っていたのかあ」 「はあ、由来サツの人間というものは疑いぶかく、かつまた執念ぶかいものですからな。ときに多門君もしってるんですか。ご先代と法眼家との正確な関係を」 「あいつはしらん。いや、しらんらしい。ただおれが見えざる敵のために、生命の危険にさらされてると聞いて、ボディー・ガードを買って出たらしいんだ。あれでそうとうアドヴェンチュラーらしいんだな」  等々力元警部はいくらか自己のプライドが持ちなおすのを覚えた。保守的なこの元警部はいまはともあれ、その昔、さんざん手を焼かされたチンピラやくざと、ご同役に任じられたということに、はなはだプライドを傷つけられていたのである。  等々力大志が冷然として|踵《きびす》をかえしていきかけたとき、背後に当たって直吉の|呪《のろ》わしげな呻き声がきこえた。 「畜生ッ、房のやつ、房のやつ、てめえはいってえどこをほっつき歩いていやあがんだ」  等々力元警部はそのことばを聞きとがめて、足をとめるとふりかえった。 「房とおっしゃいますと……」 「そうだ、おまはんはしってたはずだ。あの晩、二十年まえのあの晩、おまはんたちが病院坂のあの家へ駆け着けてきたとき、おやじやおれといっしょに生首の写真を撮っててよう、さんざんおまはんたちに脂を絞られたひとりさあね」 「兵頭房太郎君ですね。あの子がどうかしましたか」 「よしてくれ、あの子だなんて、わっはっは。赤ん坊も三年たつと三つになるということを、おまはんは知んねえのかい。房も四十一、二、あの子だなんて安っぽくいってもらいますめえ」 「これは失礼しました。兵頭房太郎君がどうかしましたか」 「あの野郎、写真屋はいやだ、写真家になるんだって、ここをやめちまやあがった。十年ほどまえにな。もっともその間、おやじとなんかいきさつがあったのかもしんねえ。あいつはおれとちがって眼から鼻へぬけるようなやつだし、しょっちゅう古い乾板やアルバムをいじくりまわしていやあがったかんな。法眼さんとの秘密をいくらか|嗅《か》ぎつけたのかもしんねえ。馬鹿なやつだ。おとなしくしてれゃあ、いまごろはここの専務ぐらいになれたんだ。だけどあいつは才子だかんな。当座女の子のおケツばっかり追っかけまわしていやあがったが、いつの間にやら女性ヌード写真の大家とやらで、赤坂のほうに|洒《しゃ》|落《れ》たスタジオを構えやあがって……畜生ッ」  直吉がそのまま眠りこみそうになるのを、元警部はゆすり起こして、 「もし、もし、社長、眠っちまっちゃいけませんよ。兵頭房太郎君がどうしたんですか。社長は兵頭君にどうしてほしいとおっしゃるんですか」 「うう、うう、房の野郎、金髪美人のヌードを撮るんだって、ヨーロッパへ旅立ってしまやあがった。いまから四週間ほどまえによう。だからあいつはおやじが死んだこともまだしらねえにちがいねえ。房、房、はやく帰って来いよう。帰ってきておれのそばについていてくれろよう、房ァ……房ァ……」  そして、この哀れな被害妄想狂はそのまま泣き寝入りに寝入ってしまったのである。そのいぎたない寝姿を見守っているうちに、さすがに冷厳な元警部も|惻《そく》|隠《いん》の情を催さずにはいられなかった。  等々力大志はしかしいまこの酔っ払いの問わず語りから、ふたつの重大な事実をしりえた。兵頭房太郎が四週間ほどまえから外遊中であること。したがってオートバイの一件や風鈴落下事件が、それが真実であったにしろ、兵頭房太郎には関係がないであろうこと。それからおとなしくしていれば、専務になれたであろうところの房太郎がここを出ていったのは、必ずしも写真家が志望であったということだけでなく、法眼家との秘密のつながりを探ろうとして、それを徳兵衛に看破され、ここを|放《ほう》|逐《ちく》されたのかもしれないということ。  元警部はインター・ホーンのボタンを押した。監事室のランプがついて聞き憶えのある石川秘書の声がきこえてきた。 「ああ、石川君、こちら等々力だがね、社長が酔っ払って寝てしまったんだ。だれか信頼のおけるひとを二、三人よこしてください。それからあなたも来てください。九階から順繰りに各フロアを案内してもらいたいから」 「承知しました」  それからまもなく石川秘書は、ここの専務で同時に支配人をかねている|伊東俊吾《いとうしゅんご》という人物と、運転手の|加《か》|山《やま》|又《また》|造《ぞう》という男をつれてきたが、あとでわかったところによると、ふたりとも先代徳兵衛のおめがねにかなった子飼いの人物で、本條家に心の底から忠節を誓っているひとたちだそうである。 「いいですか、気をつけてくださいよ。社長はなにか被害妄想に取りつかれているらしい。そこの窓から飛びおりないものでもないから、かたときも眼をはなさないでくださいよ。では、石川君、どうぞ」  支配人と運転手の物問いたげな眼をあとに残して、等々力大志は石川秘書を|促《うなが》した。  九階から一階まで順繰りに、各フロアを案内してもらいながら、この複雑な機構をのみこむのは、一朝一夕のことではあるまいと、元警部は内心苦笑している。石川秘書も相手の前身をしった以上、その真意を計りかねたかして、ことば少なになるのもやむをえまい。 「それにしてもきょうは案外ご婚礼が少ないようですね」 「はあ、きょうは仏滅ですから」 「なるほど、いまどきの若いひとでも、やっぱりお日柄というものを|担《かつ》ぐんですかね」 「若いかたも若いかたでございますけれど、周囲がやっぱりね」 「それはそうでしょうな」 「そのかわりあしたはたいへんでございます」 「あしたはなんの日ですか」 「大安でございますから」 「ああ、そう、それじゃきれいな花嫁さんを、大勢拝見できるわけですな」  四階の弥生の間という部屋のまえを通りかかると、若い芸術家らしいのが大勢出たり入ったりしていて、入口の黒い大きなボールドには、いま売り出しの人気作家の出版記念会であるむねしたためてあった。 「ああ、こちらこういう催しごとにも席を提供なさるわけですか」 「はあ、これも事業の一環でございますから」  十二時きっかりに等々力大志は、あのいまわしい多門修にバトンを渡して引き揚げたが、なんだかひどく時間をむだにしたような気がしてならなかった。      四  その日、即ち昭和四十八年四月十一日の午後四時五分まえ、芝高輪の本條会館のまえに立ったとき、 「なるほど」  と、等々力元警部は思い、 「大安はちがったものだ」  と、感心した。  会館前小広場の自動車の出入りのあわただしさは、きのうとは|雲《うん》|泥《でい》の差である。つぎからつぎへとクルマが着いて客をおろすと、そのまま地下の駐車場へと滑り込んでいく。そうかと思うと地下の駐車場から出てきたクルマが、会館内から出てくる客を拾いあげて、|都《と》|塵《じん》のなかへ消えていく。  その日は快晴でべらぼうに暖かだったが、そのかわり本年度における第一回の光化学スモッグ警報が発令された日であった。降りる客も去りいくひとも、みんな額に汗をにじませている。 「なるほど、大安ともなればちがったもんだ」  等々力元警部はもういちど心の中でつぶやきながら、自動ドアのなかへ踏みこんだ。館内はさすがに温度調節がいきとどいているせいか、戸外の|温《うん》|気《き》はなかったが、そのかわりひとのいききのあわただしさは、会館前広場の比ではなかった。男も女もみんな盛装していて、そのなかを大振袖や中振袖のお嬢さんがたが、三々五々さんざめきながら階段をあがったり、エレベーターのなかへ消えていったりするのは、花嫁さんのお友達というところか。  そのとき正面の広い階段を新郎新婦らしきふたりがおりてきた。男は背広、女は旅行服に着更えているが、上気した顔色からすぐわる。ことに花嫁さんらしき女性が、手に小さな花束を持っているにおいてをやである。新郎新婦の背後には、両家の親戚一同らしきひとびとが、金魚のウンコよろしくつづいている。 「なるほど、時差結婚式か」  それにしてもきょうこの会館で、幾組のカップルが誕生するのであろうかと、等々力元警部はフロントのわきにぶらさがっている、黒いボールドのほうへ眼をやった。そこには、 [#ここから2字下げ] 何某様     御結婚式場 彼某様 [#ここで字下げ終わり]  と、書いた黒板が十数枚もかかっている。等々力元警部はものずきにも、それを一枚一枚かぞえていくうちに、とつぜん大きく眼を見開いた。そのなかに、 「怒れる海賊たち」同窓会様  と、いう黒板を見つけたからである。 「怒れる海賊たち」……「アングリー・パイレーツ」……元警部がどうしてこの名を忘れえよう。このグループこそ、昭和二十八年の事件で主役を演じた連中ではないか。このボールドにはアングリー・パイレーツとルビは振ってないが、あのジャズ・コンボのことであろうか。それともあのコンボのほかにも、同名のグループが存在するのだろうか。  そのとき元警部の腕にかるく|触《さわ》る人物があるので振りかえると、金田一耕助が立っていた。等々力元警部はさりげなく金田一耕助のあとについていった。耕助は広いロビーの一隅にある、ふたりむきのテーブルに元警部を案内すると、通りがかりの女の子にジュースを二本注文した。 「警部さんはやっぱり眼がはやいですね。さっそくあの黒板に眼をおつけになるとは」 「いや、いや、あれは偶然なんですが、やっぱりあれ昔の……?」 「そうらしいですね。昭和二十八年の一件の」 「先生もあの黒板から気がつかれたんですか」 「いや、わたしはまえからしってました」 「どうして……?」 「シュウちゃん、多門修君からの報告できのうしったんです。そうそう、警部さんはあの男に一役持たせたことに、だいぶ不快の念をお持ちだそうですが」 「いやあ、そういうわけでもありませんがね」 「まあ、堪忍してください。ふたりで十二時間交替はちょっとキツいなと思っているところへ、シュウちゃんがあの同窓会のことでとび込んできたもんですから」 「じゃ、多門君があの同窓会のことをしっていたんですね」 「警部さんはあの当時の『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のメンバーを憶えていらっしゃいますか」 「憶えているつもりです。復誦してみましょうか」 「どうぞ」 「まずピアノがフロリダの風ちゃんこと|秋《あき》|山《やま》|風《ふう》|太《た》|郎《ろう》。あの男、その後本名の秋山|浩《こう》|二《じ》で作曲家になっているようですね」 「いまや作曲家としては人気絶頂じゃないですか。数年まえレコード大賞の作曲部門賞をもらいましたが、毎年ヒット曲を出しているようですから」 「それからドラムの|佐《さ》|川《がわ》|哲《てつ》|也《や》、当時はテキサスの哲でしたね。あの男、その後『ザ・パイレーツ』というバンドを率いて、これまたなかなか人気があるらしいじゃありませんか。わたしなんかもテレビの歌謡番組でちょくちょくお眼にかかってますよ」 「あの男、片|眼《がん》|帯《たい》を当ててるでしょう。あれがシックでダンディだというので、女の子のあいだでひどく人気があるそうです。それから……?」 「テナー・サックスのマイアミのまあちゃんこと、|原《はら》|田《だ》|雅《まさ》|実《み》……あの男はその後なにをしてるんですか」 「原田君はその後芸能界から足を洗って、|御《お》|徒《かち》|町《まち》で原田商会なる電気器具商をやってますが、あちこちにチェーン・ストアをもって、なかなか盛大にやってるようです。まあ、成功者のほうですね」 「金田一先生は、いろんなことをご存じなんですね」 「あっはっは、これはきのうシュウちゃんからえた情報なんです。シュウちゃんは……いや、まあ、それはいいとしてほかには……?」 「ギターの屁っぴり腰の平ちゃんこと|吉《よし》|沢《ざわ》|平《へい》|吉《きち》、病院坂の首|縊《くく》りの家で、あの晩、腰を抜かした男ですね」 「そうそう、あの男はその後いろんなことをやってたそうですが、いちじ|世《せ》|田《た》|谷《がや》の|馬《ば》|事《じ》|公《こう》|苑《えん》のそばのボーリング場のマネージャーをやっていた。ところがボーリングがいまや駄目でしょう。そこでボーリング場変じて日曜大工センターということにあいなった。いまそこのマネージャーをやっていて、まあ、いちおうひとかどにはやっているそうです」 「ときにもうひとりいましたね。見習いの|加《か》|藤《とう》|謙《けん》|三《ぞう》、ケンタッキーの謙坊」 「いや、あの男ももう坊やという年頃じゃない。そろそろ四十でしょうからね。あの男いま銀座で流しの演歌をやってるそうです。アコーディオンを弾きながらね。歌はそれほどうまくはないが、そのレパートリーの広いことといったら、大正時代の『カチューシャ』や『枯れすすき』というようななつメロから、現代のエイト・ビートにいたるまで、お客さんの注文に応じて、こなさざるはなしというわけで、これまた結構やってるそうですよ」  等々力元警部は相手の瞳を|覗《のぞ》きこみながら、 「金田一先生はどうしてそういう情報をご存じなんですか。あれからずうっとつづけて、あの連中のその後のなりゆきに注目していらしたんですか」 「まさか。わたしだってそれほどの|閑《ひま》|人《じん》じゃありません。シュウちゃんから聞いたんですよ。それもきのうの朝早く」 「じゃ、多門君があの連中を……?」 「警部さん、あなたは佐川哲也のことをかなりよくご存じだが、たったひとつ見落としていらっしゃることがあるようですね」 「どういうこと?」 「『ザ・パイレーツ』はテレビやなんかにもよく出ますが、本職はナイト・クラブK・K・Kの、専属バンドなんですぜ」  等々力元警部の眉が思わず吊り上がった。 「おわかりでしょう。昭和二十八年の事件のさい、いちばん疑われたのは佐川哲也でしたね。ところがそこへ横合いからとび出してきたのがシュウちゃんこと多門修。おかげで佐川哲也の容疑がいっぺんにふっとんだ。そこで救われた哲ちゃんと救ったシュウちゃんとのあいだに、奇妙な友情が交流しはじめた。シュウちゃんのほうがたしかふたつ三つ年上のはずです。そこで兄貴風を吹かせてなにかと面倒をみているうちに、シュウちゃんおいおい立身出世あそばした。そこで佐川君が『ザ・パイレーツ』なるバンドを組織して、シュウちゃんに売り込んだところが、これがなかなかよろしい。ジャズはもとより、ラテンめいたものでもフォークでも演歌でもなんでもこなす。そこで専属ということになってるうちに、各放送局から眼をつけられたということですね」 「なるほど、それは美談ですな」 「まあ、そういうこってす。したがってシュウちゃんと佐川君、しょっちゅう接触をたもってる。ところが佐川君のとこへ二週間ほどまえに変な招待状が舞いこんだ。それがきょうの同窓会の招待状なんですね」 「それがどうして変なんですか」 「だって世話人、即ち差出人の名前が、秋山浩二君と佐川哲也君の連名になっている。ところが佐川君には全然身におぼえのないことなんですね」  等々力元警部はドキッとしたような瞳を、金田一耕助のおもてにすえて、 「じゃ、だれかのいたずら……?」 「と、しか思えないんですね。そこで佐川君さっそく秋山君に電話で連絡した。このふたりは似たり寄ったりの商売ですから、その後もつきあいがつづいてるんですね。ところが秋山君も大いに面くらってるところだった……」 「と、いうと秋山君にも身に憶えのないということ……」 「そうです、そうです。だいたいその招待状というのか案内状というのか、こういう文句なんですね。時候もようやく春めいてきたから、ここらでいちど昔の仲間が集まって、昔話を懐しむと同時に、お互いの近況を語り合おうではないか。そうして旧交を温めておくのも、今後お互いの人生にとって無駄ではあるまいと思う。と、まあ、そういう文章で、会費は五千円、時日は四月十一日、午後六時から八時まで。場所は高輪の本條会館弥生の間となっていて、世話人として秋山、佐川両君の名前が刷ってあるばかりか、ごていねいに出欠をとる返信用のハガキまで入っている。ハガキの宛名は秋山君のところになってるんですね」 「それ、印刷してあるんですか」 「はあ、ちゃんと立派な鳥の子の用紙に|清朝《しんちょう》体の活字でね」 「だれがそんなもん、先生のところへ持ち込んできたんですか」 「いや、それはもう少し待ってください。そこで佐川、秋山両君狐につままれたような気になった。しかし、まあ、もう少しようすを見ていようではないかということになったというのも、どことどこへこういう案内状が発送されているのか、それさえ見当がつかない。するとまもなく電気器具商をやってる原田雅実君から返事がきた。それにつづいて銀座で流しをやっている加藤謙三君、さいごに日曜大工センターの吉沢平吉君。考えてみるとこの三君しかいないわけです、『怒れる海賊たち』の同窓生は。リーダーだったビンちゃんこと|山《やま》|内《うち》|敏《とし》|男《お》君はあのとおりだし、妹にして妻だったコユちゃんこと|小《こ》|雪《ゆき》という子は、遺書をのこして|失《しっ》|踪《そう》し、いまだに遺体さえ発見されていないんですからね」 「それでその三人はどうなんです。みんな出席するという返事なんですか」 「はあ、みんな欠席という文字を消して出席のところに丸がついているばかりではなく、それぞれコメントがついているんですね。まことに|時《じ》|宜《ぎ》をえた催しで感謝しているとか、この機会にぜひ旧交を温めてほしいというようなね」 「するとその三人はこれがいたずらだとは全然気がついていないんですか」 「気がついていないか、あるいは気がついていないふうを装っているのか……」 「あっ! それじゃその三人のなかにいたずらの犯人がいるとでも……?」 「ねえ、警部さん、こうなるとだれかれなしに疑いたくなるだろうじゃありませんか。だっておかしいのは、原田雅実君ですね、電気器具商をやっている……この男とはその後もつきあいがあったそうです。ちょくちょく客をつれてクラブK・K・Kへ遊びにもくるし、秋山君がレコード大賞をもらったときも、お祝いをもって駆け着けてきたそうです。ところが加藤謙三君が銀座で流しをやっているらしいという噂はしっていても、住所なんて全然しらなかったそうですし、日曜大工センターの吉沢平吉君にいたっては、秋山君も佐川君も消息さえしらなかったというんですからね。吉沢君のほうからよろこんで、秋山くんのところへ電話をかけてくるまではね」 「なんだか薄気味悪い話ですね」 「そう、たしかに薄気味悪い話です。そこで秋山君と佐川君が相談して、この家へ電話で聞き合わせてみたんですね。先月の三十日のことだったそうですが、こちらの返事によると、そういう申し込みはたしかに受けており、弥生の間は当日、……即ちきょうのために空けてある。用意万端整えておくからどうぞご安心をというんだそうです。では、どういう人物が申し込んだかと|訊《たず》ねると、電話の申し込みであったからどういう人物であったかわからないが、費用も過分に|頂戴《ちょうだい》している。|剰《あま》った分は当日清算するつもりであるからご安心ください……だいたいこんな調子だったそうです。それでそういう申し込みがあったのはいつかと秋山君が念を押して訊ねると、先月の二十七日の早朝であり、そのとき予算について問い合わせがあったので、だいたいのことを答えておくと、翌二十八日には現金書留で過分のものが届いたから、どうぞご安心くださいというんだそうです」 「先生、先月の二十七日早朝というと、本條直吉氏にたいする第二の襲撃が失敗した、その翌日のことじゃありませんか」 「そうそう、風鈴落下事件のあった翌朝のことですね」  ふたりはシーンと黙り込んで、そそけ立ったような顔を見合わせた。名状することのできない無気味ななにかがそこにある。 「ねえ、警部さん、わたしがこれだけのことをしっていて、なぜ適当な手を打たなかったかというと、しるのが遅過ぎたんです。きのうの朝シュウちゃんから聞いたばかりなんですね。シュウちゃんはシュウちゃんでおとといの晩佐川君からきいたんだそうです。これはこういうことなんです」  金田一耕助はもう一本ずつジュースを注文すると、 「シュウちゃんはクラブK・K・Kの宿舎……かれはまだ独身ですから、クラブの一隅に宿舎をもっているんですね、その宿舎へおとといの晩、佐川君が例の招待状だか案内状だかを持って相談にやってきた。かれも時日が切迫してきたのでさすがに不安になったかして、シュウちゃんのところへやってきたんですね。そこでシュウちゃんひととおり話をきくと、大いに驚き佐川君をつれてきのうの朝、わたしのところへやってきたわけです」 「で、先生はどういう手を……?」 「どうもこうもありません。いまとなっては手遅れですから、さりげなく会を進行させるようにといっときましたがね。なんなら途中でシュウちゃんを割り込ませようということになってるんです。ただ、あなたとふたりで二部交替はきついと思ってたやさきですから、シュウちゃんを抱き込んで三部交替にしたというわけです」 「で、直吉氏のほうは大丈夫なんですか」 「あっちはいまのところ大丈夫。いまスイート・ルームですが、珍客が大勢きていますから」 「珍客というと?」 「まず法眼夫妻、法眼滋氏と夫人の由香利さん」 「法眼夫妻がきてるんですか」 「なあに、あの夫妻の|媒酌《ばいしゃく》人になってるご婚礼が、今夜ここで挙行されることになってるんだそうです。それに滋氏のほうはここの非常勤重役だそうですから、ちょくちょく顔を出してもふしぎはないわけですね。ほかに鉄也君と徳彦君」 「法眼家の倅と本條家の息子ですね」 「そうそう、鉄也君はなにか直吉氏に会って、直接訊ねたいことがあるふうですが、両親がいるので切り出しかねているらしい。まさか今夜ここで両親が媒酌人をつとめるとは気がつかず、直吉氏を訪ねてきたらしい。徳彦君はたんなる介添えというところでしょう。それからもうひとり珍客がきています」 「もうひとりの珍客とは……?」 「兵頭房太郎君」 「ああ、あの男、ヨーロッパからかえってきたんですか」 「そうそう、その房ちゃん、香港で日本新聞の綴じ込みを見て、徳兵衛氏の|訃《ふ》|報《ほう》をしったとやらで、取るものもとりあえずすっ飛んでかえってくると、自分のスタジオへも立ち寄らず、こちらへ駆け着けてきたんだそうです」  役者は|揃《そろ》った! 「金田一先生、それでは今夜……?」 「わかりません、警部さん、わたしにはなんにもわかっていないというのが真実なんです」  金田一耕助の眼は悩ましく、その声は寂しく物悲しげであった。    第五編 [#ここから4字下げ] 同窓五人の転生ぶりのこと  |呪《じゅ》|詛《そ》を吐く幻燈写真のこと [#ここで字下げ終わり]      一  等々力元警部は廊下の途中でおやとばかりに足をとめた。そこは本條会館の九階で、例のスイート・ルームからほど遠からぬ廊下のいっかくである。  その晩はさすがに九階の廊下もひとのいききがはげしかった。この会館で式を挙げ、披露をすませ、そのまま新婚旅行に立つカップルも多かったが、それとはべつにここの八階、九階のホテルで一夜を明かし、翌朝新幹線なり飛行機なりで、旅に出るカップルも少なくない。そういう場合、新幹線や飛行機の切符の世話はもとより、旅先の旅館の面倒まで、いっさい会館で取り仕切ってくれることになっているので、なにかにつけて便利でもあり、万事この会館に|下《げ》|駄《た》をあずけていくカップルも珍しくなかった。  腕時計で時刻を見ると、まだ八時にちょっと間があるころあいである。  等々力元警部はさすがにそういうはなやかな廊下は避けて、スイート・ルームのドアが見張れるような位置で、廊下をさりげなくいきつ戻りつしている。このスイート・ルームはホテルの他の部屋部屋とは隔離されたような位置にあり、建物の隅っこに当たっていた。したがってホテルになっている部分から、この部屋へ到達するには、狭い廊下を幾度か曲がらねばならないので、ちょっと不便な感はまぬがれなかったが、考えてみればそれはそれでよいのである。監事室とスイート・ルームのあいだには専用の自動エレベーターがあり、およそスイート・ルームに案内されるほどの人物ならば、監事室を通さねばならないのだろうから。  そのエレベーターとスイート・ルームのあいだにはトイレがひとつついていた。まえにもいったようにスイート・ルームの内部にも、トイレがあることはあるのだが、それを利用するには靴をぬいで、いったん畳敷きの座敷へあがらなければならない。それではなにかにつけて不便なので、外部にもトイレが設けてあるのだろう。  いま元警部の等々力大志が、おやとばかりに足をとめたのは、そのトイレから出てきた人物に眼をとめたからである。元警部はその男をしっていた。「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のメンバーのひとりである。しかし、等々力大志がいかに強力な記憶力の持ちぬしでも、昭和二十八年の事件の際、会っただけのことなら、とっくの昔にその男のことを忘れていただろう。  元警部は六時まえからフロントのなかで頑張って、弥生の間の「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の同窓会にやってくる人物を物色していたのである。最初にやってきたのは原田雅実であった。かれはフロントのそばにぶらさがっているボールドを見るとにっこり笑って、フロントのほうにやってきた。 「ぼくそこにかかっている『怒れる海賊たち』の同窓会のものだが……」 「はあ、お名前はなんとおっしゃいますか」  フロントが質問したのは等々力元警部の注文による。 「原田雅実というんだが……」 「ああ、原田雅実様でいらっしゃいますね」  フロントが五人並んだ名前のうえのひとつに、青色のボール・ペンでチェックをすると、ベル・ボーイがそばへやってきて、 「四階です。ご案内しましょう」 「だれか来てる? 同窓会のメンバー?」 「いいえ、まだどなたもお見えになっておりません」 「なあんだ。おれがしょっぱなかあ」  しかし、原田雅実はいかにも楽しそうであった。幾多のチェーン・ストアをもつというこの電気器具商のあるじは、あきらかに中年肥りでよい|恰《かっ》|幅《ぷく》になっている。その|風《ふう》|采《さい》から昔のテナー・サックスのマイアミのまあちゃんの面影を探り出すのは困難だろう。  原田雅実はベル・ボーイのあとについて、エレベーターのなかへ消えていったが、その足どりは軽やかで、いまにも口笛でも吹きだすのではないかと思われるほど楽しそうであった。そのベル・ボーイがかえってくると間もなく、佐川哲也と秋山浩二が連れ立ってやってきた。ふたりともいささか緊張ぎみなのは、このふたりだけが知っているのである、きょうのこの同窓会の会合には、だれか隠れた演出者がいるということを。 「弥生の間というのはどちらですか」  秋山浩二はもちまえの温厚な口調であった。 「ああ、秋山先生と佐川先生ですね」  佐川哲也はもちろんのこと、秋山浩二も歌謡コンクールなどの審査員として、よくテレビに顔を出すのでひろく世間に顔をしられている。  秋山浩二は黒いベレー帽をかぶっている以外、ふつうのサラリーマンと大差ない服装である。ベレー帽だってべつに芸術家を気取っているわけではない。じつをいうと秋山先生、ちかごろおツムがとみに寒くなりかけているので、それを|隠《いん》|蔽《ぺい》するための苦肉の策であるということくらいは、かれの周囲にいるものはみんなしっている。色白のふっくらとした温容は、これがあのヒット・メーカーといわれる作曲家とは、受け取りにくいくらいおだやかである。  それに反して佐川哲也の容貌ははるかにきびしい。この男の顔のなかでなんといってもいちばん印象的なのはあの片|眼《がん》|帯《たい》である。右の頭部から|紐《ひも》で吊るして、左の耳の下をななめにとおって、後頭部でキリリと締めているその眼帯が、かれの容貌をいっそうきびしいものにしているばかりか、見ようによっては|凜《り》|々《り》しくもみえる。昔とちがって髪はうんと短くなっているが、パーマをかけた頭をわざともじゃもじゃにして、それにくっきり喰いいる眼帯の紐がひとつのアクセントを形成しており、そこのところがシックなのだそうである。秋山浩二にくらべると長身で、スマートな体つきをしている。ステージに立つとき真っ赤な原色のコートを着て、背伸びをするように長身をくねらせ、両手でタクトをとるその切れ味の鋭さが、若い女の子をシビレさせるのである。 「だれか来てますか、うちのメンバー?」  秋山浩二の質問に、 「はあ、原田雅実さまがお見えになっております」 「じゃ、ご案内いたしましょう」  ベル・ボーイが案内に立とうとしたとき、自動ドアのむこうから、ずんぐりとした四十男が、背中をまるめるような|恰《かっ》|好《こう》で、セカセカとした足取りをして入ってきた。青味をおびた|栗《り》|鼠《す》のような眼で、フロントのまえにいるふたりの姿を見付けると、 「やあ、秋山さんに佐川さんじゃありませんか。お久しぶり」  浅黒くてまんまるい顔、厚い|唇《くちびる》のあいだから白い歯がこぼれている。青味をおびた|栗《り》|鼠《す》のような眼にはどこかものに|媚《こ》びるような卑屈さがあり、短躯で、固太りをしていて、猫背である。 「やあ、謙坊……じゃなかった、謙ちゃん、まったく久しぶりだったな」 「みなさん、お盛んで結構ですね。きょうの同窓会にはわたしみたいな末輩までお招きにあずかり光栄です。ときにほかにどなたが……?」 「マイアミのまあちゃんの原田雅実君はもうきてるそうだ。もうひとり|屁《へ》っぴり腰の……いや吉沢平吉君がくる予定になってる」 「それはまあ、みんな懐しい連中ですな。原田さんのことは存じあげております。よく銀座のバーやなんかでごヒイキにあずかるんですよ。あのかた成功者でいらっしゃいますね。しかし、吉沢さんのことはサッパリ。あのかたいまなにをしてらっしゃるんですか」 「まあ、いい、会場へいこうじゃないか。ボーイさんを待たせちゃ悪い」  そばから佐川哲也がぶっきらぼうにことばをはさんだ。  フロント正面の電子時計はちょうど六時を示しており、本條会館はいまや繁忙をきわめる最盛期の時間帯だった。去るひと来るひとのあわただしさは、さっき等々力元警部の入ってきたときの比ではない。ロビーも|喧《けん》|噪《そう》をきわめており、あいかわらずラウド・スピーカーから流れる女性の声が、ソフトな声でロビーに語りかけている。 「大したもんですな、この本條会館も。もとはあんなチャチな写真館だったのに」  ボーイについてエレベーターのほうへいく途中で、ケンタッキーの謙坊こと加藤謙三の|呟《つぶや》くのをきいて、 「こいつかな、こんやの会合のかげの演出者は?」  と、秋山も佐川も肚のなかで考えている。その三人がエレベーターのなかへ消えてからまもなく、いやに背のひょろ高い男がフロントのまえにきて立った。 「『怒れる海賊たち』の同窓会のものだが……」  低い、沈んだ、陰気な声をきいたとき、フロントのなかにいる等々力元警部は、おもわずドキッとしたように眼をすぼめた。その男ならさっきからロビーの隅につくねんとひかえていたのだ。  等々力元警部にとってこの男が印象的だったのは、二十年まえの面影が記憶にのこっていたからではない。この男妙なものを右の耳にはさんでいるのである。それは細い、短い青鉛筆であった。思うにこの男計算なんかに忙しい職場で働いていて、そこではつねに青鉛筆が必要なのだろう。そこでつい青鉛筆を耳にはさむ習いが性となり、細い短いそのものが、自分の肉体の一部になったのだろうと思うとおかしかった。ただそれだけのことで印象にのこっていたのだが、その男がいまフロントのまえにきて「怒れる海賊たち」の同窓会の名を出すにおよんで、等々力元警部がおもわず眼をすぼめざるをえなかったのもむりはない。 「はあ、お名前は……?」  等々力元警部はその返事を聞くまでもなかった。五から四引く一残るで、この男こそその昔、病院坂の首|縊《くく》りの家で腰を抜かした屁っぴり腰の平ちゃんこと、吉沢平吉にちがいなく、当人もそう名乗った。  吉沢平吉はおそろしく|馬《うま》|面《づら》である。若いときは髪をのばし、ヒゲをたくわえていたので気がつかなかったが、いま髪を切り、ヒゲを|剃《そ》りおとしてしまうと、顔の全面積が露出され、等々力元警部もいまはじめてその馬面に気がついた。この男、どこかの日曜大工センターのマネージャーみたいなことをやっていると、さっき金田一耕助から聞いたばかりだが、馬面の額や頬のあたりに、過去になめてきた苦渋の影が刻み込まれているようだと、等々力元警部は思わざるをえなかった。 「連中みんな集まっているかね」  あいかわらず低い、ボソボソとした陰気な声である。しかし、そんなことは聞くまでもなく、この男先刻ご承知のはずである。最初のメンバー原田雅実が到着する以前から、この男ロビーの隅っこにひかえていたのだから。思うにかれは他のメンバーの言動を、それとなく偵察していたのであろう。 「はあ、みなさんお見えになってらっしゃいます。君、ご案内したまえ」 「いや」  と、手をあげてそれを制した吉沢平吉は、反対側に|顎《あご》をしゃくって、 「あちらに並んでるの自動エレベーターじゃない」 「はあ、さようでございます」 「弥生の間って何階?」 「四階でございます。エレベーターをお降りになると、廊下をまっすぐにおいでになって、突き当たったところを左へお曲がりになると、とっつきの部屋がそれでございます」 「ああ、そう」  吉沢平吉の靴の裏には、ゴムでも張りつけてあるのではないか。足音もなく泳ぐようにスーイスーイと歩いていく黒い姿の背後から、なにかしら、まがまがしい|妖《あや》かしのかげろうでも立ちのぼっているように思われた。ベル・ボーイもおなじ印象をうけたとみえ、 「気味の悪いひと。まるで死神みたい」 「これ、めったなことをいうものではない。縁起でもない。鶴亀鶴亀」 「あっはっは、耳に青鉛筆をはさんだ死神か。あれでつぎの犠牲者の名をメモにとっているのかもしれないぜ。いや、ごめん、ごめん」      二  その死神なのである。いま九階のスイート・ルームのわきにある、紳士用のトイレから出てきたのは。吉沢平吉はそっと廊下のあとさきを見廻したが、少しはなれたところに立っている、等々力元警部のすがたに気がつくと、ギョッと|呼《い》|吸《き》を飲みこんだようである。いきおい元警部はそのまま歩調をはこばねばならなかった。等々力元警部はトイレのまえに立ちすくんでいる、吉沢平吉のほうへちかづいていきながら、ちょっと心が躍るのをおぼえた。  吉沢平吉はおぼえているだろうか、等々力元警部を。さっきフロントにいた男だと。  いや、気がついていないふうである。その他の点についてはこの元警部には自信があった。二十年のその昔、この男をきびしく追及したのは、主として高血圧の真田警部補であった。警部はつねにその背後にあって、直接この男と口をききあったことはほとんどなかった。あれから二十年、いまこの白頭で品のよい薄いベージュの背広をじょうずに着こなした老紳士を、むかしそのような激しい職にあったものとは、ほとんどの人間は気がつかない。 「なにかこのスイート・ルームにご用がおありですか」  通りすがりに等々力元警部は声をかけた。その顔はおだやかにニコニコ笑っている。 「いや、あの、そういうわけでは……」  吉沢平吉はヘドモドした。この男だろうか。きょうの弥生の間の会合のカゲの演出者は。 「いえ、ちょっと廊下トンビを……」 「廊下トンビとおっしゃると……?」 「いや、この会館があまり立派なもんですから、上から下まで見学させてもらおうと思って……わたし四階の弥生の間で会があるんですが……」 「あっはっは、そうですか、それではごゆっくり見学していってください」  等々力元警部はいきおい、スイート・ルームのドアを叩かざるをえなかった。 「だあれ?」  なかから聞こえてきた本條直吉の声は、あいかわらず|泥《でい》|酔《すい》しているようである。 「わたしですよ。ほら」  吉沢平吉がぶらぶらと、黒いかげろうのように立ち去るのを見送りながら、それでもなおかつ等々力元警部は、自分の名を名乗るのをはばかった。吉沢平吉は例の猫のように足音のない歩きかたで、狭い廊下をむこうへ突き当たると、屋上へ出る階段をのぼっていった。  それとなくその後ろ姿を見送っていると、スイート・ルームのドアがなかから開いて、顔を出したのは兵頭房太郎である。 「なあんだ、警部さんですか。どうぞこちらへ」  写真家などにはラフなスタイルをしているのが多いものだが、兵頭房太郎はどうしてどうして、すごく|凝《こ》ったなりをしている。|黒《くろ》|揚《あげ》|羽《は》の|蝶《ちょう》のように、紫色の底光りのする黒い、|艶《つや》|々《つや》としたビロードの三つ揃いを着て、胸には真っ赤な花が咲いたように、大きなボヘミアン・ネクタイを締めている。これで下半身白いタイツでもはいていようものなら、中世時代のヨーロッパの宮廷人のように見えることだろう。  部屋のなかにはもうふたりいた。鉄也と徳彦である。ふたりともジーンズのラフなスタイルで、髪を長くのばしているが、ヒゲを生やしているのは鉄也だけである。鉄也のヒゲはそろそろ本物になりかけている。  いまから二時間ほどまえまでは、そこにモーニング姿の法眼滋と|裾《すそ》模様の由香利夫妻がいたのだけれど、かれらが|媒酌《ばいしゃく》の労をとる結婚式の時間がちかづいてきたので、ふたり揃って出ていったのである。由香利のほうは|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》がおわると、そのまま帰宅するのだそうだが、滋はもういちどこちらへ引き返してくるといっていた。かれはゴルフ場からこちらへまわったらしく、畳のうえにゴルフのバッグがおいてあった。  鉄也は直吉とサシでなにか聞きたいことがあるらしいのだが、房太郎がそばにつきっきりなので、そうもならないらしく、さっきから浮かぬ顔で、ヒゲばかりまさぐっている。  きのう酔っ払いの直吉の口から秘書の石川鏡子に、元警部の素性がばれてしまったので、きょうはアタマから正直に警視庁の元警部であると、一同に紹介された。この本條会館の内部に不正が行なわれている疑いがあるので、いま調査をお願いしているところであると直吉は釈明した。さすがに自分の生命がおびやかされているらしいとはいわなかった。  いきおい兵頭房太郎や鉄也、徳彦の両少年は、とつぜん入ってきた等々力元警部に対して警戒ぎみだったが、酔っ払いの直吉は委細かまわず、 「け、警部さん、な、なにをそんなにキョトキョトしてるんです。さ、さ、まあ、こっちへきて一杯やんなさいよ。ね、ね、ねえ、警部さん、ふ、ふ、房の野郎のヨーロッパ旅行は、や、や、やっぱり本当らしいですよ。いまあちらの、め、め、珍しい話をきかせてもらっているところですが、け、け、警部さんもこちらへきて、こ、こ、こいつの話を聞きなさいよ。こ、こ、こいつだいぶん眼色毛色のかわった、ご、ご、ご婦人に持てたらしい。けっけっけ、ゲーップ」  あとから思えば本條直吉は、そのときゲロを吐く一歩手前だったらしい。しかし、等々力元警部は、いまやそれどころではなかった。スイート・ルームの外に立ったまま、眼で吉沢平吉のあとを追っていた元警部は、 「いや、お話はまたあとでお伺いしましょう。わたしちょっと思いついたことがあるものですから。徳彦君、お父さんによく気をつけてあげてください」  兵頭房太郎の眼のまえで、バターンとドアを閉めると、トイレの隣はスイート・ルーム専用のエレベーターである。さいわいエレベーターは九階でとまっている。等々力元警部はそれに乗って屋上へ出た。  屋上のエレベーターの出口のすぐまえには格納庫のようなものが建っている。屋上もエレベーターからはなれたところは明るく、四、五人の人物がなにかやっていたが、格納庫のほとりはほの暗かった。等々力元警部はぐるりと格納庫を一周したが、べつに変わったところも見当たらない。ただ格納庫の|扁《へん》|平《ぺい》な屋根の|廂《ひさし》が、五〇センチほど胸壁より外につき出していて、その|尖《せん》|端《たん》の裏側から妙なものがぶら下がっていた。ロープである。  しかし、等々力元警部はべつに気にもとめず、胸壁に沿って格納庫を一周したが、そこで思わず|気《き》|拙《まず》そうに咳払いをした。格納庫のむこうがわのほの暗いところで、若いカップルが抱き合って、唇をあわせているところに出っくわしたからである。 「失礼しました」  若いカップルにかるく一礼すると、元警部は足ばやにそこをいきすぎた。  かなり広いこの屋上の格納庫の対角線をえがいたむこうの端で、四、五人の男がなにか声高にわめきながら作業にいそしんでいる。あとでわかったところによると、五月になるとここに屋上ビヤー・ガーデンが開かれるのである。かれらはいまその設営に繁忙をきわめていた。  元警部の等々力大志は作業員のひとりをつかまえて訊ねてみた。 「いまここへ黒っぽい洋服を着た男があがってきやあしなかったかね」 「ええ、あがってきましたよ」 「その男どうした?」 「いえ、べつにどうってことは……胸壁に沿ってひととおり、この屋上をぐるりと歩いてましたが、たったいましがたそこの階段をおりていきましたよ」 「ここでだれかと会ったふうはなかったかね」 「いえ、べつに……むこうに新婚さんがひと組いますが、そっちのほうへはいかなかったようでしたよ」 「ああ、そう、どうもありがとう」  等々力元警部はいそいで階段をおりていった。かれのすぐ背後から新婚のカップルも降りてきた。  九階の廊下にはだれもいなかった。さっき蛮声を張り上げていた部屋のドアもぴったり閉まっていた。そのドアのなかへ屋上から降りてきたカップルが消えていくのを見、かつ背後でドアがしまり鍵をまわす音をきいたとき、等々力元警部はちょっと血の躍るのをおぼえずにはいられなかった。あのドアの裏っ側で若いふたりのあいだに、これから展開していくであろう情景を想像すると、等々力大志のような年輩の人物でも、いささか血が騒ぐのである。  しかし、いまの等々力元警部はそれどころではなかったはずである。  かれは軽い舌打ちとともに自分で自分をたしなめると、改めて腕時計に眼をおとした。時刻は八時十分である。  ひととおり九階の廊下を歩いてみて、あの薄気味悪い死神がどこにも見当たらないことをたしかめると、いくつか並んだ自動エレベーターのひとつを選んでボタンを押した。エレベーターはすぐに九階へもあがってきた。四階でエレベーターをおりると、かれは廊下をまっすぐに突進していった。廊下を突き当たって左へ曲がったところに弥生の間があり、開けっ放したドアのまえに、 「怒れる海賊たち」同窓会御連中様  と、達筆で書いた白紙を貼ったボールドが立っている。ドアは開けっ放しになっているが、廊下からでは室内の全部は見渡せない。しかし、同窓会の連中はまだ解散したわけではないらしい。等々力元警部がきき耳を立てているところへ、だれかが背後へきて腕にさわった。ドキッとしてふりかえると金田一耕助であった。金田一耕助の眼にはとがめるような色がある。 「警部さん、あなた持ち場をはなれて大丈夫ですか」 「いや、じつは、金田一先生」 「なにか……?」 「じつはあの死神……じゃなかった、吉沢平吉ですがね」 「ああ、屁っぴり腰の平ちゃんですね。しかし、あの平ちゃんがなぜ死神なんです」 「いや、フロントでベル・ボーイがそういったんです。死神みたいな男だって……」  金田一耕助もすこし白い歯をこぼして、 「そういえばいやに陰気な男になってしまいましたね。昔はあれほどじゃなかった。その平ちゃんがどうかしたんですか」 「はあ、その吉沢平吉がさっきじつは……」  と、九階のスイート・ルームのそばのトイレから出てきたいきさつを語ってきかせると、金田一耕助のおもてにも驚きの色が走った。 「なんですって? あの男、いままで九階にいたんですか」 「あいつ、弥生の間にいたんじゃないんですか」 「いいえ、いませんでしたよ。いま到着したばかりです」 「それはおかしい。六時にフロントへきましたよ。そして四階だときくと、そのまま自動エレベーターで昇っていきましたよ」 「それであの男、屋上までいったとおっしゃるんですね」 「はあ、わたしもそのあとエレベーターで、屋上までのぼってみたんですが、入れちがいに階段のほうから降りていったようです。それでわたしもあとを追っかけてこちらへ降りてきたんですが……」 「それで、本條直吉氏は大丈夫でしょうね」 「それは大丈夫、エレベーターで屋上へのぼるまえ、スイート・ルームを|覗《のぞ》いてみたんですが、やっこさん、例によって例のごとく泥酔してクダを巻いてましたよ。部屋のなかには洋行がえりの兵頭房太郎と鉄也、徳彦の二少年がいましたから、直吉氏のことはよく頼んできました」 「それで、警部さんは持ち場を離れてからどのくらい時間が……?」  等々力大志はまた腕時計の針に眼をやった。時計の針は八時十五分をさしている。 「十分……いや、十五分くらい……」  手順よくことを運べば十五分あればそうとう大事が決行できる。吉沢平吉はおとりではなかったか、等々力元警部を持ち場から引きはなすための。  金田一耕助のおもてには、急に|憂色《ゆうしょく》と|焦燥《しょうそう》の色が濃くなった。 「警部さん、いってみましょう、九階へ。ここは大丈夫、シュウちゃんにまかせておけば」  金田一耕助はそういいすてると、|袴《はかま》の|裾《すそ》を踏みしだいて、はや小走りに廊下を走り出していた。      三  本條会館の四階にある弥生の間は全部開放すると、そして、それがもしカクテル・パーティー形式の立食の会合ならば、ゆうに四、五十人の客を収容できるくらいの広さを持っている。きょうの弥生の間は冷たい金属製のスクリーンによって半分に仕切られて、数名の会合にとってはたいへん居心地のよい部屋になっている。きょうの料理は中華料理らしく中央に大きな円卓がすえてある。円卓の周囲には椅子が五つ、五人の客にとってはずいぶんゆったりとしたたたずまいで、壁際や窓際には坐り心地のよさそうな長椅子や、安楽椅子がまくばっている。  この部屋にイの一番に案内されてきたのは、電気器具商の原田雅実である。ドアの外に立っている、「怒れる海賊たち」同窓会御連中様という立看板を横眼にみながら、開けっ放したドアを入ると、そこは小玄関みたいになっており、電話などもそこに備えつけてある。そこからまた開けっぴろげたドアを入ると、いまいった居心地のよい部屋になるのである。 「ああ、これはいい部屋だ。わずか五人の会合にはもったいないような部屋だな」  ドアの正面は広いガラス窓である。原田雅実は窓のそばへよってみた。まだ暮れ切らぬ窓の外には街のネオンも影が薄い。下を見ると、弥生の間の床とおなじ水平面に、だだっぴろくて殺風景な屋根がひろがっている。原田雅実は窓を開いて外へ出てみようとしたが、アルミ・サッシの窓は固定してあるとみえて開かなかった。 「そうか、窓を開く必要はないんだ。換気装置がいきとどいているからな」  原田雅実は窓のそばを離れてソファの端に腰をおろすと、部屋のなかを見まわした。そこにいると斜め左に入口のドアがみえる。そのドアを入ってくると右側、すなわち原田雅実のいまいるところからいえば左側に、金属製のスクリーンが部屋を半分に仕切っている。スクリーンの幅は二メートル弱、薄鼠色をしていて四枚ある。部屋全体を使うとき、このスクリーンを取り払うのだろう。さてドアを入って左側、すなわちスクリーンとむかいあったところはいちめんに壁になっており、壁の中央のほどよいところに|暖《だん》|炉《ろ》が切ってある。この暖炉はおそらく装飾にすぎないのだろうが、大理石のマントル・ピースのうえには、銀色の置き時計が飾ってある。置き時計の幅は四〇センチ、高さは二〇センチくらいだろうが、全体がゆるいカーブをえがいた凸字形になっており、その中央に文字盤がはめこんである。この文字盤の直径は一五センチくらいだろうか。その置き時計と自分の腕時計を見くらべてみたが、時間はきっちり合っている。六時八分である。その置き時計のうえに油絵の静物が飾ってある。原田雅実が、なんとなくそれらの油絵を見ているところへ、わかい女の子がウーロン茶を持って入ってきた。 「ああ、ありがとう、そうそう、君、この窓の外は、どこかの屋根になっているの」 「ええ、お隣のビルの屋根になっております」 「お隣というと……ああ、食堂楽ビルの屋根か」  食道楽ビルということばがおかしかったのか、女の子は吹き出しそうな顔をしながら、 「はあ、さようでございます」 「あのビルもやっぱりこちらの経営?」 「はあ……」 「もったいないな。このままうっちゃらかしておくの。相当の面積があるじゃないか。ビヤー・ガーデンでもやればいいのに」 「そのビヤー・ガーデンならこの本館の屋上で、来月から開店することになっております」 「ああ、そうなの。やっぱりショウバイに抜け目はねえや。余計なことをいわなきゃよかった。あっはっは。ああ、ありがとう」  女の子はウーロン茶をサイド・テーブルのうえにおくと、そのまま立ち去ろうとしたが、その視線が壁の暖炉のほうにいくと、 「あら!」 「ど、どうかしたのかい」  女の子の視線を追っていくと、そこにはさっきもいったとおり、マントル・ピースのうえに緩やかな曲線をえがいた凸字形の置き時計と、さらにそのうえに静物をかいた油絵が、金縁の額におさまっている。静物は画面一杯に描いた皿のうえに|魚《さかな》が二匹、皿からはみ出しそうに|画《えが》いた構図だが、そういえばデッサンがいくらか狂っているようだ。 「ああ、あの絵、あれ少しおかしいよなあ。皿に比較して魚が大きすぎらあ。それになんの魚だかしらねえが少しイカれてんじゃねえか」  女の子はふりかえってなにかいおうとしたが、ちょうどそこへベル・ボーイに案内されて、秋山浩二、佐川哲也、加藤謙三の三人が入ってきた。 「オス」 「やあ、しばらく」 「早かったな。だいぶん待たせたかい?」 「いやあ、おれもいま来たばかりだ」 「原田さん、しばらく。ちかごろ銀座へはお出にならないんですか。それともお出になってもわたしを袖にしていらっしゃるんですか」 「いやあ、謙坊、お里を出すんじゃない。そういえばここしばらく銀座へも出ないな」 「謙坊はないだろう。こんなに立派になったひとを」 「あれ、風ちゃんはしらなかったの。このひと銀座界隈ではいまでもケンタッキーの謙坊でとおってんだ。レパートリーの広いこと驚くべきもんだ」 「秋山さんの曲なんかも無断で唄わせてもらってます。この際ご諒解を願います」 「いいよ、いいよ。大いに唄ってちょうだい」  この連中が入ってきたのを機会にさっきここを出ていった女の子が、またウーロン茶を三つお盆にのせて持ってきた。その視線がまたさりげなく暖炉のうえへ走るのを見て、原田雅実がからかった。 「君、そんなにあの油絵が気になるのかい」 「あら、なんでもございませんのよ」  逃げるように出ていく女の子のうしろ姿を見送って、 「まあちゃん、どうしたんだい。あの油絵がどうかしたのかい」 「なあにね、風ちゃん、あの子ったらさっきからしきりにあの油絵を気にしてんのさ。そういえばその魚、少しイカれてんじゃないかってさっきも笑ったんだけどな」  原田雅実にとっては秋山浩二はいまでも風ちゃんである。 「どれどれ」  いままでほとんど口をきかなかった佐川哲也が、立ってマントル・ピースのまえにいった。しばらくしげしげと油絵を見ていたが、 「おれ、絵のことなんかわからねえけど、どうせ大したシロモンじゃねえんだろ。それよりこの時計珍しいじゃないか」 「哲ちゃん、その時計、そんなに珍しいもんかい」 「そんなことおれにわかるもんか。だけどさ、こんな席に時計おいとくなんておかしいよ。これじゃわれわれに時間どおりに出てけっていわぬばかりじゃないか」  佐川哲也は自分の腕時計と見くらべながら呟いた。  しかし、そういう佐川哲也も、べつにそれほどその時計を気にかけているわけではなかった。その証拠にそこへ白い背広に蝶ネクタイを締めたボーイが入ってきたとき、その時計を問題にするものはだれもいなかった。 「お料理そろそろお運びいたしましょうか。もうおひとかたお見えにならないようですが」 「もうおひとかたってだれだい?」  ノンキそうに訊ねる原田雅実の顔を、佐川哲也は片眼で鋭く|視《み》つめながら、 「きまってるじゃないか。吉沢平吉さ」 「あっ、そうそ。|屁《へ》っぴり腰の平ちゃんも来ることになってんだね」 「君はそのことにいままで気がつかなかったのかい」  佐川哲也がつっかかるように切り込むのを、秋山浩二がそばからおだやかに制して、 「まあ、いいじゃないか。ボーイさん、いま六時十五分だけど、半まで待ってくれたまえ。それまでには来るだろうし、来なかったら構わないから料理を運んでくれたまえ。それでいいだろ、哲ちゃん」  だが、そういいながら秋山浩二は、それとなく原田雅実と加藤謙三の顔色を読んでいる。このふたりのうちのどちらだろうか。今夜のこの会合の影の演出者は? 「承知しました。それでお飲みものはなににいたしましょうか」 「ビールでいいだろう。それとも水割りがいるひとある?」  ビールに一決した。 「それでボーイさん、時間だがね、六時から八時までという約束だが、少しははみ出してもいいだろう。こうして遅れるやつもあるんだから」 「ええ、ええ、結構ですとも。今夜はほかにお約束はございませんから、九時ごろまでご自由にお使いくだすって結構ですよ」 「それでお隣さんはどうなってんの。スクリーンのむこうは?」 「いえ、あちらは今夜空いておりますから、どうぞご遠慮なく」 「じゃ、ボーイさん。よろしく頼みます。六時半になったら料理を運んでください。もうひとりの客はきてもこなくても」  結局、もうひとりの客は来ずに六時半になるとふたりのボーイによって料理が運ばれはじめた。円卓の周囲にまくばられた五つの椅子のうちのひとつが空いたきりになっているのが淋しかったが、そんなこと意にも介しないのか、四人の同窓生のうち一番よく飲み、よく|啖《くら》い、かつよく|喋舌《し ゃ べ》るのは電気器具商の原田雅実であった。  原田雅実についでこまめに料理を口に運んでいるのは、かれのすぐ左の椅子にいる加藤謙三だが、この男は原田雅実ほど|虚《きょ》|心《しん》|坦《たん》|懐《かい》ではなさそうである。|栗《り》|鼠《す》のように青味をおびたよく動く眼で、すぐ左にいる佐川哲也や、そのまた左にいる秋山浩二の顔色を、さっきからしきりにうかがっている。  そういえばこのふたりはあんまり食欲がなさそうである。原田雅実が話しかけてもことば数はいたって少ない。屁っぴり腰の平ちゃんこと、吉沢平吉が顔を出さないせいであろうか。  原田雅実もやっとその場の|気《き》|拙《まず》い空気に気がついたのか、 「おい、おい、哲ちゃんも風ちゃんもどうしたんだい。これじゃせっかくの同窓会の雰囲気が盛りあがらないじゃないか。おれにばかり喋舌らせないで、少しはなんとかおいいよ。君たちこそわが『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』の同窓会での成功者じゃないか」 「ご冗談でしょ。成功者はそちらじゃないか」 「とんでもない。おれは脱落者さ。さいわい女房のおやじが最初資本を出してくれて、どうにかここまで|漕《こ》ぎつけてきたけどさ、こちとら中小企業のうちの小企業というところだろ。内実は火の車とまではいわないけど、そうとうお苦しみというところさ。そこへいくとおふたかたは、初志を貫徹してあっぱれ名をなされた。おれいつも君たちのことを|誇《ほこ》りにしてんだぜ。少しは気焔をあげなさいよ」  それに対して佐川哲也がきびしい顔面をピリピリさせて、なにか激しいことばを吐こうとするのを、そばから秋山浩二がニコニコしながらやんわり機先を制した。 「それはそうと、まあちゃん、あんた吉沢の平ちゃんの近況しってる?」 「いいや、しらない。あっ、いけねえ、いけねえ、おれ平ちゃんの分まで食っちまったんじゃねえのか」 「原田君、君、ほんとうに吉沢君の近況をしらないのかい。かれのいどころやなんか」  佐川哲也もいくらかことばをやわらげた。 「いいや、しらない。あの事件があってからまもなく、われわれのコンボ解散したろう。それ以来会ってないね。かれいまなにをしてんの」 「謙ちゃん、あんたどうなの。さっきのことばによると、あんたも平ちゃんの近況しらないらしいね」 「ちかごろはぜんぜん。だからきょうここで会えるのを楽しみにしてきたんです」 「あっ、そうか。哲ちゃんも風ちゃんもあの男のことを気にして、さっきからシラけてんのかい。いけねえな、おれ、平ちゃんのことなんかすっかり忘れて浮かれちまってさ。だけど、あの男昔から影が薄かったよなあ。哲ちゃんビンちゃんと、そのときそのときの威勢のいいほうへくっついたりしてさあ。あっ、いけねえ、いけねえ、ここでビンちゃんの名前出したりしちゃいけなかったのかな」  このグループのなかで最初にビンちゃんの生首を発見したのは、吉沢平吉と加藤謙三である。それだけに謙坊はあの晩のことを思い出したのか、|胴《どう》|顫《ぶる》いするような声で、 「それにしても吉沢さん遅いな。もう七時をまわっている」  そのことばに応ずるかのようにこの部屋へ入ってきた人物がある。しかし、それは吉沢平吉ではなくて多門修であった。      四 「やあ、失敬、失敬、断わりもなしに割り込んできたりして。いえね、こんやこちらに用事があってやってきたら、フロントのわきにこちらの同窓会の札が出てるだろう。それでひょっとするとと思ってのぞいてみたら、やっぱりあなたがたでしたね。佐川君、お邪魔かね」 「いえ、どうぞ、どうぞ、秋山、いいだろう」 「いいだろうどころじゃない、大歓迎ですよ。多門さんは原田のまあちゃんをご存じだったかしら」 「あっはっは、よく存じあげておりますよ。うちのクラブ、ちょくちょくごヒイキに|与《あずか》ってますからね。いつか佐川君に紹介してもらいましたよ。原田さん、しばらく」 「いやあ、これは珍しいひとがご入来ですな。しばらくでした。今夜こちらでお識り合いの結婚式でも?」 「原田さん、こちらどなた?」  加藤謙三が臆病そうな眼で、多門修のりゅうとした風采を見上げ、見下ろしながら小声で訊ねた。 「ああ、謙ちゃんはしらなかったかね。こちらいまをときめく赤坂のクラブK・K・Kのマネージャーをしていらっしゃる多門修さんだ。ほら、二十八年の事件の際、苦境に陥っている哲ちゃんを救った救世主でいらっしゃる」 「あっ」  それを聞くと加藤謙三は椅子をうしろに蹴って立ち上がり、 「失礼しました。お名前はかねがね承っております。ぼく加藤謙三、昔のケンタッキーの謙坊でございます。銀座でアコーディオンをかかえてしがない流しをやっております。ぼくなんかとても『ザ・パイレーツ』のメンバーに入れる資格はございませんし、佐川さんはこのとおり一徹者でいらっしゃいますから、ぼくなんか|洟《はな》もひっかけてもらえませんが、多門先生、いちどぼくをテストしてくださいよ」 「なあんだ、謙坊、おまえそんな|肚《はら》だったのかい。だっておまえいままでいちどだって、おれのまえでそんなこといわなかったじゃないか」 「佐川さんは匂わせたって、いつもしらん顔をしてらっしゃる」 「そうだ、そうだ、哲ちゃんは勝手ツンボみたいなところがあるかんな。謙坊、銀座の流し、結構はやってんじゃないの」 「原田さんはそうおっしゃいますけれど、流しには雨の日もあれば風の日もありますからね。安定した生活は望めませんや」  話がいささか|湿《しめ》っぽくなってきたところへ、ふたりのボーイがかわるがわる新しい料理を運んできた。 「やあ、これは失礼。さあ、さあ、加藤君、そこへ掛けて召上がれ。いまの君の話心にとめておくからさ。哲ちゃん、おれここにいちゃ邪魔っけかい」 「いいえ、どうぞ。どうぞ。あなたお食事は?」 「食事ならとっくの昔にすませてきたよ。それはそうとメンバーがひとり|欠《か》けているようだが、おトイレへでも」 「いや、それがねえ、マネージャー、もうひとりは吉沢平吉君なんですが、いつまで待ってもやって来ないので、こちらにご迷惑じゃないかって、ひと足さきにやりはじめたんです。あれ、もうそろそろ七時半じゃないか。やっこさん欠席するつもりかな」  多門修が秋山浩二のその言葉を聞きとがめたかして、浅黒い額をふいと曇らせた。 「そのひとここへ顔を出さないの」 「ええ、欠席なら欠席と電話でもかけてくれるといいんだのに」 「それはおかしい」  多門修がソファのなかで身を起こした。 「多門さん。おかしいとは?」 「いえね、哲ちゃん、ぼくが『怒れる海賊たち』の同窓会の札に気がついたのは、六時半ごろのことなんだ。そこでもしやと思ってフロントで聞いてみたところやっぱり君たちだろ。メンバーは何人かと聞いてみたら五人だという。しかも、五人とももうお見えになっておりますって。そうそう、そういえば吉沢平吉という名前のうえにもチェックしてあったぜ」  とたんに佐川哲也と秋山浩二がハッとしたように顔見合わせた。その顔色を加藤謙三はうわめ使いに|眺《なが》めているが、原田雅実はまだ気がつかないらしく、 「どうしたんだろ、やっこさんまさか|迷《まよ》い子になったわけでもなかろうに。それとも綺麗な花嫁さんがウヨウヨいるんで、廊下とんびでもしてるのかな。そんな性格でもなかったようだが……」 「まあちゃん、そんなノンキな沙汰じゃないんだ。じつは今夜のこの集まりにはウラがあるんだ」 「風ちゃん、ウラというと……?」 「そのまえに聞くが、まあちゃんはほんとうに平ちゃんのその後の消息をしらないんだね」 「しらないね。さっきもいったとおりだ」 「最近のいどころも」 「もちろん」 「天地神明に誓うか」  これは佐川哲也である。いくらか言葉がきびしかった。 「そいつは少し大袈裟だがなんなら誓ってもいいよ。|私《わたくし》原田雅実は天地神明に誓います。吉沢平吉君のその後の消息も、最近の|居所《いどころ》もしらないということを。アーメン」 「謙坊はどうだ」 「ぼくはその……いくらかしってました。五、六年まえまでは……」 「それ、どういう意味なんだ。なんとなくしっていたというのは……?」 「佐川さん、これどうかしたんですか。吉沢さんがなにか……?」 「いや、その意味はあとで話す。なんとなくしっていたとは……?」 「いえ、あのひとは浮き沈みのはげしいひとでしてね。佐川さんも……いや、ここにいるひとはみんなしってますが、あのひと強きに|阿《おもね》り弱きを|侮《あなど》るってえ人生観をもってるひとでしょう。それがうまくいってるときはいいんです。ひどく威勢がいいんです。ところがあのひと悪い癖があるでしょ。少しうまくいってると増長するというのか、その強きに取ってかわろうとする。あるいはより強いひとが現われるとそっちのほうへ|鞍《くら》|替《が》えしようとする。つまり世話になってるひとを裏切るんですね。それが|暴《ば》れてコテンパンにやっつけられて落ち目になる。そういうことの繰り返しですね。いままた落ち目なんじゃないんですか。ここ五、六年会ってませんから」 「最後に会ったときはなにをやってたの」  これは秋山浩二の質問である。 「どっか世田谷へんのボーリング場のマネージャーをやってるといってました。当時ボーリング盛んだったでしょ。だから大した羽振りだったらしく、プロ・ボーラーなどを引率して銀座のバーなどへやってきて、ぼくなんかも|煽《あお》られたもんです。そうそう、あれ秋山さんがレコード大賞の作曲部門賞を獲得された時分のことだから、いまから五、六年まえのことでしょう」 「ぼくが賞もらったのは昭和四十二年の暮れだったよ」 「じゃ、やっぱり五、六年まえのことになりますね。それ以来会っておりません。聞けばボーリングもちかごろ下火だそうですね」 「君、それでそのボーリング場というのへいってみたことある? それとも平ちゃんの住所しってる?」 「とんでもない。それゃ吉沢さんとしちゃ羽振りのいいとこ見せたかったでしょうね。さかんに来い、来いといってましたが、ぼくはまだまだ苦しい時代で、気分的にも余裕なんかなかった時分だったし、世田谷じゃ遠すぎますよ。なんでも|馬《ば》|事《じ》|公《こう》|苑《えん》のすぐ近くだといってましたがね」 「それで住所は?」 「しりません。名刺なんか貰ったことありませんからね。どうせこっちはしがない流し。相手は頭から軽蔑してらっしゃる」 「それでむこうさんは謙ちゃんの住所しってた?」 「とんでもない。銀座の流しがいかに昔|馴《な》|染《じ》みとはいえ、お客さんにいちいち住所をいうはずがないじゃありませんか。どうせこちとら川向うのしがない安アパート、女房と共稼ぎというご身分ですからね」 「それじゃだれが平ちゃんとこへ案内状を出したんだ。それこそ天地神明に誓っていうが、ここにいる風ちゃんもぼくも、ぜんぜん吉沢君の消息をしらなかった。いわんや住所においてをやだ」 「哲ちゃん、それどういう意味なんだ。今夜のこの集まり風ちゃんと哲ちゃんが発起人になっているじゃないか」 「それがおかしいんだ、まあちゃん。われわれ……秋山にもおれにも全然憶えがないんだ。ある日、突然こういう案内状が舞いこんできた。見ると発起人にはおれと秋山の名前が刷ってある。びっくりして秋山に電話した。ところが秋山にも憶えがないという。そこでしばらく様子を見ていようじゃないかといってるところへ、秋山のところへあんたや謙ちゃんから出席という返事が来た。平ちゃんからもきたのみならず、ごていねいにも平ちゃんから秋山のところへ電話がかかってきたそうだ。風ちゃん、あんたから話しておやりよ」 「ああ、そう。ぼくも天地神明に誓っていうが、今夜のこの集まりはぼくの全然|与《あずか》りしらんことなんだ。いま哲ちゃんがいったとおり、ある日、突然案内状がぼくのところへ舞い込んだ。しかも返信の宛名がぼくのところになっている。そこで哲ちゃんとしめし合わせて様子を見ていると、まずまあちゃんから返事がきた。つぎは謙坊と平ちゃんだ。平ちゃんから電話がかかってきた。その電話でぼくははじめてあのひとの近況をしったんだが、謙ちゃん」 「はあ」 「あのひとやっぱり世田谷の馬事公苑ちかくの、ボーリング場のマネージャーをやってたそうだ。ところがボーリングがちかごろ下火になったろ。そこでそこ、その後日曜大工センターに商売がえをしたんだそうだ。かれ氏その後もそこのマネージャーをやってるそうだが、自分みたいな|落《らく》|伍《ご》者までご招待に与って光栄至極に存じます。当日はぜひ出席して諸先生がたの|謦《けい》|咳《がい》に接したいと思っておりますと、それゃもういたって|慇懃丁重《いんぎんていちょう》で、低姿勢そのものなんだが、その声たるや|陰《いん》|々《いん》|滅《めつ》|々《めつ》でね。なにかこう、真っ暗な穴の底へでも引きずり込まれるような気がしたよ」  ちょっとの間沈黙がつづいたのち、原田雅実がいささかおもてに朱を走らせて、 「いったいこれはどういうことなんだ。じゃ、今夜のこの集まり、だれかの|悪《いた》|戯《ずら》だというのかい」 「そうとしか思えないんだ。そこで哲ちゃんと相談して、ふたりでここへ電話で問い合わせてみたんだ。そしたらちゃんと電話で申し込みがあって、金も払い込まれているというんだ。やっぱり哲ちゃんとぼくの名前でね。だからだれの悪戯かしらないが、ひとつそれに乗ってみようじゃないかということになって、君たちに取り消しの手紙も出さなかったんだ」 「ああ、それでかあ、さっきさかんにおれにカマをかけてたなあ。悪戯の張本人をおれじゃないかと思ってたんだな」 「ごめん、ごめん。いちおうは疑ってみたよ、あんたを。これそうとう金のかかる悪戯だからね。だけど哲ちゃんとも話してたんだ。これがまあちゃんの悪戯なら安心出来るって。あんたの悪戯なら少なくとも悪意はないだろうって」 「じゃ、この悪戯の背後になにか悪意のにおいがあるというの」 「わからないね。いったい旧『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』の残党であるところのわれわれを一堂に集めて、この影の演出者はなにを企んでいるのかわからないからね」 「なんだか薄気味悪い話ですね」  加藤謙三は|胴《どう》|顫《ぶる》いするような声で、 「それなら私も天地神明に誓って申しますが、その影の演出者はわたしじゃありません。わたしにはそんな金銭的な余裕はありませんからね」 「それにしても吉沢君はどうしたんだろ。とうとう八時をまわってしまったじゃないか。マネージャー、吉沢君が今夜ここへ来るってことはたしかなんでしょうね」 「それゃたしかだろうよ。なんならだれかフロントへいってたしかめてみたらどうかね」 「よし、おれがいってみる」  原田雅実は椅子をきしらせて立ち上がると、大股に部屋を出ていったが、廊下へ出るとすぐ、 「あれ!」  と、|素《す》っ|頓狂《とんきょう》な声がきこえたので、一同はおもわず耳をそばだてた。 「あんた平ちゃんじゃない? そうだ、そうだ、吉沢の平ちゃんだ。あんたどうしたんだよう。さっきからみんな首を長くして待ってんのに」  部屋のなかではすわとばかりに三人が顔見合わせた。加藤謙三は腰を浮かしかけたまま、秋山浩二と佐川哲也の顔を見較べていたが、ふたりが|促《うなが》すように|頷《うなず》くのを見ると、とっかわとして部屋を出ていった。たちまち謙坊の|弾《はじ》けるような声がきこえてきた。 「ああ、吉沢さん、あなたどうなすったんです。みんな待ちくたびれてシビレを切らしてるところなんですよう」  それに対してなにか低い、ボソボソした声が応答しているようだったが、 「なにいってんだよう、浮き沈みは人間のつね、そんなときこそお互いに力になり合うのが同窓生の務めじゃないか。ぼく? なにいってんだよう。マイアミのまあちゃんこと原田雅実。さあ、入ろう、入ろう」  原田雅実と加藤謙三に左右から、腕をとられるようにして入ってきた吉沢平吉の姿を見て、多門修はひそかに瞳を光らせた。この男ならさっきこの付近の廊下で会っている。なるほどこうして明るいところでみると、この男が目下|尾《お》|羽《は》打ち枯らしているらしいことが一目|瞭然《りょうぜん》である。 「吉沢君!」  佐川哲也がその|馬《うま》|面《づら》に|辟《へき》|易《えき》しながらも、なにか強い調子でいいかけるのを、秋山浩二がそばからおだやかに引き取って、 「いいよ、いいよ、哲ちゃん、ぼくに任せておきなさい。平ちゃん、あんたどうしたんだよう。ずいぶん待たせるじゃないか。おかげで料理もすっかり冷えちまったよ」 「すみません。ぼくなんどもこの部屋のそばまで来たんだけど、すっかり|気《き》|後《おく》れしちまって」 「どうしてさあ。なにも気後れすることはないじゃない。みんな昔の仲間だもん」 「だって、みなさんさかんにやってらっしゃるのに、ぼくだけこのザマですからね」  なるほど陰々滅々として沈んだ声である。 「ご冗談でしょ。吉沢さん、それはほかのひとはそうかもしれないけれど、わたしなんかしがない銀座の流しじゃありませんか」 「いいや、あんたはえらいよ。ケンタッキーの謙坊といやあ、いまや銀座の名物男だからね」 「まあ、まあ、いいから席へ着きなさい。料理すっかり冷えちまってるけど、なんならもういちど温めさせようか」  原田雅実がいたわるように、吉沢平吉を隣の椅子につかせると、 「ビール飲む?」 「いいえ、ビールはいただきません。わたし酒でなんども失敗してるんで、ここんところずうっと禁酒してるんです。いいえ、冷めたくても結構です。自業自得ですからね」  吉沢平吉は細い腕でかたっぱしから料理を自分の小皿にしゃくいこみ、無言で|貪《むさぼ》り|啖《くら》うているその姿を見ると、佐川哲也といえども|惻《そく》|隠《いん》の情をもよおさずにはいられなかった。しかし、かれはまだ警戒心を解いたわけではない。こいつだろうか。今夜のこの集まりの影の演出者は? と、するとその目的はなんだろう。  吉沢平吉はひととおり料理に|箸《はし》をつけると、いくらか|含《はに》|羞《かみ》をおびた眼で一同の顔を眺めていたが、その視線が多門修にとどまると、 「あちらどなた?」 「ああ、紹介しとこう。こちらぼくのバンドが専属しているクラブK・K・Kのマネージャーの多門修氏」  今夜ここへほかの用事があって来られたのだが、はからずもわれわれの同窓会があるとしって顔を出されたのであると説明し、多門修もそれにつづいて適当な挨拶をつけくわえた。 「ときに、吉沢君」  佐川哲也が円卓のうえに乗り出すようにして、 「あんたいまいやにシケたこといってたけど、どこかの日曜大工センターのマネージャーやってるというじゃないの。これ風ちゃんに聴いたんだけど」 「それが駄目なんです」 「駄目とは……?」 「わたしの属している日曜大工センターは、三栄興業って中小企業のまあ小にちかいほうの会社で、いろいろレジャー施設を持ってたんですね。それがひところボーリングがはやるというんで、やたらに手を広げて、東京都内だけじゃなく、近県各地にまでボーリング場を持ってたんです。ところがボーリングが下火になるにつれて四苦八苦。いろいろ環境に適応して転業していったんですが、それがみんなうまくいかないんです。ことにわたしのやってる日曜大工センターなどは|惨《さん》|憺《たん》たるものです。だからいまの仕事もどうせ長くはないんじゃないかと思うと、首筋の寒い毎日を送ってますよ」  淡々としたその口調はだれに訴えるというのでもないが、陰々滅々たるその語りくちは、こういう席上でふさわしいものとはいえなかった。 「ときに平ちゃん、あんた妙なものを耳にはさんでいるじゃないか。それやっぱり商売道具なの?」  原田雅実に指摘されて、吉沢平吉は発作的に右の耳に手をやると、短い青鉛筆を手にとってみて、自ら|嘲《あざけ》るように苦笑しながら、 「いけない、いけない。これじゃお里まる出しですな」 「あんた職場ではいつもそうして、鉛筆を耳にはさんでいるの?」 「はあ、仕入れやなんかやるもんですから。ところがその計算というのがぼくには苦手でしてね。いっつも簿記が|杜《ず》|撰《さん》じゃないかって、ボスからお目玉をくらってるんですよ。原田さん、なにかわたしにむいた仕事はないでしょうかねえ。このままじゃわたし、首でもくくらなければならないかもしれません」  そら、お株が出たとばかりに一座はちょっとシラけたが、そのとき佐川哲也がいささか開き直った切り|口上《こうじょう》で、 「ときに、吉沢君、今度のこの集まりの案内状だがね。どちらへいったの。君の自宅へいったの。それとも勤め先のほうへいったの」 「自宅……たって安いアパートの一室ですがね、そっちのほうへ頂戴いたしましたよ」  一同はふいと顔を見合わせた。佐川哲也は片眼に|猜《さい》|疑《ぎ》にみちた色をうかべながら、激しい口調でなにかいいかけたが、すぐ気を変えたように、 「ここは風ちゃんにまかせらあ。おれ、なんだか胸がムカムカしてきたよ」 「ああ、そう」  秋山浩二はおだやかに引きとったが、さすがに緊張した顔色で、隣席の吉沢平吉の顔をまじまじ見ながら、 「ところがねえ、平ちゃん、ここにおかしなことがあるんだ」 「おかしなこととおっしゃると?」 「ここにいるわれわれ四人は、だれもあんたの住所をしらないんだよ」 「と、いうと……?」 「だから問題はだれがあんたのところに、この同窓会の案内状を発送したかということなんだ」 「でも、発起人はあなたと佐川さんの連名になってましたよ。だからあなたがたおふたりのどちらかが……」 「ところがわれわれふたりとも、君の住所なんか全然しらなかったんだ。風ちゃんもおれもな。住所どころか君がいまどこでなにをしてるかさえしらなかったんだ。いや、われわれ四人のうちだれもこんな案内状なんか出した憶えはないんだ。吉沢君、君、それについてなにか心当たりはないか」  吉沢平吉の馬面がいっそう長くなったかと思われた。|唖《あ》|然《ぜん》とした表情で自分に集中した四人の視線を、臆病そうな眼つきで見まわしている、その混乱した身振り動作が本物なのか、それとも巧妙なる演技なのか、はたから観察している多門修にも見極めがつかなかった。 「そ、そ、それ、どういう意味なんでしょうか」 「だから、それを君にきいているんだ。君じゃないのか、こんな|悪《いた》|戯《ずら》をしてわれわれ四人をここへ呼び集めたのは? しかし、それにはどういう目的があるんだ。どんなつもりでわれわれをここへ集合させたんだ」 「そ、そ、そんな……そ、そ、そんな……」  だが、そのときである。室内の蛍光灯が二、三度パチパチまたたいたかと思うと、そのままフーッと消えてしまった。 「停電……?」  だれかが虚をつかれたように呟き、そこにちょっとしたざわめきが起こりかけたが、 「いや、停電じゃない。廊下の灯はついてるよ」  多門修は落ち着き払って一同を制した。なるほど廊下から差し込む光線と、窓の外に輝きをましてきたネオンの光りで、室内は真っ暗というわけではなかったが、それでも場合が場合だけに、一同|蒼《あお》|白《じろ》んだ顔を見合わせていたが、そのとき世にも驚くべきことがそこに起こった。      五  ガタンと音がしたので一同ギョッとしてそちらのほうを振りかえると、あのマントル・ピースのうえの置き時計の文字盤が|外《はず》れて、そこから|迸《ほとばし》り出した一条の光線が六人の男の頭越しに、真正面のスクリーンへむかって照射した。一同が反射的にそのほうへ眼を転じると、そこには直径二メートルほどの映像がうかびあがっている。  はじめはそれがなんであるかわからなかった。妙にボヤけてモヤモヤしていて、輪郭もはっきりしなかった。しかし、それがひとつのスライドであるということはだれにもわかった。一同が|呼《い》|吸《き》をのみ、手に|汗《あせ》握ってそのものを|視《み》つめていると、幻燈写真はしだいにその輪郭を改めて、それがなんの映像であるかを正確に示した。  そのとたん、 「キャッ」  と、叫んで椅子からすべり落ちたのは、|屁《へ》っぴり腰の平ちゃんである。  無理もない。いまから二十年のその昔、忘れもしない昭和二十八年九月二十日の夜、かれはこの幻燈の生のものをその眼で見て、腰を抜かし気を失ったのだ。  それはサムソン野郎のビンちゃんこと、山内敏男の生首の拡大写真なのだ。長髪を束ねてシャンデリヤの鎖にぶら下げられ、顎ヒゲの先に短冊をしばりつけた生首風鈴の、それは世にも恐ろしい拡大写真なのだ。くわっと見開いた目、大ぶりな鼻、あんぐり開いた口、顔中ヒゲに埋まったその生首。それが実物の何十倍、いや、百何十倍という大きさで、スクリーンのうえから暗闇のなかにいる一同を|睨《にら》みつけ、圧倒しているのだ。 「おれはしらん、おれはしらん、おれはなんにもしらないんだ」  吉沢平吉の夢中でわめき弁明することばが、ほかの連中の耳に入ったかどうか。  あの翌日の早朝この生首の実物を見た瞬間、精神錯乱におちいったテキサスの哲ちゃんこと佐川哲也も、こんどはそんな醜態は演じなかった。恐怖と疑惑のいりまじった眼で、あるいはこの拡大された血みどろの映像を凝視し、あるいは探るような眼で他の四人の顔を見くらべている。もっとも吉沢平吉はテーブルの下に|潜《もぐ》り込んでいるので、その顔色は読めなかったが、はげしい|痙《けい》|攣《れん》を見せているその肢態は、恐怖の化身と思われた。  他の三人のうち二人はこの生首の実体こそは見ていなかったが、話は飽きるほど聞かされていた。だからこの映像がその輪郭をあきらかにしたとき、それがなんのスライドであるかをただちに|覚《さと》った。秋山浩二は右手でしっかり佐川哲也の左手を握りしめた。それが風ちゃんの哲ちゃんに対する友情の|証《あかし》なのだが、ふたりともねっとりと掌が|濡《ぬ》れていた。  原田雅実もいっとき茫然自失していた。かれは話にきいたビンちゃんの生首なるものを、いまはじめて拡大された幻燈写真で眼にしたのだが、あまり空想的でないかれは、写真そのものについてはそれほど恐れはしなかった。それに|児《じ》|戯《ぎ》に類することなのだ。かれの恐れたものはその背後にかくされた意志である。原田雅実はいまはじめてだれか影の演出者が、昔の「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の同窓生をしめて五人、ここに集合させたその意図が、わかったような気がしてきた。原田雅実はとつぜんこみあげてくる怒りを制することが出来なくなった。かれはつかつかと|暖《だん》|炉《ろ》のそばへ近よった。そのときのかれのつもりでは、置き時計を取りあげ床に叩きつけるつもりであった。それを|阻《そ》|止《し》したのは、 「原田君、止せ」  と、叫んだ多門修の声ではない。そのとき時計のおくから妙な声がきこえてきたからである。原田雅実はその声をきいたせつな、マントル・ピースのまえで立ちすくみ、思わずその声に耳をそばだてた。その声は一同にこう語りかけてきた。 [#ここから1字下げ] おまえらこの生首をしってるか いいや、しっているはずだ この生首こそいまから二十年のその昔 忘れもしない昭和二十八年九月十八日の夜 病院坂の首|縊《くく》りの家で |惨《ざん》|殺《さつ》されたサムソン野郎のビンちゃんこと 山内敏男の生首なのだ おまえたちはこの生首に呪われている 今日今夜この時刻に おまえたちはこの生首に再会した 今後おまえたちから 安らかな眠りは奪われるであろう おまえたちは呪われている おまえたちは呪われている [#ここで字下げ終わり]  妙な声だった。それがテープから出る声とはわかっているのだが、そのテープにはよほど細工がしてあるらしく、あるときはキーキー声になるかと思うと、あるときは深いひびきのある声となり、あるときは電源の切れたステレオみたいに、いまにも途切れそうなほど|緩《ゆる》やかなテンポになるかと思うと、またつぎの瞬間には急に廻転のはやくなったレコードのように早口になる。しかも終始一貫その声は、金属製の|漏斗《じょうご》のようなもので|濾《ろ》|過《か》されたがごとく、妙に含みのある声なのだが、さいごの、  おまえたちは呪われている。  のリフレーンにいたっては、まるで|銅《ど》|鑼《ら》でも叩くように、|殷《いん》|々《いん》として室内にひびき渡り、|轟《ごう》|々《ごう》として耳も|聾《ろう》するばかりにとどろき渡った。と、同時にスクリーン上のあのまがまがしき生首が、ゆっさゆっさと大きく揺れたかと思うと、二倍三倍と拡大されて、そこに|佇《ちょ》|立《りつ》している一同のうえに、わっとばかりにのしかかってくるかと思われた。 「キャーッ!」  これには加藤謙三も円卓のうえに顔をふせたが、つぎの瞬間、時計の文字盤のおくで奇妙な音がしたかと思うと、黄色い煙が噴き出してきた。それを見るといままでソファのそばにいた多門修がとんできて、暖炉のまえに立ちすくんでいる原田雅実をつきとばし、 「危ない! みんな伏せろ!」  その声に一同が床に身を伏せたあとも、奇妙な音はしばらくつづき、発煙筒を|焚《た》くように黄色い煙が噴き出していたが、やがてドカーンと室内をゆるがす爆音とともに、もの緩やかな曲線をもった凸字形の時計が砕けて散ったかと思うと、つぎの瞬間、ひとを小馬鹿にしたように、蛍光灯が二、三度またたいたのちにボヤーッとついた。  多門修はおそるおそる鎌首を持ちあげると、まずいちばんにスクリーンのほうへ眼をやった。もちろんあの無気味な映像はそこにはなかった。 「だ、だれだ、こんな悪戯をしたのは?」  片眼の佐川哲也が怒りに声をふるわせたとき、ふたりのボーイとさっきの女の子が足早にとびこんできて、 「どうしたんです。いまの物音はなにごとです」 「それはこっちから聞きたいところだ。だれがこんな時計をここへ持ち込んだんだ」 「時計ですって?」  ボーイのひとりは|怪《け》|訝《げん》そうに部屋のなかを見まわしていたが、ああ、しかし、その夜の衝撃はまだまだそれだけで終わったわけではなかったのだ。  建物の外の夜空高く、鋭い悲鳴のようなものがつんざいたかと思うと、つぎの瞬間、なにか大きな物体が窓の外へ落下してきた。グシャと物の砕けるような音がして、そのものは隣の食道楽ビルの屋根で動かなくなった。いちばん窓のそばにいた加藤謙三が、ヒーッとこわれた笛のような悲鳴をあげると、 「だ、だ、だれかひとが……」  そうなのだ。それはたしかに人間にちがいなかった。ボロ|雑《ぞう》|巾《きん》のように叩きつけられた、人間の頭部とおぼしいあたりから、しずかに血が|迸《ほとばし》り出て、みるみるうちに屋根のうえにひろがっていく。 「おい、この窓を開けろ、だれか人間が落ちてきたんだ、この窓を開けないか」  多門修が大声でわめき散らした。その顔は気が狂ったように朱に染まっている。 「は、はい、でも、その窓は……」 「なにをぐずぐずいってるんだ。だれかひとが落ちてきたんだ。窓を……」  多門修はこと面倒と思ったのか、ありあう椅子を取りあげると、一撃二撃。ガラスの破片が散乱して、やっとひとひとり|這《は》い出る|隙《すき》が出来たかと思うと、かれは上衣をぬいで頭からひっかぶり、|窮屈《きゅうくつ》な隙間から這い出した。  そこに倒れているのは、いや、まさしく死んでいるのは、あの哀れな本條直吉である。かれは頭を下に真っ逆様に落下してきたとみえ、頭蓋骨がグチャグチャに砕け、そこから血と|脳漿《のうしょう》がはみ出している。  そこへ弥生の間の入口からドヤドヤと入ってきたのは、金田一耕助と元警部の等々力大志。その背後には本條徳彦とヒゲ面の法眼鉄也の二少年、兵頭房太郎もひきつったような顔色で、ひとかたまりになってひしめいている。 「金田一先生、危ないですよ、そのガラス」 「うん、よし」  金田一耕助のあとにつづいて、その隙間から這い出していく等々力元警部は、すっかり意気|沮《そ》|喪《そう》しているようである。元警部の背後から徳彦少年が這い出した。 「パパ……パパ……」  徳彦少年の悲痛な叫びが弥生の間にいる、一同の|肺《はい》|腑《ふ》をつらぬいたとき、はるか頭上から声が降ってきた。 「だれです。そこへ落ちていったのは……?」  法眼滋の声であった。気がついてみると弥生の間はあのスイート・ルームの真下に当たっており、法眼滋はスイート・ルームのすぐうえの屋上の胸壁から身を乗り出しているのである。滋のそばには作業員が四、五人|群《むら》がっている。  金田一耕助はキッと上を見上げて大声で|怒《ど》|鳴《な》った。 「本條直吉氏」  それにつづいて、 「パパ……パパ……なんだって、なんだってこんな馬鹿なまねをしたんだよう」  徳彦は自分の父が飛び降り自殺をしたものと思い込んでいるらしい。  だが、そのとき弥生の間の室内でも、ちょっとした寸劇が演じられていた。  兵頭房太郎はこわれた窓ガラスにへばりついていたが、そこから抜け出す勇気はなかったらしい。なににおびえているのか中世紀の宮廷人のような服装をしたこの|洒《しゃ》|落《れ》|者《もの》は、ガタガタブルブル、木の葉のように身をふるわせて、額から冷めたい汗がしたたり落ちている。  しかし、室内にいる「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の同窓生たちは、だれもそのほうへ見向きもせず、ドアのところに立ちすくんでいる、鉄也の顔かたちを|眼《ま》じろぎもせず|視《み》つめていた。鉄也もまた敵意をふくんだけわしい眼で、五人の顔をひとりずつ見くらべている。ひょっとするとかれはこの五人をしっているのではなかろうか。  しかし、いま眼じろぎもせず鉄也の顔かたちを視つめている五人の同窓生のうち、いったい何人が鉄也のそのヒゲ面と、ついいましがたスクリーンのうえに写し出されたビンちゃんの、あの世にも無気味な生首とのあいだに、|著《いちじる》しい相似のあることに気づいたであろうか。    第六編 [#ここから4字下げ] 耕助・弥生奇妙な対面のこと  金田一耕助爆弾を投げること [#ここで字下げ終わり]      一  その年の四月十三日は金曜日であった。  金田一耕助はそれほど縁起をかつぐほうではないが、それでもなおかつその日の午後三時ごろ、田園調布の法眼家の豪邸の門をくぐったとき、心は重くかつ暗かった。  その日は平年気温をいくらか下廻るのではないかと思われる程度の、四月としてはまずまずの陽気だったが、きのうおとついと二日つづいて、初夏のような陽気だったあとだけに、いくらか|襟《えり》|元《もと》が薄ら寒いように感じられる。  金田一耕助は|鼠《ねずみ》色の古ぼけた合いの二重廻しを着て、桜の木で出来たステッキを突いている。頭のうえにはあいかわらず形のくずれたお釜帽をかぶっていて、その下からもじゃもじゃの|蓬《ほう》|髪《はつ》がはみ出している。  訪問先が訪問先だから金田一耕助もできるだけ、身だしなみに気をつけているつもりなのだが、ない袖は振れないのと、それにこの男、|雀《すずめ》百まで踊り忘れずで、この年齢になっても頭髪をひっかきまわす癖が改まらない。二重廻しの下は濃紺のウールの|単衣《ひ と え》に長|襦《じゅ》|袢《ばん》、長襦袢の下からメリヤスのシャツがのぞいているのは、きょうはちょっと薄ら寒いので着込んできたのであろう。寸のつまった二重廻しの下からちらついているのは、例によって例のごとく、よれよれに|襞《ひだ》のたるんだ|袴《はかま》である。  そういう姿で金田一耕助が法眼家の|豪《ごう》|奢《しゃ》な玄関に立ったのは、まえにもいったとおり四月十三日の午後三時ごろのことであった。ベルを押すとはるか遠くのほうでキンコン、キンコンという音が二度きこえ、まもなく、 「どなたさまでいらっしゃいましょうか」  と、若い女の声がインター・ホーンを通じて返ってきた。 「はあ、こちら金田一耕助というものでございますが……」 「ああ、そう、少々お待ちくださいまし」  やがて玄関へ現われて両開きのドアを八文字に開いたのは、いちばん年の若いお手伝いさんの里子である。 「金田一耕助先生でいらっしゃいますか」  と、念を押したのは、耕助の姿がよっぽど異様に見えたのであろう。 「はあ、ぼく金田一耕助です。お招きがあったので参上いたしましたとそう申し上げてください」 「では、どうぞこちらへ」  帽子をとり二重廻しを脱いで帽子掛けにかけると、玄関のすぐかたわらが応接室になっている。広い応接室である。二十畳敷きくらいもあろうか。しかし、適当に暖房装置が調節されているのか温度は快適である。金田一耕助は里子の示すソファのひとつに腰をおろすと、それとなく部屋のなかを見廻した。かれの期待したものはもうそこにはなかった。かれの期待していたもの、それはいうまでもなく法眼家三代の写真である。琢磨と鉄馬、それから琢也と三人の。金田一耕助はそれらの写真が、いま鉄也の居間に飾られているということをしらない。  それから金田一耕助は窓外に眼をやったが、そこにもかれの期待したものは見当たらなかった。かれの期待したもの、これまたいうまでもなく風鈴である。それがもうこの家にないということは、昭和二十八年のあの生首風鈴事件以来、そのものはこの家にとって、タブーになっているのではあるまいか。  金田一耕助は|袂《たもと》からホープの箱を取り出すと一本抜きとり、備えつけの卓上ライターで火をつけた。と、ちょうどそのとき少し年上のお手伝いさんが、日本茶をお盆に捧げて入ってきた。 「いや、これはどうも」 「少々お待ちくださいまし。いますぐ若奥様がお見えになります」 「はあ、どうぞごゆっくり」  金田一耕助がホープをくゆらしながら、香りの高い茶をすすっているところへ、由香利が静かに入ってきた。由香利は胸のところに細かい銀の|刺繍《ししゅう》さえ入っていなかったら、|喪《も》|服《ふく》かと|見《み》|紛《まご》うばかりの黒いドレスを着ているが、顔はまっしろに|蒼《あお》|褪《ざ》めて、その眼もなんとなく緊張にとがっているようである。しかし、さすがに弥生からきいているとみえて、金田一耕助のいっぷう変わった服装にも、戸惑いしたような色はみせなかった。  眼がいくらかとがっているにしろ、弥生が誇りとしているだけに、華麗な美しさはさすがであった。  金田一耕助は由香利の姿を見ると、素早く吸殻を灰皿のなかで|揉《も》み消して、ソファのうえから立ち上がった。その眼は鋭くあいての顔かたちを観察しているのだけれど、あいかわらずショボショボした眼つきなので、あいてはそれほど威圧も感じず、それだけに警戒心も薄いのである。それがこの男の強味であった。  しかし、由香利はさすがに|眩《まぶ》しそうな眼の色をして、 「はじめまして。あたし法眼由香利と申します。先生のご存じの弥生の孫に当たるものでございます。お見識りおきくださいますように」 「やあ、ごていねいなご挨拶、痛み入ります。お|噂《うわさ》はかねがね|承《うけたまわ》っております。大奥様のご名代としてご活躍中とのことを」 「ほっほっほ」  由香利はかすかに笑ってみせたが、その頬はこわばっていて、かえってギコチないものにみえた。 「柄にもなくとおっしゃりたいんでしょう。さ、さ、どうぞお掛けになって、本日はお呼び立てしてたいへん失礼申し上げましたが、祖母に会っていただくまえに、ちょっとお耳に入れておきたいことがございますものですから」 「ああ、そう、どういうことでしょうか」  金田一耕助はゆっくりともとのソファに腰をおろした。由香利もそれに対して斜め向こうの席に腰をおろすと、それとなくさぐるような眼であいての身辺を捜していたが、金田一耕助が手ぶららしいのに気がつくと、なんとなく失望したような、しかし、いっぽうではほっとしたような顔色だった。だが、つぎの瞬間その視線があいての|懐《ふところ》にとどまると、ちょっとのまそこに|釘《くぎ》付けになってしまった。金田一耕助の懐は恐ろしくふくらんでいる。分厚いノートのようなものをそこに持っているようである。ノートのあいだにはいろんなものが挟んであるのではないか。由香利はかるく|戦《せん》|慄《りつ》した。しかし、相手がニコニコしているのに気がつくと、思わず頬を染め、唇をかんだ。 「あの、祖母のことでございますけれど……」 「はあ、そのお|祖《ば》|母《あ》ちゃまがどうかなさいましたか」  金田一耕助の調子には、相手を温かくはげますようなひびきがある。 「あのひといまでも頭はハッキリしています。決してひとに欺かれたり、ペテンにひっかかったりするようなひとではございません。なにしろ五十嵐産業という大世帯を、いまでもひとりで切り盛りしているようなひとでございますから、しかし、なにしろ|年《と》|齢《し》が年齢でございましょう。もう八十を越えておりますからね。それはそうと、金田一先生は祖母にお会いになったことがおありだそうですね」 「はあ、昭和二十八年に二度」 「その時分祖母はまだ若くて、綺麗だったでございましょう」 「はあ、とても六十を越えたご婦人とは思えませんでした。その時分から片眼がご不自由だったようですが、それがちっとも苦にならないくらい、高貴で、典雅で、優美で、まるで四十代の若さでいらっしゃいました」 「それがねえ、金田一先生」  由香利はまた溜め息をついて、 「やはり年齢というものは争えないものでございますわねえ。この二、三年急に|衰《おとろ》えがまいりまして、肉体的にもいろいろ故障が生じましたうえに、容色のほうもねえ。そこへもってきて、あのひととても気位の高いひとでございましょう。自分の容色に高い|誇《ほこ》りをもっていたひとでございましょう。ですから自分の老醜をだれにも見られたくないんでございますのね。ですからこの三年ほど家人にさえ顔はいうまでもなく、姿さえ見せないことにしておりますの。主治医先生とあたしとちかごろお願いした遠藤さんという看護婦のかた以外には」 「と、おっしゃいますと……?」  金田一耕助は眼をショボショボさせながら、 「じゃ、ぼくはお眼にかかれないわけですか」 「いいえ、それはお眼にかかりますとも。祖母のほうからお招き申し上げたのでございますから。ただ先生は祖母の姿はごらんになることがお出来にならないでしょう。祖母のほうからは先生を見ることが出来るのですが。たいへん妙な会見で、失礼なことは重々存じておりますんですけれど、その点あらかじめおふくみおき願いたいと、これが祖母の希望なんですの」 「大奥様、おやすみになっていらっしゃるんですか」 「いいえ、寝てはおりません。起きております。しかし、祖母の周囲にはたえずカーテンのようなものが、張り|囲《めぐ》らせてあるものでございますから」 「カーテン?」 「はあ、祖母は起きているときは、いつもカーテンのなかで暮らしているのでございます。先生はカーテン越しに祖母にお会いになるわけですが、絶対にカーテンのなかを|覗《のぞ》こうなどとはなさらないでいただきたいんですの。失礼なこととは重々存じ上げているんでございますが」  なるほど妙な申し出であった。金田一耕助はちょっと途方に暮れたような顔色だったが、いまさら引き|退《さが》るわけにもいかない。 「いや、承知いたしました。じつはきょうあたりこちら様からのお電話がなくとも、お伺いするつもりでいたもんですから」 「では、どうぞこちらへ」      二  なるほどそれは妙な会見だった。  そこはこの家の奥の院ともいうべき部屋で、建物のいちばん奥まったところに位置していたが、そこへ到達するには窓ひとつない、狭い|窖《あな》|蔵《ぐら》のような廊下を通らなければならない。その廊下は五メートルくらいもあろうか、その廊下のとっつきの右側に六畳くらいの洋室があり、それはあだかも銀行の窓口みたいな構造になっていた、窓口のなかには四十前後のいかつい体つきをした女が、無言のまま毛糸の編物に余念がなかった。 「遠藤多津子さん、祖母の看護をお願いしてあるかたでございます」  遠藤多津子は命をふくんでいるのか、椅子からちょっと腰を浮かして|会釈《えしゃく》をしたが、すぐわれ関せずえんとばかりに腰を落として、編棒をあやつりはじめた。おそらくこの女は弥生の看護婦であるのみならず、だれもここからなかへ入れないための用心棒ででもあるのだろう。  窖蔵のような五メートルの廊下の突き当たりにドアがあるが、そのドアは二重になっていた。おそらくドアのなかは防音装置がほどこされているのだろう。金田一耕助は二重ドアを締めている由香利を背後にして、あらためて部屋のなかを見廻した。  部屋の広さは二十畳敷きくらいもあるだろうか。窓という窓は全部二重に扉がしまっているが、部屋のなかがびっくりするほど明るいのは、天井からぶらさがっている華麗なシャンデリヤに灯が入っているからである。  部屋の一隅に豪奢な寝台がそなえつけてあるが、その寝台は|天《てん》|蓋《がい》つきで、天蓋からは四方に厚いビロードのカーテンが垂れている。これではなかに寝るひとは、窒息しそうな気がするのではないかと思われるが、そのひとはそうまでして自分の寝姿を、ひとに|垣《かい》|間《ま》|見《み》されることを警戒しなければならないのだろう。  寝台の反対がわの壁は一面に書架になっており、そこにはギッチリとファイルされた書類が整理分類されているらしい。|抽《ひき》|斗《だし》のいっぱいついたキャビネットも、おなじ用途をなすものだろう。  さて、部屋の中央には畳一畳くらいの大きなデスクがおいてあり、デスクのうえは綺麗に整理されているが、電話機だけがそのままになっているのは、外部と直通になっているのだろう。  思うにこの部屋は弥生にとって奥の院であると同時に|夢《ゆめ》|殿《どの》なのだろう。八十を越えてなお現世欲の|権《ごん》|化《げ》みたいな彼女は、ここで眠り、ここで思索し、ここで執務し、その結果を由香利を通じて実行に移すのであろう。  しかし、その弥生はどこにいるのか。彼女はカーテンのなかにいるのである。テーブルのむこうに高さ二メートルくらいの正方形のカーテンの筒が立っている。筒の一角は一メートルくらい、四方に濃い|紗《しゃ》の垂れ幕が垂れており、外部からなかは覗けないが、内部からは外が見えるようになっているのではないか。正面の垂れ幕の下方からゴム輪の車輪がふたつ覗いているところをみると、法眼弥生は車椅子のなかにいるらしい。  由香利はデスクのこちらがわの椅子を金田一耕助にすすめると、自分は用意された側面の椅子に席をしめた。このようすでみると彼女はオブザーバー格で、この会見の席に臨むつもりらしい。こうして三人の席がきまったところで、カーテンのなかから声がかかった。 「金田一先生、お懐しゅうございます。こちら法眼弥生でございますけれど、先生はちっともお変わりになりませんね」 「とんでもない。わたしも年をとりましたが、奥様お体のほうは……?」 「わたしはねえ、金田一先生、気ばっかり勝ってるんですけれど、体のほうがすっかり駄目になってしまいましてねえ。ですから、ちかごろはどなたにもお眼にかからないことにしておりますの。よんどころなくお眼にかかるような場合はこういうザマなんでございますのよ。ご無礼のだんお許しくださいますように」 「でも、お声をうかがっているとお若いじゃありませんか。お声に|艶《つや》と張りがおありになる」 「ほっほっほ、嬉しいことをいってくださる。なにしろ欲に凝りかたまっておりますもんですからねえ。欲、欲、欲……ただそれだけがわたしの生き|甲《が》|斐《い》なんですの。そこにいる孫娘の由香利なども、もうだいたい大丈夫なんですけれど、欲、欲、欲……そこんところがもうひとつ……ですからわたしもなかなか死ねませんのよ」  金田一耕助は興味ぶかげな眼差しで由香利のおもてを見守っている。その視線があまり|執《しつ》|拗《よう》なのに気がついたのか、由香利の頬に血がのぼり、しばらく昂然として相手の視線を|弾《はじ》きかえしていたが、やがて血の気がひいていくと、そっと反らしたその視線はたゆとうように虚空をさまよっていた。  カーテンのなかでは、そういうふたりの|葛《かっ》|藤《とう》に気がついたのか、 「金田一先生!」  と、弥生は鋭く呼びかけたが、すぐその語気を改めると、 「外交辞令はよいかげんにして、さっそく用件に入りましょう。先生はあれをご持参くださいましたでしょうね」 「はあ、あれとはなんですか」 「金田一先生! シラばっくれるのはよしましょう。わたしの人生にはもう時間的に余裕がない。あれとは鉄の|函《はこ》のことです」 「奥さん、鉄の函とはなんのことですか」 「まだあんなことおっしゃって。本條直吉があなたに鉄の函を預けたはずです。自分が死んだら適当に処置してほしいって」 「奥さん、しかし、あなたはどうしてそんなことをご存じなんですか。そのことは本條直吉氏とわたしのあいだの極秘事項なんですが……」 「あらま、じゃあのひとは先生にいっておかなかったんですか。わたしのところへ手紙をよこしたということを」 「聞いておりません。いったいどういう手紙をいつごろよこしたんですか」  カーテンのなかはしばらく無言のままだった、おそらく金田一耕助の顔色を読んでいるのであろう。由香利は落ち着かぬ自分を制御するのに苦しんでいるふうだった。 「由香利。あなたから話してあげなさい。本條直吉の手紙の内容を」 「はい……」  由香利はちょっと声をふるわせたが、すぐ|居《い》|住《ず》まいをなおすと、瞳を虚空にはわせながら、その口調はまるで暗誦するようである。 「それはだいたいこうでした。例の鉄の|函《はこ》は来月の父の命日にそちらへ持参する心づもりであったが、急に気が変わって金田一耕助という人物に預かってもらった。自分に万一のことがあった場合、金田一耕助がそれを開き、適当に処置するであろう。そういう権利を自分が金田一耕助に与えたのである。このこと一言お伝えしておく……と、そういう意味の文章でした」 「それでその手紙あなたはどうなさいました」 「焼き捨てました。お|祖《ば》|母《あ》さまのご命令で」 「そうですか。それはしりませんでした。本條直吉氏がそんな手紙をこちらへ差し上げておいたとは」 「それで金田一先生はその函を開いてごらんになったのですか」  これはカーテンのなかからの質問である。 「はあ、開きましたよ。直吉氏がああいうことになられたので」 「で、中身をごらんになったのですね」 「もちろん。そうするために函を開いたのですから」  しばらく無言でいたのちに、弥生のいくらか|嗄《しゃが》れたような声がきこえてきた。 「それで金田一先生はそのものの持つ意味がおわかりになりましたか」 「わかりました。それにはいちいち説明書きがついていたものですから」  またしばらく無言でいたのちに、 「金田一先生はなぜその函をここへ持ってきてくださらなかったのです。こちらでは約束のものを用意しておりますのに」  約束のものというのは、法眼弥生名義の本條会館の株の半分のことだろう。 「いずれはそうしたいと思っております。本條直吉氏の事件が解決したあかつきにはね」 「本條直吉は自殺したのではありませんか」 「いいえ、そうではなさそうです。まだハッキリしたことはわからないようですが、直吉氏は後頭部をなんらかの|兇器《きょうき》で強打されて、いちじ意識不明になっていたようです。そこを屋上から真っ逆さまに突き落とされたのではないか……と、そういう疑いが強くなっているようです」 「金田一先生」  由香利は声をふるわせて、 「そのとき先生はその場に居合わされたそうですね」 「はあ、おたくのご主人やご令息の鉄也君なんかとご一緒に」 「金田一先生、先生はまたどうしてそのようなところに……?」  カーテンのなかの声である。 「奥さん、問題はそこなんです。直吉氏の手紙にはその点にふれてなかったようですが、あのひとここ一か月ほど生命の危険にさらされている、つまりだれかに命を狙われているという|妄《もう》|想《そう》……いや、一昨日のようなことがあれば妄想とはいえなくなったんですが、そういう疑惑に悩まされていたんですね。そこでわたしのところへ相談にこられた。ところがご当人の直吉氏にもだれに狙われているのか見当もつかない、つまり動機がつかめない。鉄の函の一件ならそれをこちらへお返しすれば、万事円満解決ということになってるんですからね。それにもかかわらず直吉氏はだれかに狙われているという確信をもっていられた。ところが依頼をうけた私としても、動機がわからない以上、犯人の割り出しようがない。そこで当分直吉氏の身辺警戒に当たるという、非常に|姑《こ》|息《そく》な手段しか思いつかなかったんです」  ゆうべ金田一耕助は持ち場を離れた等々力元警部をうながして、ただちに九階へあがっていこうとしたが、運の悪いときには仕方のないもので、どのエレベーターもふさがっていたので、五分くらいは四階の廊下でまごまごしていたろうか。監事室からスイート・ルームへ直通のエレベーターさえ、九階にとまったきりで、いくらボタンを押しても降りてこなかった。機械が故障でも起こしたのだろうか。  やっとエレベーター・ガールの運転するエレベーターが四階へあがってきたが、それには降りる客乗る客が多く、しかもそのエレベーターは各階ごとに停止した。こうして金田一耕助と等々力大志が九階まで|辿《たど》りつくには、およそ十分ぐらいも必要としたであろうか。文明の利器もときによっては不便なものである。  しかも、そのエレベーターはスイート・ルームからいちばん遠い|翼《よく》にある。金田一耕助はエレベーターから飛び出すと、|袴《はかま》の|裾《すそ》をしだいて小走りに走り出していた。等々力大志もそのあとにつづいた。  やっとスイート・ルームへ辿りつくと、金田一耕助はノックもせずにドアを開いた。なかには兵頭房太郎がいた。鉄也と徳彦もいた。お|仲《なこ》|人《うど》の役目を果たした鉄也の父の滋が、日本座敷の畳のうえでモーニングを平服に着更えていた。きょうのかれはゴルフのかえりで、ゴルフ・バッグがそばにおいてある。しかし、|肝《かん》|腎《じん》の本條直吉の姿は見えなかった。  不吉な予感が金田一耕助の背筋をつらぬいて走った。 「徳彦君、お父さんは……? お父さんはどうしたんです」 「おやじは……」  と、いいかけて徳彦は鉄也と顔を見合わせた。鉄也は眼じろぎもせずに金田一耕助の顔を見つめている。 「いやあ、その大将ならお隣のおトイレですよ」  兵頭房太郎はひとを食ったように、こともなげな調子である。 「トイレ……?」  金田一耕助は等々力元警部を|促《うなが》して急いで部屋をとび出そうとしたが、 「ああ、ちょいと、ちょいと、金田一先生」  と、呼びとめたのは房太郎である。 「いま、飛び込んでいこうものなら、おやじさん、お|冠《かんむ》りですぜ」 「と、いうと……?」 「あのひと自分の失態をひとに見られるのが大嫌いなんです。いまも鉄也さんと徳さんが、大目玉をくらって追い出されてきたところでさあ」 「いったいどうしたというんです。本條さんトイレでなにをしているというんです」 「ゲロを吐いてるんですよ。ゲロもゲロ、大ゲロで、七転八倒のお苦しみというところでさあね。そいでいてあの大将|見《み》|栄《え》|坊《ぼう》なもんだから、そんなとこひとに見られるのが大嫌いときていらっしゃる。用があるなら、まあ、待っていらっしゃることですな」 「金田一先生、本條君どうかしたんですか。どうして先生みたいな私立探偵や、もと警察にいたかたをお願いしてるんです」  法眼滋はモーニングをすっかり平服に着更えて、日本座敷の畳のうえに立っていた。 「いや、それは……」  と、いいかけて金田一耕助はとつぜんことばを切ると、 「あっ、あれはなんだ!」  どこかでキャーッというような悲鳴が高く、長く尾をひいて、一同のいるスイート・ルームのガラス窓の外を、白と黒との物体が|礫《つぶて》のように落下していった。それは一瞬の出来事だったけれど、六人のものはハッキリそれを目撃した。 「あっ、あれ、パパじゃない?」  徳彦が悲鳴にも似た声をあげ、窓のそばへ駆け寄ったが、アルミ・サッシの窓がしっかり固定されているのをしると、身をひるがえして|脱《だっ》|兎《と》のごとくドアのほうへ突進していった。  全身|痺《しび》れたようにそこに立ちすくんでいる、金田一耕助と等々力大志をつきとばして、ドアの外へとび出した徳彦の背後から、 「徳! 徳!」  鉄也もあとを追って出た。かれは金田一耕助も等々力元警部も完全に無視しているようである。ふたりの若者によって、左右に|跳《は》ねとばされそうになった金田一耕助と等々力大志も、それによってやっと元気を取りもどした。徳彦と鉄也のあとを追ってとび出すあとから、兵頭房太郎もそれにつづいた。さすがにこの|粧《めか》し屋の気取り屋さんも顔面が硬直していて、さっきまでのひとを食ったような態度はけしとんでいる。  五人のものがひとかたまりになって、スイート・ルーム専属のエレベーターに飛びのったとき、機械は故障していたが、物慣れた徳彦の手によってすぐにそれは修理された。エレベーターのドアがしまって、それが下降しはじめたとき滋がドアの外へきた。かれは靴をはくのに手間取ったのである。エレベーターはそれに気がつかずにそのまま下降してしまった。      三 「それからあとのことは新聞でご存じのとおりです。本條直吉氏は四階の弥生の間の窓の外に落下して、そのまま即死を遂げられたのです」  金田一耕助はわざと「怒れる海賊たち」のふしぎな同窓会のことについては語らなかった。そのことはまだどの新聞にも報道されていないので、このひとたちはしらないはずである。もっとも鉄也が話していればかくべつだが、あの少年もまだ打ち明けていないのではないかと、金田一耕助はある理由から|憶《おく》|測《そく》している。 「そうするとたくの主人や鉄也なども、それを目撃したんですね、スイート・ルームの窓の外を本條さんが落下していくところを」 「しかも、世にも恐ろしい悲鳴をあげて落ちていくところをね。と、いうことは本條氏はそのときはまだ死んではいなかったということです。それを目撃したのはおたくのご主人とご令息の鉄也君、本條氏の息子さんの徳彦君、それに兵頭房太郎君、ほかに等々力元警部とかくいう私の六人です。ですからこの六人には完全なアリバイがあるというわけですね。もしこれが殺人事件としても」  またちょっとした沈黙があったのち、|几帳《きちょう》のむこうから声がかかった。  金田一耕助はさっきから気がついているのだけれど、その声はふつうの位置からはるかに下から出るのである。弥生が車椅子のなかにいるらしいことは、正面カーテンの両の側面から露出している、ふたつの車輪からでもうかがわれるのだけれど、それにしても声の出る位置が低過ぎる。弥生は体をふたえに折りまげているのであろうか。 「金田一先生、もしそれがかりに殺人事件としても、わたしども……いえ、このわたしになにか|掛《かか》り合いがあるとおっしゃるのでしょうか」 「いいえ、それはないでしょうねえ。あなたはそれほど愚かなかたではありません」 「と、おっしゃると……?」 「あなたと本條直吉氏とのあいだには妥協が成立していられた。徳兵衛氏の死後一か月ののちに直吉氏が鉄の函を返還する。その代償としてあなたはあなた名義になっている、本條会館の株の半数を無償で直吉氏に譲渡する。しかも、そのことはあなたの経済状態にとって、それほど大きな打撃ではない。そういう契約が成立している以上、しかもその日が目前に迫っている現在、事を構えて、つまり直吉氏の死をはやめるようなことをして、事をぶっこわすような、そんな危険なまねをなさるほど、あなたが|愚《おろ》かな女性ではないということを、わたしはよく存じ上げているということを、いま申し上げたのです」 「ありがとうございます。お|褒《ほ》めにあずかって恐縮です。しかし、それではなぜ問題の函をここへ持ってきてくださらなかったんです。金田一先生、お褒めにあずかったからって、お返しにいうのではありませんが、わたしはあなたを信頼しております。いいえ、信頼だけではなく、ふかく尊敬申し上げております。ですからあなたがあの鉄の函を私して、本條徳兵衛の後釜になろうとするようなかたではないということ、わたしはよォく存じ上げております。それだけにきょう鉄の函を持参してくださらなかったことについては、たいそう失望いたしました」 「奥様、そのご不満はごもっともです。しかし、これ条件がちがっているように思われるのですけれど」 「と、おっしゃると……?」 「これは直吉氏に聞いたのですけれど、徳兵衛氏が亡くなったら、その翌月の命日に直吉氏が問題の函をここへ持参して、奥様にお渡しするという約束でしたね、株と引きかえに」 「ああ、それでは時期が早過ぎるとおっしゃるんでございますか」 「いいえ、時期のことは問題ではありません。肝腎の直吉氏が亡くなられたのですから。ただわたしの申し上げたいのは、その際、由香利さん立ち会いのもとにというのが条件になっていると、直吉氏にうかがっているものですから」 「その由香利ならここにいるじゃございませんか」 「いいえ、このかたは法眼由香利さんではありません。ここにいらっしゃるこのひとは、コユちゃんこと山内小雪さん、ジャズ・コンボ『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のソロ・シンガーだった女性で、二十年まえの秋の夜、病院坂の首|縊《くく》りの家で惨殺されたビンちゃんこと、山内敏男君の妹にして愛人だったひとです」  金田一耕助はとうとう爆弾を投げつけた。  その瞬間、カーテンの奥からとすぐそばにいる女性の口から、ほとんど同時に悲鳴がほとばしり、由香利と名乗る女性はすっくと立って、入口の二重ドアの内側へいって立ちはだかった。  金田一耕助の退路を断つつもりだったかもしれない。その手には小型のピストルが握られている。      四  金田一耕助は二重ドアのまえに立っている女性の、苦痛と恐怖にゆがんだ顔をしばらくまじまじと|視《み》|詰《つ》めていたが、やがて悲しげに首を左右にふると、 「なるほどねえ、小雪さん、この二十年という歳月は、あなたにとっては薄氷を踏むような|年《とし》|月《つき》の積み重ねだったんでしょうなあ。いつ露見するか、いつ露見するかという……その時がきたらあなたは自決するつもりでいられたんでしょうねえ。あなたはむやみにひとを殺せる性格じゃない」  女の姿勢がぐらりと傾いた。二重ドアに背をもたらせた彼女の顔は絶望に|喘《あえ》ぎ、その視線は金田一耕助からはなれて遠く|虚《こ》|空《くう》をさまようている。ピストルを握った右手がダラリと垂直に垂れているのは、いま金田一耕助が指摘したとおり、このひとはひとを殺せる性格ではないのかもしれない。 「金田一先生」  そういう女の|挫《ざ》|折《せつ》を|叱《しっ》|咤《た》し|鞭《べん》|撻《たつ》するように、カーテンのむこうから弥生の鋭い声が|迸《ほとばし》った。 「あなたはなにをたあいもないことをおっしゃるんです。その子が由香利でないとすると、ながいことわたしはその子に|騙《だま》されていたとおっしゃるんですか」 「とんでもない。あなたはひとに騙されるようなひとじゃない。余人は|欺《あざむ》くことができてもあなたばかりは騙せるものじゃない。あなたは片眼が偽眼でいらっしゃるけれど、ひとつの眼でふつうの人間が両眼でものを見るよりよく見えるひとです。わたしの推理によると小雪さんを説き伏せて、由香利さんの身代わりを務めさせたのは、奥様、あなただったでしょう」 「ほっほっほ、妙なことをおっしゃる」  カーテンのむこうの弥生はこともなげに振る舞おうとしているらしかったが、さすがに金田一耕助のこの恐るべき暴露に動揺しているのか、その声はヒステリックで金切り声にちかかった。 「この子はわたしのみならず、周囲のものすべてが由香利として扱ってきたんですよ。金田一先生、あなたはまさか由香利と|瓜《うり》ふたつの女の子が、この世に存在していたなどと、まるで昔の|草《くさ》|双《ぞう》|紙《し》みたいなことをおっしゃるのではないでしょうねえ」 「ところが、奥様、昔の草双紙みたいなことが現実に存在したんですよ。私は昭和二十八年のあの事件以前に、由香利さんに会っているんですよ。そして、それからまもなくこの小雪さんにも。どちらもわたしに見られたとはわからない方法でね」  金田一耕助はあいかわらず物悲しげな眼の色をして、|訥《とつ》|々《とつ》として語りかけた。 「小雪さん、あなたはそのとき当時まだ|新《しん》|橋《ばし》にあった焼けビルの地下の、サンチャゴというキャバレーの舞台に立っていられた。最初あなたがステージへ出て来られたとき、わたしはとっさに由香利さんだと思ったくらいでした。そうとうじゃじゃ馬性の強かった由香利さんが、一人二役を演じているんじゃないかと思ったくらいです。しかし、そうじゃなかった。そこへ雛壇になっている客席へ由香利さんが入って来られた。由香利さんはかぶりものをし、大きなサン・グラスをかけていたし、その雛壇は暗かったので、だれもステージに立っているジャズ・シンガーと、新しく入ってきた女性の客が、瓜ふたつといっていいほど|顔貌《かおかたち》が似ているということに気がついたものはひとりもいなかった。わたし以外にはね。由香利さんは雛壇のとっつきの|手《て》|摺《す》りへいくと、かぶりものを取り去り、サン・グラスを外して、昂然として小雪さんに立ちむかわれた。そのとき気脈が通じたとでもいうのでしょうか、ステージにいる小雪さんの視線がひょいと雛壇の手摺りから身を乗り出している、由香利さんの姿をとらえた。恐ろしい対決でした。ふたりの女性の憎悪と|怨《おん》|念《ねん》の火花が散った対決でした。そのときのふたりの女性の心の叫びを、わたしはいまでも聞くことができるような気がします。由香利さんはこう叫んでいたにちがいない。よくもよくもこのあいだ病院坂の首縊りの家で、あたしに麻薬を|服《の》ませて自由をうばい、婚礼のまねごとを写真に撮らせたばっかりか、あたしのからだをさんざんおもちゃにしたわね。あなたのほうではそれで気がすんだのかもしれないけれど、あたしはおもちゃにされっぱなしで、泣き寝入りするような女じゃない。あたしはデリラなんだ。きっとあなたのサムソンを誘惑して、あたしのまえに|跪《ひざまず》かせてみせるわよ。小雪さん、あなたはあなたで心の中でこう叫んでいられたにちがいない。いいえ、いいえ、そうはさせないわよ。ここにいるひとたちはみんなあの夜の花嫁を、あたしだったとばかり思い込んでいるのよ。あなたのことはだあれも気がついてはいないのよ。だからあの夜のことは忘れてしまって、なにもなかったことにして引き|退《さが》って頂戴。あたしこのひとを絶対にだれにも渡しはしない、絶対に、絶対に、絶対に……そして、あなたは唄いつづけた、サムソン野郎のビンちゃんこと山内敏男君のトランペットに励まされて。わたしはいまでもあのときのあなたの唄声をおぼえている。あれ、メIt's Only A Paper Moonモでしたね」  小雪はいつか自分の席へもどっていた。その手にはもうピストルは握られていない。いまその手に握られているのはハンケチである。小雪はいま放心したような眼で虚空のかなたを|視《み》|詰《つ》めている。その両眼からは|滂《ぼう》|沱《だ》として涙が|溢《あふ》れていた。しかも、ときどき激しい戦慄が、彼女の全身を襲うのは、あの運命の対決のシーンを思い出しているのではないか。  カーテンのなかでもうめくような溜め息がきこえて、 「なるほど、金田一先生、あなたは恐ろしいひとです。聞きしにまさる怖いかたです。しかし、金田一先生」  と、いくらか声を励まして、 「ここに瓜ふたつほど似た女の子がふたりいたとして、あなたはどうしてここにいる子を、小雪のほうだと|極《き》めてかかっていらっしゃるんです」 「奥様、わたしはこちらの指紋を持っているんですよ。しかも、その指紋は由香利さんの指紋とはちがっている……」 「金田一先生」  カーテンのむこうで弥生が驚きの声を放った。 「先生は由香利の指紋を持っていらっしたんですか」 「持っていました。いや、いまでも持っています。偶然のことから手に入れたんですけれどね」  と、あの病院坂の首縊りの家の鼠の穴から、発見された短冊のことを簡単に説明したのち、 「これはこういう順序になるんじゃないかと思うんです。軽井沢から|誘《ゆう》|拐《かい》された由香利さんは、当分|五《ご》|反《たん》|田《だ》のギャレージに監禁されていたのでしょう。ところが由香利さんが軽井沢から誘拐されたのは昭和二十八年の八月十八日ですが、その前々日に碑文谷署管内の派出所から手錠がひとつ盗まれている。妙な泥棒で、すぐそばにピストルがあるのに、それには手をつけないで、手錠だけが盗まれたんです」  手錠ということばを口にするとき、金田一耕助はさりげなく小雪の顔色をうかがっていた。反応はあった。視線を遠く虚空に馳せていた小雪の体に、そのとき二度三度強い|痙《けい》|攣《れん》が走ったかと思うと、額に脂汗がねっとりとにじんできた。手錠というものについて小雪には、なにかもっと恐ろしい連想があるのではないか。カーテンのむこうはひっそりとしてただ静かである。 「わたしはこの奇妙な手錠泥棒を、ビンちゃんではなかったかという疑いを強く持っているんです。ビンちゃんはそれから二日のちに軽井沢から由香利さんを誘拐していますが、そのまえに由香利さんの性格や行状を詳しく調査研究していたにちがいない。驕慢で我が強く、ひと筋縄でもふた筋縄でもいかぬじゃじゃ馬お嬢さんだということをしっていたのでしょう。だから、五反田のギャレージへ監禁されているあいだじゅう、由香利さんは手錠をはめられ、サルグツワをかまされていたにちがいない。そして、そのこと……ことに罪人のように手錠をはめられたということが、いたく由香利さんのプライドを傷つけたことはいうまでもありますまい。さて、こうしてあの運命の結婚式が演出された、八月二十八日まで、由香利さんはギャレージのなかに監禁されていたんでしょうが、その間たったいちどだけ、奥様のところへ電話をかけることを許された。そのとき由香利さんはこういわれたそうじゃありませんか。『おばあちゃま、とっても不思議なことがあるのよ、おばあちゃまはいままでそのことをご存じなかったんですのね』いや、そのまえに……」  金田一耕助はそこでちょっとことばを切ったが、すぐ息をついで、 「軽井沢で由香利さんを呼び出した電話のぬしについて、滋さんはこういってましたね。『おばさんからの電話よ、あたしにおばさんがあるんだって。こんなバカな話ある?』って、由香利さんはそういってバカみたいにケラケラ笑っていたと、あの当時滋さんがいってましたね。由香利さんのおばさまといえば、ここにいらっしゃる小雪さんしかありません。してみると軽井沢の山荘へ電話をかけて、由香利さんを塩沢湖へ呼び出し、そのまま五反田へ|拉《ら》|致《ち》した犯人のなかには小雪さんもいたわけです。おそらくそれはビンちゃんこと山内敏男君と、コイちゃん、あるいはコユちゃんこと小雪さんのふたりだったでしょう」  金田一耕助はそのときそばに席をしめている小雪の腹の底から、|抉《えぐ》るような溜め息がこみあげてくるのを聞きのがさなかった。それは屈辱だったか、はたまた悔恨だったか、おそらくその両方ではなかったか。涙はもう乾いていた。 「それにしてもあのとき由香利さんを誘拐した、ビンちゃんこと山内敏男君の|目《もく》|論《ろ》|見《み》はいったいなんだったのでしょう。金が目的ではなかったらしいことは、奥様、あなたもあの当時いってらっしゃいましたね。小雪さん」  金田一耕助にやさしい眼で呼びかけられて、 「はい」  と、素直に答えたところをみると、小雪はもう自分が小雪であることを否定する意志を放棄したらしい。 「あの事件があったあとわたしはそうとう詳しくビンちゃんやコイちゃん、すなわちあなたですね、それから由香利さんのことも調べさせていただきましたよ。その結果えたところによると、ビンちゃん、なるほど女性関係にはルーズなところがあった。麻薬もちょくちょくやっていたらしい。しかし、決して悪質な人物ではなく、体も力もサムソンだったが、心もサムソン同様、優しく、かつ穏かだった。しかも、あなたを熱愛していた、妹としてね。そのビンちゃんにとってただひとつの心外のタネだったのは、小雪さんと由香利さんとのあいだに、あまりにも|懸《けん》|隔《かく》がありすぎるということだった。いっぽうは妾腹とはいえ琢也先生の娘とうまれ、いっぽうは正系とはいえ琢也先生の孫である。血からいえば小雪さんのほうが琢也先生にはるかにちかいのだ。それにもかかわらず、ふたりの地位や身分や境遇にはあまりにも差がありすぎる。そのことがビンちゃんを憤慨させたのみならず、もうひとつビンちゃんがコイちゃんを|不《ふ》|愍《びん》がったのは、コイちゃんは所詮ジャズの世界のひとではなかった。どんなに教育しても芸能界のひとになりきれないなにものかを、小雪さんは身につけていた。しかも、コイちゃんは多くの男から狙われている。そこでビンちゃんは決心した。断ちがたき愛情……兄いもうととしての愛情ですね、それを断ち切ってでも小雪さんを法眼家へ返そうと試みた。法眼家で正式の座を与えてもらおうと考えた」  金田一耕助はそこでことばを切った。息切れがしたためではない。カーテンのむこうの反応をたしかめようとしたのである。カーテンのむこうはただ静かである。      五  金田一耕助はことばをついだ。 「しかし、そのときビンちゃんは作戦を誤った。いや、作戦を誤ったというより人選を誤ったんですね。小雪さんのお母さんのお冬さんがそうであったように。ビンちゃんはコイちゃんをつれてここへ来るべきだったんです。直接奥様に会うべきだったんです。奥様ならばこのひとと由香利さんとの驚くべき相似に気がついたら、素直にこのひとを琢也先生の娘と認め、かつこのひとに法眼家でなんらかの座を与えたでしょう。それにしても、奥様。法眼琢也先生はなんだって、小雪さんをいちどもあなたに会わせようとしなかったんです。小雪さんと由香利さんが瓜二つだということを、琢也先生はなぜひたかくしにしていられたんです。琢也先生はなんらかの意味であなたを怖れていられたんですね。あなたの性格のなかにあるなにものかを。なにかそら恐ろしいものがあなたの性格のなかにある……琢也先生はそれを怖れた。だから小雪さんと由香利さんが瓜ふたつだとわかったが最後、どういう|禍《わざわ》いが小雪さんの身に降りかかってくるかもしれないと、それを恐れられたんですね」  こんどは手応えがあった。カーテンのむこうがわからきれぎれに聞こえてきたものは、世にも悲痛な|呻《うめ》き声であった。 「あのひとは……わたしを誤解したのです。その原因は……むろんわたしにあるわけですが……おお、おお、……由香利と小雪が瓜ふたつだと|識《し》っていたら……わたしは……わたしはどんなにか救われたでしょうに」 「わかりました」  金田一耕助は傷ましそうな顔色をかくそうともせず、 「しかし、その問題はもっとあとで討議しましょう。話がそっちへいっちまうと、こんがらがってしまいますから、それよりビンちゃんの話をつづけましょう。ビンちゃんもおなじような理由から、あなたを怖れていたにちがいない。そこでおなじ世代の由香利さんなら、話がわかってもらえるんじゃないかと、小雪さんに命じて軽井沢の山荘へ電話をかけさせ、塩沢湖へ由香利さんを呼び出したんですね。小雪さん、その結果はどうでした」  小雪はしばらくためらったのち、 「全然いけませんでした。あのひとは……猛烈な拒絶反応を示されたんです。むりもありませんわね。なんの予備知識もないところへ、わたしという女がとつぜん顔を出したんですから」 「ちょうど由香利さんのお母さんの万里子さんが、あなたのお母さんのお冬さんを拒絶し、無視し、黙殺したようにね」 「そうだったかもしれません。当時の塩沢湖はいまとちがって淋しいところでした。わたしどもは湖の中の島で一時間ほど話しあったのですけれど、てんで相手にしてもらえませんでした。|詐《さ》|欺《ぎ》だのペテンだのと……揚句の果てにあたし激しい平手打ちのお見舞いをうけました」 「あなたが由香利さんとそっくりだったのが、かえってあのひとの気に|障《さわ》ったのじゃありませんか」 「そうだったかもしれません。妾腹の子のくせに生意気だと思われたのかもしれませんわね」 「それからあなたがたは由香利さんをつれて、東京へかえって来られたんですね」 「平手打ちがいけなかったんですね。それが敏男さんを憤激させたんです。あのときあたしもびっくりしたんですけれど、とつぜん敏男さんが手錠を出して、由香利さんの両手にはめてしまったんです。そして、ジャック・ナイフを突きつけて、そのまンま由香利さんの乗ってきた自動車につれてって、客席のほうへ押し込んだんです。運転はあたしがいたしました」 「しかし、途中で由香利さん、山荘へ電話をかけたんじゃないんですか」 「いいえ、あれはあたしが掛けたんです。塩沢湖から碓氷峠へいくまでにどうしても、軽井沢駅のまえを通らなければならないでしょう。そのまえに電話ボックスがあったもんですから、敏男さんがこのひとにかわって電話をかけとくようにというもんですから」 「なるほど、それから五反田のギャレージへ由香利さんをつれていき、その翌日由香利さんにこの家へ電話をかけさせたんですね。それともあの電話もあなたがかわって……?」 「いいえ、あれは由香利さんでした。なにしろ敏男さんがジャック・ナイフを突きつけているものですから、由香利さんもよけいなことはいえなかったんです」 「ねえ、小雪さん、由香利さんが誘拐されてから、病院坂のあの家で、奇妙な結婚式が行なわれるまで約十日あるのですが、そのあいだにビンちゃんが、由香利さんを犯したというようなことは……?」 「いいえ、それはありませんでした。あの際、由香利さんがもう少し神妙にしていてくだされば、敏男さんもあんな思い切ったことは、思いつかなかったろうと思うんですの。しかし、なにしろ徹頭徹尾たけだけしくていらっしゃいましょう。ここで金田一先生にひとこと申しあげておきますけれど……」 「はあ、どういうことでしょうか」 「あたし法眼という苗字に強い|憬《あこが》れを持っていました。しかし、それ以上に敏男さんに深い愛着をもっていたんです。ですから法眼の姓を名乗れるということは、とても嬉しいことですけれど、そのために敏男さんと縁が切れるということは、このうえもなく|辛《つら》い悲しいことでした。そのことはなんどもなんども敏男さんにいったんですけれど、あのひととしてはいつまでもあたしをああいう世界へおいとけないと思ったんでしょう。その結果、ああいう非常手段に訴えたんですけれど、由香利さんをよくよく観察しているうちに、やっぱりあたしを法眼家へ、返さないほうがいいと思いはじめたらしいんですのね。しかし、そのまま由香利さんを解放してしまうには、腹にすえかねることがいろいろあったんでしょうねえ」 「それで、ああいう奇妙な結婚式のあとで、由香利さんを犯したんですね」 「…………」 「それにあなたも手を貸されたわけですね」 「申し訳ございません。それについてはなにもいいわけはいたしません」 「しかし、そのことが後日どういう重大な結果をもたらすかということを、あなたはまだご存じなかったんですね」 「はい、あたしはバカでした」 「それはそれとして、あのとき写真を撮られたのは……?」 「それはもちろん、こちらの奥様の鼻をあかしてやろうという、そういう気持ちだったのでしょう。げんに写真の一枚をこちらの奥様に送っていましたから」  こちらの奥様とハッキリけじめをつけはじめたのは、小雪は小雪なりに覚悟が出来ているのだろう。金田一耕助は|傷《いた》ましげにその横顔を|視《み》守りながら、 「本條写真館へ使いされたのはあなたのようですけれど、あの写真館を選んだのはなにか理由があってのことですか。こちらとの深いつながりをご存じのうえのことで……?」 「いいえ、あの時分はなにもしりませんでした。いえ、いまでも深い事情は存じません。しかし、敏男さんはなにかしっていたのかもしれませんわね。本條写真館ととくに念を押していましたから」 「あれは昭和二十八年八月二十八日のことでしたが、あの日はじめて由香利さんを病院坂のほうへ移したんですか」 「はあ、あの日の夕方」 「手錠をかけたまま……?」 「サルグツワもはめてました。なにしろ、いつまでたってもたけだけしさを失わないかたでしたから」 「でも、病院坂のほうへついてから手錠を|外《はず》し、ほんの一瞬でも眼をはなすチャンスがあったんじゃないですか」 「それはあったかもしれませんわね。あたしは本條写真館へ使いにいきましたし、あとは敏男さんひとりでしたから」  金田一耕助はカーテンのほうにむきなおり、 「奥様、奥様のところへ送られてきた結婚記念写真には風鈴が写っていたでしょう。ところがその風鈴には当然ぶらさがっているべきはずの短冊がぶらさがっていなかった。由香利さんがむしりとったんですね。小雪さん、あのとき由香利さんは表面たけだけしかったかもしれないけれど、内心はひどく|怯《おび》えていたんですね。だから一瞬のすきを見て短冊をひきちぎり、その裏面に持ち合わせていた棒紅で『助けて 由香利』と走り書きした。おそらくそれを|塀《へい》の外へでも投げすてるつもりだったんでしょう。ところが、そのまえにビンちゃんが入ってくるかしたので、あわててその短冊を八つ折りにして、鼠の穴へ突っ込んだんでしょうが、問題はそこです。由香利さんはそのときそうとうあわてていたにちがいない。棒紅のキャップを抜くとき、その手はふるえわなないていたことでしょう。だから左の指先にも紅がついた。その紅で染まった左手で短冊を握り、右手で字を書いたものだから、その短冊の裏面にはくっきりと、紅で染まった左手の指紋が三つ残っていたのですよ。親指と人差し指と中指と……したがってこれは由香利さんの指紋と思ってもまずまちがいないと思います。ところで小雪さん」 「はあ」 「あなたはパーティーやなんかの席でシャンパン・グラスやワイン・グラスをお持ちになるとき、左手でお持ちになるくせがおありのようですね。そうすると、グラスに左手の指紋が三つ残ります。親指と人差し指と中指と……しかも、わたしは指紋の鑑定にはそうとう自信があるんですよ。おふたりの指紋はちがっていました」  しばらく沈黙の時間があったのち、カーテンの奥から弥生の|嗄《しゃが》れ声がきこえてきた。 「金田一先生、あなたはいつごろそれに気がつかれたんですの。このひとが由香利ではないということに」 「昭和二十八年の事件があってから半年ほどのちのことですから、二十九年の春頃ですね。わたしロサンゼルスにはそうとう大勢識り合いがあります。そのなかのひとりに頼んでこのひとの指紋を採ってもらったんです。シャンパン・グラスにね」 「それにもかかわらず、いままで沈黙を守ってくだすったんですね」 「奥様、わたしにはわからなかったんです。昭和二十八年の九月十八日の夜、病院坂のあの家で果たして何事が起こったのか、どういうことがあったのか、それがわたしにはわからなかった。わたしはまるで盲目でした。ただこういうことだけは考えました。瓜ふたつほど|相《あい》|似《に》たふたりのうちひとりが消えた。表面上それは小雪さんということになっているが、しかし、それが由香利さんではいけないのか。そこでロスまで手をのばしておせっかいをしてみたのですが、では、ほんものの由香利さんはどうなったのか、また、なぜビンちゃんの首から下をかくさねばならなかったのか、わたしにはそれがわからなかった。わたしは確信のないことはいわないことにしていますし、それにわたしは警察官でもなければ|恐喝《ゆ す り》|屋《や》でもない」  金田一耕助は吐きすてるようにいってのけた。しばらくの沈黙ののちカーテンの奥から声がかかった。 「それでいまはもうわかっていらっしゃいますの。昭和二十八年の事件の真相が……」 「わかりました。本條徳兵衛氏の遺した写真のかずかずによってね」  金田一耕助はふくらんだ|懐《ふところ》から分厚いノートを取り出そうとした。だが、そのときである、デスクのうえの電話のベルがけたたましく鳴り出したのは。    第七編 [#ここから4字下げ] 矢継ぎ早の殺人事件のこと  鉄也・美穂イニシアルのこと [#ここで字下げ終わり]      一  場合が場合だけに三人は息をのむ思いだったようだが、小雪が勇を鼓して受話器を取り上げた。出来るだけさりげなく声を取り|繕《つくろ》いながら、 「もしもし、こちら法眼ですけれど……金田一先生……? ええ、その金田一先生ならいまここにいらっしゃいますけれど、そちらどなた様で……? 多門さん……? 多門修さんでいらっしゃいますね。少々お待ちくださいまし」  小雪はあきらかに多門修の名をしっていたにちがいない。顔面を硬直させながら受話器を金田一耕助に手渡した。 「ああ、修ちゃん、こちら金田一耕助だ。なにか急用でも……? えっ、なんだって? ゆうべまたひとり殺されたって? だれだい、それは……? な、な、なんだって……? ああ、そう、なるほど……ふむ、ふむ、それで犯人はその場でとっつかまった……黙秘権……ああ、そう、身許を確認出来るようなものはなにも持っていなかったんだね。ふむ、ふむ、それで……テキサスの哲ちゃんとフロリダの風ちゃん、マイアミの|雅《ま》あちゃんとケンタッキーの謙坊……みんな昔の『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』の同窓生だね。ふむ、ふむ、そうするとおとといの同窓会を画策したのはやっぱりあの男かあ……ふむ、ふむ、それで……? そのひとたちの証言で犯人の身許が割れたあ……だれだい、それは……な、なんだって……?」  金田一耕助の声がそこで爆発すると、額から脂汗を吹き出した。急に声が低くなり、ただふむ、ふむと受け答えだけが長くつづいた。やがて、 「ああ、よし、すぐ出向いていく。だが、そのまえにこちらの奥様がたにちょっと事情を説明しておかねばならんからね。なに、警部さんが、あのひとならいまこの家のまえで張ってるよ。ぼくがあんまり長く出て来ないようなら踏み込むつもりなんだ。取り越し苦労もいいところだ。あっはっは、ではのちほど」  そっと受話器をおいたとき、金田一耕助の脂汗は|退《ひ》いていた。しかし、そばで緊張して立っている小雪の硬直した顔を振りかえったとき、その表情には|惻《そく》|隠《いん》の色がかくしきれなかった。 「金田一先生、またなにか……?」  小雪は|怯《おび》えて声が|咽《の》|喉《ど》にひっかかってふるえている。顔面は漂白されたように白かった。 「ええ、そう、昨夜また殺人事件があったそうです。殺されたのは旧『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のメンバー、屁っぴり腰の平ちゃんこと、ギターの吉沢平吉君です」  小雪は悲鳴にならぬ悲鳴をあげてドスンと椅子に腰を落とした。カーテンのむこうからも悲鳴に似た声がきこえたが、しいて落ち着こうとするように声を強めて、 「金田一先生、それがなにかこの家に関係があるとおっしゃるんですか」 「奥様、この事件は一昨夜の本條直吉氏の墜死事件と、関連のある事件と思わざるをえないのです。と、いうのはまだ申し上げるひまがなかったのですが……」  と、金田一耕助は要領よく「怒れる海賊たち」同窓会の奇妙な会合から、その場に写し出されたビンちゃんの恐ろしい生首のスライド、テープの叫ぶ怨念に満ちた|呪《じゅ》|詛《そ》の声々を語ってきかせた。金田一耕助はその場にいあわせたわけではないけれど、さいわいかれの腹心の部下、多門修がいあわせて、呪いの声々をメモに取っておいてくれたことだし、簡単なことばの複合なので金田一耕助は|諳《そらん》じているのである。  金田一耕助は咽喉の奥でかすかに笑って、 「これあきらかに外国テレビのスパイ物かなんかの模倣ですね」 「しかし、金田一先生、敏男さんの生首の写真は……? そんなものがいまごろどこから出てきたんです」  カーテンの奥から切れぎれな金切り声がきこえてきた。 「それはもちろん本條写真館からでしょうな。徳兵衛氏はひじょうに保存癖の強いひとだったようですからね。しかし、あそこでいちばん古い兵頭房太郎君ですら、そんなものが保存されていたとは気がつかなかったといっています。しかし、直吉氏はたしかあのとき撮影した五枚の乾板は、のちに警察から下げ渡されたので、どっかに保管されているはずだといってましたがね」 「じゃ、直吉です。直吉がやったにちがいない。あいつが……あいつが……」 「しかし、奥様、その直吉氏は死んだのですよ。あきらかに何者かによって殺害されたんです。しかも、恐ろしいスライドとテープで失神状態になっている、『怒れる海賊たち』の同窓生の鼻先へ、墜落して死んでいるのですよ」 「金田一先生は……それについて……どうお考えになっていらっしゃるんですの」  小雪はつとめて落ち着こうとしているふうだが、細かい戦慄があとからあとからこみあげてからだを|揺《ゆ》さぶり、その声は|干《ひ》|涸《から》びていた。 「わかりません。いまのところ確信をもっていえることはなにひとつないのです。ただこういうことはいえると思う。すべてが偶然の一致だとは思えない。『怒れる海賊たち』のメンバーが一堂に会したこと、そして、その眼に、耳に、恐ろしいスライドやテープが見え、かつ聞こえたということには、だれかの邪悪な意志が働いているとしか思えない。しかもかれら恐怖の群像の眼前に、本條直吉氏が墜落していったということも、これまた偶然だとは思えませんね。そこには統一されただれかの強い意志が働いているとしか思えない。しかし、それがだれだかいまのところわたしにもまだ確信がない」  金田一耕助はそこで軽く一礼すると、急に早口になり、 「いや、失礼しました。いまのわたしはこんな雄弁をふるっているひまはないのです。小雪さん……じゃなかった。由香利さん、あなたはまだ当分由香利さんでいてください。いいですか、きょうのぼくとの会見以前のあなたでいてくださいよ。あなたは強いひとです。|強靭《きょうじん》な神経の持ちぬしです。あなたにはそれが出来るはずです」 「金田一先生、ど、どうかしたんですか」 「さっき吉沢平吉君が殺害されたと申し上げましたね。しかも、その場で犯人とおぼしき人物が逮捕されたということも。ところがその犯人は黙秘権を行使し、おまけに身許の|証《あかし》となるようなものはなにひとつ身につけていなかった。ところがついさっきその男の身許が割れたそうです」 「だれです、それは……?」 「いや、それはそれとして、こちらのご主人はいまどちらに……?」 「滋がどうかしたとおっしゃるんですか」  カーテンのなかから聞こえてきた弥生の声はいくらかヒステリックである。 「いや、奥様、いまは興奮しているばあいではありません、由香利さん」  金田一耕助は由香利ということばにわざと力をこめて、 「ご主人はいまどちらに……?」 「主人ならゆうべ九州へ|発《た》ちましたけれど……」 「飛行機ですか」 「はあ、八時三十分|羽《はね》|田《だ》発の飛行機で福岡へ……」 「では、いま福岡にいらっしゃることはたしかですね」 「それはもちろん。八時三十分羽田発の飛行機は九時十分にむこうへ着きます。立つまえにもむこうへ着いてからも空港から電話をかけてくれました。あのひとはいつもそうなんです」 「愛妻家でいらっしゃるんですね」 「金田一先生」 「いや、失礼。からかっていってるわけじゃないんです。しかし、ご主人はあなたがひとが変わっているということに、気がついていらっしゃらないんですか」 「あのひとは二年ぶりにアメリカから帰ってきたばかりだったんです、あの時分。しかも由香利さんとの交渉は、ほんのひと月ちょっとでございましたから……」 「五十嵐光枝さんも気がついていないんですね」 「あたしが由香利さんの身代わりになろうと決心した、そのつぎのつぎの日に、あたしどもアメリカへ発ってしまったものですから……しかし、金田一先生、主人がなにか……?」 「いや、いいんです。いいんです」  滋がゆうべ福岡へ発ったということは|頷《うなず》ける話である。こういう重大な話の途中で、ひょっこり滋が帰ってきたら困るであろう。おそらく滋を九州へ追っ払っておいて、きょうここへ金田一耕助を呼び寄せたのであろう。 「ときにこちらのご令息の鉄也君は、ゆうべこちらへ帰らなかったようですね」 「鉄也が……」  小雪は大きく呼吸を|喘《あえ》がせてよろめいた。 「それじゃ……それじゃ……あの子が犯人だとおっしゃるんですか」 「わたしはまだ犯人だとは申しておりませんよ。犯人とおぼしき人物だと申し上げているんです。いずれにしてもついさっき身許が割れたので、所轄の|玉《たま》|川《がわ》署からだれかがそっちへいくだろうというのが、いまの多門君の報告なんです。さあ、おふたりともしっかりして。ことに若奥様、あなたの責任は重大ですぞ。ご主人がお留守だとすると万事あなたが応対しなければならないでしょう。だからあなたはまだ当分由香利さんでいなければなりません」  そのとき四方をカーテンでつつまれた弥生のそばでブザーの鳴る音がした。インター・ホーンらしく弥生が受話器を外す音がして、 「遠藤さん、なにか……?」  こんな場合でも弥生の声は落ち着いている。 「はあ、いまここへ里子さんがきて申しますのに、警察のかたがふたり玄関へお見えになって、ご主人がお留守なら、若奥様にお眼にかかりたいといっていらっしゃるそうですが……」 「警察のかたが由香利に……」  弥生の声は落ち着いていて、しかも疑念にみちている。弥生は天成の役者なのである。 「いったい、また、どういうご用でしょう」 「さあ、それはおっしゃらないそうです。ただ若奥様にお眼にかかりたいと、ただそれだけだそうでございます」 「ああ、そう、いったいどういうことでしょうねえ。ええ、いいわ、いま由香利をそちらへやりますから、少々お待ちくださいますようにって」  弥生の機転が小雪を救った。彼女もどうやら落ち着きを取り戻したようすで、パフを使って急いで顔を直していた。  こうして金田一耕助と弥生の対決の第一ラウンドは終わった。思いもよらぬ突発事故で最後の対決までにはいたらなかったが、やがて展開される第二ラウンドではどういうことになるのであろうか。      二  三栄日曜大工センターの仕入れ部に席をおく、|倉《くら》|持《もち》|六《ろく》|助《すけ》は七時半ごろ|上《かみ》|用《よう》|賀《が》の銭湯を出ると、そのまままっすぐに勤め先の日曜大工センターへかえろうとはせず、反対がわの世田谷通りへ出た。世田谷通りも|馬《ば》|事《じ》|公《こう》|苑《えん》のあたりは淋しいが、少しいくとちょっと賑やかな一角があり、そこに六助のいきつけの「ちぐさ」という|赤提灯《あかぢょうちん》がある。額をテラテラ光らせた六助が、タオルと洗面器を持ったままそこの格子を開くと、 「よう、六さん、いやに長湯じゃないか」  と、カウンターのまえから声をかけたのは同僚の|早《はや》|瀬《せ》|藤《とう》|造《ぞう》である。ふたりとも三十歳前後だが、適当に髪を長く伸ばしているのはちかごろの風習であろう。 「おや、いらっしゃい、倉持さん、こちらさっきからお待ちかねなんですよ。さあ、一杯」  おかみがたぎり立つ|薬《や》|缶《かん》から取り出したお|銚子《ちょうし》を一本と、お|猪口《ち よ こ》をひとつカウンターのうえに押し出すのを見て、 「いいよ、いいよ、ぼく今夜は飲んではいられない。ハヤさん、はやくいこうよ」 「六さん、てめえ、なにをそんなにビクビクしてんだ。これも骨休めだ。なにもそんなにビクつくことはねえじゃねえか」 「ほんとに一杯召し上がっていらっしゃいよ。今夜はまたやけに暖かで、さっきテレビで聴いたら五月下旬の陽気だそうだけど、あしたからは冷え込むそうですよ。湯冷めなさるといけませんからおひとつどうぞ」  ここのおかみは四十がらみ、顔立ちはとりたてていうほどではないが、色白のポチャポチャとした体つきをしていて愛嬌ものでとおっている。この場所に「ちぐさ」という店を出してからもう五年、ちかごろこのへんやたらに団地がふえるので、それらの客でけっこう繁昌しているようである。おかみさんのほかにお|八《や》|重《え》ちゃんという十七、八の女の子がいる。そのお八重ちゃんが六助のそばへきて、 「倉持さんは今夜宿直なんですってね」 「そうなんだ。いや、ほんとうはそうじゃなかったんだが、このハヤさんに押しつけられてさ。悪いひとだよ、このひとは。なんだかんだと口実をつけてさ」 「それにしても昼の勤めがあるうえに、宿直までさせられちゃ|耐《たま》らないわね、いかに輪番制とはいえ。なぜ警備員さんをおかないのかしらねえ」 「それだよ、おかみ、おれの気に食わねえのは。まえの警備員がよしてから、もう半年。いかに高度成長の好景気とはいえ、警備員のひとりやふたりいねえはずはねえ。それをいっこう捜そうともせずわれわれに押しつけてさ。それでいて手当もなんにもねえんだから、ずいぶん|阿《あ》|漕《こぎ》な話じゃねえか。当分まあ我慢してくれといわれちゃ、おれだってお店の成績しってるからよ、いやともいえず承服したけどさ、その当分が半年にもなっちゃ、少しは不平も出ようじゃねえかよ」  なるほど三栄日曜大工センターでは、業績不振とあってちかごろ警備員もおかず、従業員が輪番制で宿直を勤めているらしい。しかし、その宿直当番にあたった倉持六助が銭湯へいったり、赤提灯に顔を出したりするところをみると、かれら従業員の綱紀の|弛《し》|緩《かん》もおしてしるべしだが、そういうなかにあって倉持六助が、さっきから時間を気にして、しきりにビクビクしているのは、いくらか良心的と賞められるべきかもしれない。  三栄日曜大工センターは六時閉店である。それから残務整理が一時間ほどあって、七時ごろ従業員はそれぞれ散っていく。ところが半年ほどまえ警備員がいなくなってから、従業員が交替で宿直にあたることになった。従業員は女子をのぞいて十三人いる。さすがに女性にそういう危険な仕事は強いられないので、十三人の男子がその衝に当たることになった。  この日曜大工センターは火曜日が休日になっているが、その日は日直と夜勤とかえってひとり余計に必要となってくる。したがって十三人の男子従業員は八日に一度まわってくるこの当番も、はじめのうちはこのセンターの苦しいお台所もわかっているし、それにマネージャーの吉沢平吉のもう|暫《しばら》く、もう少しに|騙《だま》されて、たいした不平もいわずに|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》に勤めていたが、それが半年の長きに及ぶと士気の低下もやむをえない。  だれかが銭湯へいくようになると、われもわれもとそれに習った。だれかが「ちぐさ」の|暖《の》|簾《れん》をくぐるようになると、だれもかれもがその|轍《わだち》を踏む。なかにはアルコールに弱い人間もいたが番茶におでんでけっこう楽しい。少なくとも殺風景な宿泊室でひとりつくねんとテレビを見ているよりは。  したがって三栄日曜大工センターでは、ここ三月あまり七時から八時半、あるいは九時ごろまで一時間半|乃《ない》|至《し》二時間の真空地帯が生じていることを、マネージャーの吉沢がしらぬはずがない。それでいて強いこともいえないのは、時間外勤務にたいして、それそうとうの手当を出していないという、後ろめたさがあるからだろう。 「なるほどねえ、早瀬さんにはそういう不平があるもんだから、今夜の宿泊を倉持さんに肩代わりさせたのね」 「そうじゃないんだよ、おかみさん、このひと今夜ひと晩あのだだっぴろい日曜大工センターで、ひとりで寝るのが怖いんだよ。ほら、ゆうべマネージャーの身辺であんなことがあったろう」  つい口を滑らせてから六助は、しまったというふうにお猪口を口に運んだが、意外にもすかさず早瀬が開きなおって、 「ご冗談でしょ、怖いのはおたくさんのほうでしょ。だって今晩ひと晩宿直を肩代わりするかわり、十二時まで|麻雀《マージャン》をつきあえって交換条件をつけたのは、やっぱりゆうべ高輪のほうでマネージャーの身辺で、ああいうおっかないことがあったからでしょ」  六助はいささか気色ばんだが、おかみは軽く笑い流して、 「あら、いいんですよ、倉持さん、そのことならきょうここへも、警察の旦那がたが訊き込みにいらしたわ。それにブン屋さんも二、三人。だからゆうべのことならあなたがたより、あたしのほうがよっぽど詳しいくらいよ。いま早瀬さんにいろいろ教えてあげていたところなの。でもひとは見かけによらないものね。あの生真面目なマネージャーが、昔ジャズの世界にいたなんてねえ」 「屁っぴり腰の平ちゃんてよばれていたんですってね」 「お八重ちゃん、なんだい、その屁っぴり腰の平ちゃんてえのは」  お八重がおもしろおかしく説明をするその尻馬に乗って、早瀬が吐きすてるように、 「あのひとときたらいつも屁っぴり腰だよ、ねえ、おかみさん、聞いて頂戴。あのマネージャーときたら、たとえば先月百万の売り上げを予定していたところ、九十万円しか上がりがなかったとするだろ、そしたら今月は九十万円の仕入しかしないのさ。そして、今月また九〇パーセントの売り上げしかないとすると、来月は九九の八十一万円しか仕入れをしないというやりかたなのさ。それじゃ商売さびれるいっぽうだよ。まったく屁っぴり腰の及び腰で、尻込みばっかりしてるような商法だもんな。だから警備員のひとりも雇えねえんだ」 「しかしねえ、早瀬さんも倉持さんも、あなたがたそうおっしゃるけど、吉沢さんも昔っからああじゃなかったんですよ。あそこがボーリング場でよくはやってたころ、あのひともなかなかお盛んだったもんで、このお店なんかもよくごヒイキになったもんですが、それが日曜大工センターになってから、だんだん、なんというか、こう陰気におなりになって。あたしはむしろあのかたにご同情申し上げてるんですよ。ボーリング場と日曜大工センター、あまりにも水がちがいすぎますものね」 「それはまあ、ゆうべみたいなことがあってみれば、マネージャーがああ極端に陰気になっても仕方がないが……」 「いや、ハヤさんはそういうけどな、おやじさんがああ極端にしけこんだのはけさからじゃないよ。ここ一週間ほどなにかこう考え込んでてさあ、心ここにあらずという状態だったぜ」 「それはそうよ」  そばからお八重ちゃんが|賢《さか》しげな眼をくるくるさせて、口をとんがらかすととつぜん妙なことをいい出した。 「今日今夜この時刻に 「おまえたちはこの生首に再会した 「今後おまえたちから 「安らかな眠りは奪われるであろう 「おまえたちは呪われている 「おまえたちは呪われている」      三 「お八重のやつ妙なことをいってたじゃないか。生首がどうのこうの、おまえたちは呪われている。おまえたちは呪われている……なんだい、あれゃ。お八重のやつとつぜん|狐憑《きつねつ》きにでもなったかな」 「いや、そうじゃないよ、ハヤさん、あれ、ぼくがマネージャーのことをいってたろう。ここ一週間ほど極端にしけこんでるといってたら、お八重のやつがそれはそうよといってから、あのへんてこなお|咒《まじな》いみたいなことをいいだしたのさ。出はたしかこうだったぜ。今日今夜この時刻に、おまえたちはこの生首に再会した……それからなんだっけ」 「ちょっと待てよ。あっ、そうだ、そうだ。今夜おまえたちから、安らかな眠りは奪われるであろう……」 「そうだ、そうだ、今日今夜この時刻に、おまえたちはこの生首に再会した、今夜おまえたちから、安らかな眠りは奪われるであろう。おまえたちは呪われている。おまえたちは呪われている……」 「そうだ、そうだ、そのとおりだ。けれどそれいったいなんのこった」 「だからさ、これ、おやじさんのことじゃねえのかな。だってぼくがおやじさんのことをいってたら、とつぜんお八重のやつがいい出したんだからさあ」 「じゃ、呪われているというのはおやじさんのことか」 「と、しか思えねえじゃねえか」 「そうすると、なにかあ、ゆうべ高輪の写真館で、自殺か他殺かまだ不明だが、男がひとり墜死したってことはけさの新聞に出てたけどさ。うちのマネージャー、その場にいあわせたってだけの関係じゃねえのかあ」 「それだけだったら警察の連中、ああもしつこくマネージャーの前身を|訊《き》こうとはしなかったぜ。ハヤさんはあそこのおかみに訊いたんだろ。うちのおやじさんもとジャズをやってたんだって?」 「ふむ、昔……って昭和二十七、八年ごろのことだそうだが、『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』って五人編成のジャズ・コンボがあったんだそうだ。その連中が二十年ぶりに高輪の本條会館で懇親会かなんかやってた。その鼻先へ男がひとり、つまりその会館の主人が落ちてきて死んだそうだが、うちのマネージャー、そのジャズ・コンボ……と、いうんだそうだ、オレ、ジャズのことはあんまりよくしらねえが、ジャズ・バンドの小規模なやつらしいんだな、その『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のメンバーで、ギターを|弾《ひ》いてたんだそうだが、その時分、いつも屁っぴり腰で舞台を飛んだり、跳ねたりしていたんで、さてこそアダ名が屁っぴり腰の平ちゃん」 「だけど、ハヤさん、屁っぴり腰というそのアダ名だけどね。それ舞台で屁っぴり腰で飛んだり跳ねたりするだけじゃなく、あのひとの人生のすべて屁っぴり腰じゃないのかな」 「それ、どういう意味なんだ」 「屁っぴり腰、すなわち逃げ腰さ。あのひとなにかいい話があるとひとの迷惑もなんのその、さっさとそっちへ|鞍《くら》|替《が》えをするという習性があるんじゃないのかな。ぼく確信をもって断言するというと大袈裟だが、あのひといまに現在の職場を投げ出して、どっかもっといいところへ移ろうとしてんじゃないか」 「六さん」  と、早瀬藤造はいくらかきびしい声で、 「おまえさんどうしてそんなこと考えるんだ」 「ただ、なんとなくね。きょうだって警察の連中がくるまえから、いやにソワソワしてたぜ。それもいやな予感のソワソワじゃなく、なにか楽しい予想を持ったソワソワらしいと|睨《にら》んでるんだ。それに六時に閉店になると、あと万事われわれにまかせて帰っちまったろ。あれだってどっかにいい話があって、そっちのほうへいったんじゃないかと思うんだ」 「畜生っ、そんなことしてみやあがれ」  空は|暗《あん》|澹《たん》として曇っており、けさから吹き荒れていた南風がいくらか治まったとはいうものの、まだ夜道をいくふたりの周囲には小さな|旋風《つむじかぜ》がまいていた。  早瀬藤造と倉持六助はいまていよく「ちぐさ」のおかみから追っ払われてきたのである。おかみとしてはお八重ちゃんのお喋舌りが深入りしそうなので困っていたところだったし、あだかもよし、近所の団地の住人らしい三人づれのお馴染みさんが入ってきたので、 「早瀬さんも倉持さんもそんなに腰を落ち着けていていいの。麻雀のお仲間がシビレを切らして待ってるわよ。ほら、もう八時十五分よ」  ふたりとも麻雀にはすっかり興味を失っていたが、そういわれればお|神《み》|輿《こし》を挙げざるをえなかった。麻雀は八時からの約束である。そして「ちぐさ」からかれらの勤めている三栄日曜大工センターまでは、ゆっくり歩いて十五分くらい。ふたりの足どりはひとを待たせている人間の歩きかたではなかった。ゆうべの事件も事件だけれど、それよりも業績不振の勤め先を持っているサラリーマンのだれもが持つ不安が、ふたりの足どりを重くするのである。やがてむこうに日曜大工センターの広大な建物が見えてきた。心なしか曇り空に浮いているその建物の緩いカーブをしている屋根が、なんとなく寒々と眼にうつる。その日曜大工センターの建物のかげから、ひとつの人影があらわれてふたりのほうへ小走りに近づいてきた。 「早瀬さんと倉持さん?」 「いやあ、シンちゃん、ごめん、ごめん、『ちぐさ』のおかみにすっかり引き止められてさあ」 「いや、そんなことはどうでもいいんです。こちら少しようすがおかしいんです」 「シンちゃん、ようすがおかしいって?」  相手は|香《か》|川《がわ》|信《しん》|治《じ》|郎《ろう》といってふたりよりは五つぐらい年若い、同じ日曜大工センターの従業員である。 「だれか建物のなかにいるらしいんです。さっきからセンターのなかを歩きまわっているんです」 「シンちゃん、それマネージャーじゃない?」 「吉沢さんなら電気をつけるはずです。そいつ電気もつけずに、真っ暗がりのなかを歩きまわっているらしいんです」 「真っ暗がりのなかを歩きまわっているとどうしてわかるんだ」 「失礼しました。そいつ懐中電灯を持っているらしく、その光りがときどき窓のカーテンに映るんです。|山《やま》|本《もと》さんは泥棒じゃないかっていってるんですが」 「シンちゃん、それでヤマさんは?」 「通用門のところで見張ってます。そうそう、倉持さんは銭湯へいくとき、あそこのドアに鍵は掛けていかなかったんですか」 「いや、それは掛けていったよ。それが……?」 「開いてるんです。しかも、錠前をこわしたわけじゃなく、だれかが合鍵で開いたらしいんです」 「じゃ、やっぱりおやじさんだよ。だって今夜あの合鍵を持ってるの、ぼくとおやじさんだけだもの。しかし、とにかく急ごう。ヤマさんをあんまり待たせちゃ悪い」  この日曜大工センターは正面入口の外に広い駐車場を持っているが、かれらがいま立っているのはその裏口のほうである。裏口のまえには|芝《しば》|生《ふ》のなかに木を植えたちょっとした前庭があり、前庭は斜め十字の金網で道路から遮断されていて、その金網のはしっこに鉄柵の門がついているが、その門は子供でも容易に越えられる低さである。  三人はかわるがわるその門を乗り越えると、足音を忍ばせて通用門のほうへいったが、そのとき三人はいちように息を飲み、手に汗を握りしめた。窓にかけたカーテンを掃くようにスーッと懐中電灯の光りらしきものが通りすぎたからである。  この日曜大工センターは入口を三つ持っている。正面入口と裏口とその中間にある通用門と。その通用門が同時に非常口にもなっている。その通用門を入ると短い廊下になっており、廊下の左右に事務室や宿直室などがある。通用門の外にはガッチリとした体格の山本七郎が待機していた。 「ヤマさん、テキはひとりか」 「ふむ、どうやらひとりらしい。一対一なら踏み込んでもよいところだが、|窮鼠猫《きゅうそねこ》を|噛《か》むということもあるからな。テキはどんな兇器を持っているかもしれねえ」  建物のなかではあいかわらず、だれかが忍びやかに歩きまわる気配がしている。 「野郎、なにを物色しているのかな」 「だいぶんまえからここにいるのかい」 「おれがここへきたのは五分くらいまえのことだ。ドアが開いているので入ろうとしたら、だれかが懐中電灯を持って歩いているんだ。ギョッとしてようすを見ているところへシンちゃんがやってきた。ハヤさんや六さんなら電気をつけるはずだろう。それでおれがいままで見張っていたんだ」 「よし、それじゃ四人一緒に踏み込もうじゃないか。いざとなったら一一〇番へ電話してもいい」  ちょうどそのとき建物の内部の右の隅のほうで、ガタンとちょっと大きな音がしたかと思うと、男とおぼしい|呻《うめ》き声がきこえ、さらに荒い息遣いらしきものが聞こえてくる。なにしろこの三栄日曜大工センターはすぐ近くに、馬事公苑をひかえていて夜はとくに淋しくまた静かな場所である。 「それ、いまだ、跳び込め」 「泥棒! 泥棒!」  |喧《わめ》きつつ、|罵《ののし》りつつ一同が|揉《も》み合うようにしてなかへとび込むと、香川信治郎が気を利かして、幾つかある電灯のスイッチを片っ端から入れていったので場内はたちまち真昼のように明るくなった。  この日曜大工センターはずいぶん広い。もとここがボーリング場だったころ、二十五レーンあったそうだが、一段低くなったその床は、いま一面に殺風景な白木の板が張られて、日曜大工に必要な諸道具を収容した陳列ケースが、わずかな通路をのこして雑然乱然と並んでいる。いま四人が踏み込んだところは、そこがボーリング場だったころ、見物たちがたむろしていたところで、板張りの床より一段と高くなっており、そこには一面に赤い|絨緞《じゅうたん》が敷きつめてある。しかし、そこは商売に抜け目はなく、そこにも団地向けらしいマットやマットレスが|堆《うずたか》く積み上げられ、そのむこうには来たるべき|端《たん》|午《ご》の節句をあてこんだのだろう、|緋《ひ》|鯉《ごい》|真《ま》|鯉《ごい》の|鯉《こい》|幟《のぼ》りや吹き流しがぶらさがっている。その吹き流しや鯉幟りのむこうに、見識らぬ男が突っ立っているのを見て、倉持六助がいちはやく事務室へとび込んで一一〇番へ電話した。  見識らぬ男は髪を長くのばし、顔じゅうヒゲに埋まっているので、|年《と》|齢《し》の見当はつけにくいが、身につけているものを見るとまだ若いのだろう。ぴっちりと太股に食い入るようなジーパンをはき、赤と白のチェックのセーターを着ている。身長は一メートル七〇をはるかに越え、八〇に迫るであろうが、左手に懐中電灯、右手に穂先の長い千枚通しを握っている。 「きさまはだれだ。そんなところでなにを……」  腕力にいちばん自信のある山本七郎が、鯉幟りや吹き流しを|掻《か》きわけながら、一歩前へ踏み出しかけたが、そこで舌も足も凍りついたように立ちすくんでしまった。  そこは焼却炉の売り場なのである。ふつうの家庭で使えるような、ほどよい大きさの焼却炉が三基ほど組み立てて並べてあるが、そのそばに焼却炉を解体して収容するための、大きな|空《から》のダンボールが転がっている。そのダンボールの口は横をむいていて、そのなかに顔だけ突っ込んだ男のからだが、|俯《うつ》|伏《ぶ》せに倒れているのが眼に入ったからである。古びた毛皮の|襟《えり》のついた、これまたそうとうくたびれた革のジャンパーから、それがマネージャーの吉沢平吉であることはすぐわかったが、その革のジャンパーの背中から、いまねっとりとした液体が赤黒く|滲《にじ》み出しているのを見て、さすが|豪《ごう》|胆《たん》をもって自負する山本七郎も心臓が咽喉までふくれあがってきたのである。  山本七郎の背後からのぞいていた、早瀬藤造と香川信治郎もヒゲだらけの男の握っている、先枚通しの穂先が血に染まっているらしいのを見ると、歯をガタガタさせながら、 「きさまがやったのか、きさまがうちのマネージャーをその千枚通しでやったのか」  かれらは半分逃げ腰なのである。なにしろ相手は|獰《どう》|猛《もう》な面構えをしているし、山本七郎そこのけのガッチリした|体《たい》|躯《く》をしている。しかも千枚通しという武器を持っているのだ。そいつで突いてかかられたら。……  だが、そのとき若者の表情に異様な変化が起こった。それまで放心したように立っていた若者は、千枚通しと指摘されると、ギクッとしたようにそれに眼を落とし、つぎの瞬間悲鳴をあげてそれを投げ捨てた。そして、両手で顔をおおうと肺活量の強そうな声をあげて|号泣《ごうきゅう》しはじめた。抵抗しそうな気配はみじんもなかった。  そこへ最寄りの派出所から警官がひとり駆け着けてきて、それが殺人事件とわかると、若者はただちに手錠をはめられたが、その際もただ|唯《い》|々《い》|諾《だく》|々《だく》として警官のなすがままにまかせて、反抗する素振りは少しもみせなかった。しかし、警官のいかなる質問に対しても答えず、もう泣いてはいなかったが、どこか虚脱しているような表情が、固く冷たくそこに凍りついていた。  やがてその若者の|足《あし》|元《もと》に冷たい死体となって横たわっているのが、ここのマネージャー吉沢平吉であると確認されたとき、早瀬藤造と倉持六助はおもわず顔を見合わせた。  おまえたちは呪われている  おまえたちは呪われている      四 「それでその若者がこちらのご令息の、法眼鉄也君とはどうしてわかったんですか。本人が自供でもしたんですか」 「それがねえ、金田一先生、本人はあくまで黙秘してるんですが、はからずもほかの方面からわかってきたんです」  いま玉川署の取り調べ室で金田一耕助や小雪と相対しているのは、警視庁捜査一課の加納警部である。  吉沢平吉殺害事件が一昨夜、高輪の本條会館で起こった本條直吉の奇妙な墜死事件と、なんらかの関係があるらしいことは素人眼からでも|窺《うかが》われる。そこで所轄の高輪署と玉川署の合同捜査に踏み切ったが、それを統率するのが加納警部である。 「それではその間の事情はわたしからいちおう説明しておきましょう」  そばの椅子から身を乗り出したのは、この事件の捜査員を統轄している玉川署の|栗《くり》|原《はら》警部補である。 「じつは一昨日の事件がありますから、ここにいる高輪署の|甲《こう》|賀《が》君の通報できのうの朝からこちらのほうで、吉沢平吉なる人物の身辺について、|訊《き》き込み捜査を開始していたんです。そこへ起こったこの殺人事件でしょう。そこで|弦《つる》|巻《まき》町にある被害者のアパートの部屋を捜査してみたんですね。ところが被害者というのが、そうとう秘密癖の強い人物とみえて、デスクのなかに隠し|抽《ひき》|斗《だし》を持っていたんですが、その抽斗のなかから出て来たのがこれなんです」  と、栗原警部補が机のまえに並べたのは、|四《よ》|角《すみ》を丸くしたハガキ大の鳥の子の用紙だったが、金田一耕助はそれを見ると思わず眼を丸くした。それはあきらかに一昨晩高輪の本條会館で行なわれた「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」同窓会の案内状であり、秋山浩二や佐川哲也の受け取ったのとおなじ種類のものである。ただこの印刷物には宛名のところには「殿」と印刷してあるだけで、正式に宛名はまだ書かれていなかった。 「こういう印刷物が一、二、三、四、五枚とほかにこういう封筒が五通ありますよ」  警部補の差し出した五通の封筒の裏面には、秋山浩二と佐川哲也の名が連ねられて印刷してある。それらのハガキや封筒の宛名は全部片仮名タイプで打ってあったのだが、秋山や佐川はともかく、原田雅実や加藤謙三はそれが筆跡をくらますためとは気がついていなかったのであろう。そういえば返信用にと封入してあったハガキの宛名は秋山浩二になっていたが、それらの住所氏名も全部片仮名タイプになっていたそうである。 「金田一先生、これはこうじゃありませんか」  そばから身を乗り出したのは高輪署の甲賀警部補である。 「昨日の同窓会の画策者は吉沢平吉で、どこかへこういう印刷物を頼んだが、五枚じゃ少なすぎるので十枚頼んだ。そして、秋山、佐川、原田、加藤の四人に出すと同時に自分にも出した。それでもまだ五枚あまったので、いずれは処分するつもりで隠し抽斗へしまいこんでおいたが、それを処分するまえに殺害されたということになるんじゃないですか」 「被害者はそれを処分するひまがなかったでしょうな」  と、横から|嘴《くちばし》をはさんだのは玉川署の栗原警部補である。 「一昨日の事件のおかげで被害者は、遅くまで高輪署のほうで取り調べを受けていた。弦巻町のアパートへかえってきたのはきのうの明方ごろだったそうですが、そのときうちのものが張り込んでましたから、|迂《う》|闊《かつ》なまねはできなかったでしょうよ」 「それに当人もその日のうちに殺されるとは思わなかったでしょうからなあ」  高輪署の甲賀警部補が苦笑した。 「なるほど、しかも吉沢平吉氏なら片仮名タイプも利用できるというわけですか」 「そうそう、こっちのほうの日曜大工センターにはそんなものないそうですが、親会社の三栄興業へいけば備えつけてあるんですね。ダイレクト・メールやなんかを発送するために」 「それでだいたい一昨夜の同窓会の画策者が吉沢平吉氏であったことは間違いなさそうですが、かれ氏なんだってそんなことやったんです。ああいうスライド見せたり、テープを聴かせたりしたのもかれ氏なんですか」 「だから、金田一先生、これにはだれか黒幕がいるんですぜ。吉沢平吉をそそのかして、ああして昔の仲間を呼び集めさせたについちゃ、バックにだれかいるんですぜ」 「その黒幕がだれだか見当は……?」 「いや、それについちゃちょっとおかしな話があるんです。一昨夜の同窓会ですね、あれについちゃ本條直吉社長がいちおう気を使って、この四月十一日にこれこれこういう会合があるから、よろしく便宜をさしはからうようにって、あそこに伊東俊吾という支配人がいるでしょう、それから秘書の石川鏡子などに直接申し渡しがあったそうです。しかし、これは当の本人の本條社長がああいうザマですから、うそかまことか確かめようがないんですが、まさかあのふたりが虚偽の申し立てをしようとは思えないんですがね」  ちょっとした沈黙があったのち、金田一耕助が思い出したように、 「そうそう、その本條直吉氏の墜落死一件ですが、捜査本部の見方では他殺の線が強くなっているそうですね」 「そうそう、あれはね、金田一先生」  身を乗り出したのは加納警部である。 「なにしろああいう死にかたですからね、頭蓋骨やなんか滅茶滅茶になってるんですが、それでも後頭部になにか鈍器のようなもので、強打されたような痕跡があるんです。そこで本條直吉氏、意識を失って|昏《こん》|倒《とう》していた。そこを屋上からまっさかさまに突き落とされたが、突き落とされる瞬間に意識を取りもどし、悲鳴をあげたんじゃないかっていうことになってるんです」 「なるほど、そいつはまた複雑な殺害方法ですが……」  金田一耕助はちょっと悩ましげな眼の色をして、 「それで昏倒した時間と、じっさいに墜落死を遂げた時間とのあいだの時間的ズレは……?」 「いや、それなんですがね、解剖の結果でもそこまでは正確にはわからないんですね。しかし、じっさいにそうであっても、その間の時間はごく僅少であったろう。後頭部を強打されて意識を失った。その直後に屋上から突き落とされたということになっているんですが、それとても正確な見方かどうか、もうひとつハッキリしないような状態で……なにせ金田一先生もごらんになったように、頭蓋骨がああいう状態でしょう」  そこまでいってから加納警部は急に気がついたように、 「いやあ、これは失礼いたしました。奥さんのようなご婦人のまえで、こんな|殺《さつ》|伐《ばつ》な話はすべきじゃなかったかもしれません。それじゃ栗原君、ゆうべの少年がこちらのご令息だと判明したいきさつを話してあげたらどうかね」  小雪はじっさいよく耐えたのである。彼女はうつむきがちであったけれど、捜査員たちの話を無言のまま聴いていた。彼女のからだをいまつつんでいるものは、息子が殺人犯人として逮捕されたということを聞いた、母親のショック以外のなにものでもなかった。それでいて|毅《き》|然《ぜん》としたところを失わないのは、|倅《せがれ》を心の底から信用している母親の愛情と信頼であろう。 「それじゃわたしからお話しましょう」  身を乗り出したのは玉川署の栗原警部補である。  かれは法眼鉄也が現場で逮捕されたいきさつから、まず語って聞かせると、 「ところがご令息はそれ以来ひとことも口を利かないんですね。黙して語らずというわけで、姓名も名乗らなきゃ年齢も答えない。これにはわれわれも|梃《てこ》ずりましたが、そのうちにここにあるこの案内状……これは昔あった『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』というジャズ・コンボの同窓会の案内状なんですが、これが発見されたもんだから、ただちにここにいる高輪署の甲賀君に連絡した。さいわい高輪署には『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のメンバーの住所がひかえてあったので、すぐ四人のメンバーに任意出頭のかたちでここへ来てもらったんです。四人のメンバーの名前を申し上げますと、秋山風太郎氏、いまでは浩二と本名にかえって、現在作曲家として活躍している人物ですね。それから佐川哲也氏、これまた有名なバンド・マスター、わたしたちもちょくちょくテレビでお眼にかかりますが、女の子のあいだではあの眼帯がひどく魅力的なんだそうですね」  栗原警部補はちょっと薄ら笑いをうかべて、 「それから原田雅実氏……このひとはその後転業して|下《した》|谷《や》のほうで電気器具商をやってる人物、それにもうひとり銀座で流しをやっている加藤謙三氏、それとゆうべ殺害された吉沢平吉氏と、この五人が昔あったジャズ・コンボのメンバーだったんですが、そのひとりがゆうべ殺害されたというので、ほかのひとたちも|蒼《あお》くなって駆け着けてきたんですな」  小雪はじっさいあっぱれ演技者というべきであろう。いま栗原警部補の挙げている名前はみんな昔懐しいグループのひとたちであるが、彼女はそれらのひとびとの名前を聞いても、眉毛ひと筋動かすではなかった。いま彼女の全身をおおうているものは、はやく息子の消息をしりたいという焦燥感である。しかし、それは母親としては当然の感情なので、捜査員一同から同情こそかちえるとしても、疑惑を招く理由にはならなかったであろう。むしろはやくそこへ到達してほしいのに、捜査員の努力に敬意を表して、よく己れを制していられるものだという賞讃の色さえ一同の眼にうかんでいる。  ここにいる捜査員のなかでただひとり、加納警部だけが小雪(じっさいは由香利)とビンちゃんの奇妙な結婚式の記念写真を見ているのである。しかし、その加納警部でさえ瓜ふたつだった二十年まえの由香利の面影を、いまここに小雪のなかに見出せたかどうか疑問である。当時のふたりは痩せぎすでほっそりとしていた。女として肉体的にまだ多分に未熟であったが、いまの小雪は完全に|熟《う》れている。当時の由香利をしるものでも、あるいは二十年前の小雪をしっている連中でも、現在の小雪から瓜ふたつだった当時の由香利や小雪の面影を探り出せたか疑問である。小雪はべつに整形手術をしたわけではないが、心身ともに徐々に変貌をとげてきたのである。  それに彼女はこの二十年間、いくたびかこういう危機を乗り切ってきたにちがいない。なおそのうえさっき金田一耕助に、とつぜん正体を指摘されて以来、覚悟のほどもきまっているのであろう。金田一耕助の真意がどこにあるかしらないが、覚悟をきめた人間の強さがそこにある。彼女は身にまとうた衣裳のどこかに、小型のピストルを用意しているはずである。 「それで……?」  と、金田一耕助が小雪にかわって栗原警部補に質問の矢をむけた。 「はあ、それでね、駆け着けてきた四人にこちらのご令息に会ってもらったんですな。そしたら佐川哲也氏がハッキリ反応を示されたので、問いつめていったところが、こちらのご令息とわかったわけです」 「しかし、佐川君はどうしてこちらのご令息を……?」 「いや、こちらのご令息は高校時代、サッカーの選手でいらしたそうですね。スター・プレーヤーだったと佐川氏はいっている。ところが佐川氏がサッカーのファンで、ことに哲也と鉄也、文字こそちがえ発音がおなじでしょう。それでついご令息のファンになったんだとか……」 「それで鉄也君は犯行現場で逮捕されたそうですが、真犯人という可能性が強いんですか」  これまた金田一耕助の質問である。 「いやあ、ところがそれがだんだん怪しくなってきましてな」  頭を|掻《か》いている栗原警部補のそばから、加納警部が注意した。 「栗原君、その間の事情をご説明申し上げておいたら……」 「承知しました」  と、そこで栗原警部補が三栄日曜大工センターの四人の従業員によって、兇器とおぼしき穂先八センチばかりの千枚通しを右手に握って、吉沢平吉の死体のそばに立っている法眼鉄也が発見され、その直後に駆け着けてきた警官によって逮捕されたいきさつを語ってきかせると、 「その場の状況からしててっきり鉄也君が犯人と思われたんですが、それからまもなく私と同行した医者がこれはおかしいといい出したんです」 「おかしいとは……」 「この仏は刺されてから一時間以上たっているというんですね」 「あなたがたが駆け着けられたのは……」 「ちょうど九時でした。ところが医者のいうのに死体の硬直状態や血の凝固の状態からして、刺殺されてから一時間以上たってるはずだ。いま刺して千枚通しを抜いたものなら、もっと血が|溢《あふ》れているはずだというんです」  この説明に金田一耕助はひどく興味を催した。 「と、いうとどういうことになるんですかね」 「いやね、吉沢平吉が六時にその日曜大工センターを出ていったことは、そこの従業員はみんなしっているんです。死体となって発見されたとおなじ服装でね。そのあと従業員たちは残務整理に一時間ほど残ったが、七時になるとみんな退出していった。ただ宿直に当たった倉持六助という男を残してですね。ところがその倉持も七時五分ごろそこを出て、近所の銭湯へいっている。もちろん三つある出入り口にはみんな鍵をかけていったそうですが、その鍵なら被害者の吉沢平吉も持っている。現に死体のポケットから発見されましたからね」 「なるほど、そうすると倉持六助君が銭湯へいったあと、吉沢平吉氏がなんらかの事情で引き返してきた。そこを何者かによって千枚通しで、背後から刺殺されたとおっしゃるんですね」 「そうです、そうです。そうでないと時間的に|平仄《ひょうそく》が合わないと医者はいってるんです。なにしろ死体の発見が早かったもんですから、医者も犯行の時刻を推定しやすかったんですな。医者はハッキリと断定してます。犯行の時刻は七時から八時まで、それも七時よりの時間だったろうと」 「ところで鉄也君が従業員によって発見されたのは」 「八時五十分ごろのことなんです」 「そうすると鉄也君が真犯人だとすると半時間以上、あるいは一時間以上も現場でマゴマゴしていたということになりますね」 「ですから従業員たちも鉄也君に同情的なんですね。あいつが犯人であるはずがない。犯人ならとっくの昔に|逃《ず》らかっているはずだというんですね。そうそう、いい忘れましたがその千枚通しというのも、日曜大工センターで売ってる品物のひとつで、その売り場というのが現場のすぐ近く、手のとどくような場所にあり、むろん一個ずつビニールの袋に入っているんですが、破けたビニールの袋も死体のすぐそばに落ちていましたよ」  金田一耕助はますます興味を催したように、 「そうするとこういうことになるんですね。マネージャーの吉沢平吉氏は六時閉店と同時に、いったんそのセンターを出たが、七時過ぎ宿直のものが銭湯へいったあとへ引き返してきた。そのとき犯人といっしょだったが、すぐあとから追っかけてきた犯人によって、その場にあった千枚通しで刺し殺された……と、いうことは犯人はマネージャーの顔見識りの人物ということになりますね」 「まあ、そういうことでしょうなあ。そいつが吉沢平吉をそそのかして、ああいう奇妙な同窓会を演出させた黒幕じゃないかとも思われるんですが……」 「と、同時に本條直吉氏に働きかけて、同窓会に便宜をはからせた人物……」 「金田一先生」  とつぜん加納警部が|身《み》|顫《ぶる》いをするような声で、 「そうするとその黒幕という人物は、ひとを利用しておいて、利用した人物を片っ端から殺していくというのですか」 「そうとしか思えませんね。おとといの晩とゆうべ……あまりにも矢継ぎばや過ぎますからね。これはもう異常な出来事としか思えません。一刻もはやくこの異常な出来事を食いとめなければ、犯人はまだまだ図に乗って、犯行を重ねるかもしれません。一刻もはやく食いとめなければ……一刻もはやく食いとめなければ……」  金田一耕助のみならずその場にいあわせた捜査員一同の脳裡にはあのまがまがしい生首のスライドが浮かび、その耳底には高らかに呪詛の声が鳴りわたっていたにちがいない。 「おまえたちは呪われている。おまえたちは呪われている……」  現に呪詛の声を浴びせかけられた五人のうちのひとりが、さっそく血祭りにあげられたのである。 「失礼しました。余計なことをいって……それで被害者の身辺から紛失しているようなものは」 「それがあるんです。被害者は一冊の手帳を|虎《とら》の子のように大事にして、上衣の内ポケットに持っていたそうですが、その手帳が紛失しているんです」 「鉄也君は持っていないんですか」 「持っていません。日曜大工センターのなかをいまもって捜査中なんですが、いまだに発見されたという報告がないところをみると、犯人が持ち去ったものとしか思えんのです。そのほかにもいろいろと鉄也君にとって有利な証言があるんです。たとえばその足どりなんですがね」 「足どりがわかりましたか」 「その大工センターへやってくるには、小田急の|千《ち》|歳《とせ》|船《ふな》|橋《ばし》がいちばん便利なんです。そこからだとクルマで五分の距離です。そこでその駅を調べてみるとゆうべ八時過ぎ、そこに常駐しているタクシーで世田谷馬事公苑のまえまでいった若者がある。そこでその運転手を鉄也君に突き合わせてみたところが、たしかにこの少年にちがいないというんですな。鉄也君は馬事公苑のまえでタクシーをおりると、その足で世田谷通りの電気器具商へよって懐中電灯を|需《もと》めている。そのとき三栄日曜大工センターへいく道をきいている。いや、たまたま道を聞きによった店が電気器具商であった。そこで店員がいまごろいったところでなかは真っ暗だぜと注意したら、それではと懐中電灯を買っていったというんですな。その店員もハッキリとこの少年にちがいないと証言しているんです。その店員は時間のほうもよくおぼえていて、八時十二分だったといってるんです」 「ところがその時刻には被害者は、すでに冷たくなっていたはずだとおっしゃるんですな」 「そういうこってすな。ついでに千歳船橋の駅員の証言によると、その少年なら新宿方面からきた電車から下車したと、なにしろああいう特徴のある風貌ですから、みんなよく憶えてるんですな」 「そうすると吉沢平吉氏が殺害された時間帯には、鉄也君にはアリバイがあるらしいということなんですね」 「そうです、そうです、それをこっちはいってほしいんです。それを当人は|頑《がん》として拒否して口を割らんのですな。なぜあの時間にあそこへやってきたか、それをいってもらえばそれに越したことはないんですが、それがいやなら被害者が日曜大工センターを出た六時ごろから、八時十二分ごろまでどこでなにをしていたか、それだけでもいってもらいたいんですが、それすら拒否して語ろうとはせんのです。なんせ全然口をきかんのですからな」 「だれかを|屁《かば》っているんでしょうかね」 「それはたしかでしょうなあ、そこで奥様にこうしてきていただいたんですが、どうでしょう、いままでの話でだいたいの事情はおわかりでしょうが、ひとつあなたから説き伏せて口を割らせていただけませんでしょうか」  小雪がそれに対して否やのあるべきはずはなかった。こうして母と子の対決が演じられることになったが、これは完全な失敗であった。ふたりきりでじっくり話し合ったほうがいいだろうというので、捜査員一同が退散して、小雪ひとりが残ったところへ留置場から鉄也が引き出されてきた。  鉄也はあいかわらず堂々たるからだをしているが、なんとなく全身が|窶《やつ》れて、いくらか空気の抜けた風船のようにみえた。ヒゲ面は|獰《どう》|猛《もう》だがそれさえ|潮《しお》|垂《た》れてみえた。かれは自分の身許がわれたとしったときから、この対面はあらかじめ予想をしていたことだろう。それにもかかわらず、いや、それだからこそかもしれないが、かれはこの取り調べ室へつれて来られてから、いちども母の顔を見なかった。半時間ほどの対面のあいだひとことも口をきかなかった。  小雪も世のつねの母のように泣いたり|喧《わめ》いたりはしなかった。ただ条理をつくして口をきいてほしいと要請した。なぜあの時間に見もしらぬ日曜大工センターへ出向いていったのか、それまでどこでなにをしていたのか語ってほしいと懇願した。彼女はいくどか息子のまえへまわったが、そのつど鉄也は冷たく母に背をむけた。絶望的なその顔の底には|錯《さく》|綜《そう》した愛と憎しみが張りついているようにみえた。  小雪はついにいった。 「ねえ、鉄也さん、これだけはいって。あなたが変わってきたのはこの二月ごろからだったわね。二月ごろあなたになにがあったの。それをママにいって」  そのとたん鉄也の|頑《かたくな》な表情が大きく揺れざわめいた。なにか叫ぼうとするかのように唇が|痙《けい》|攣《れん》するようにわなないた。母にむけた背がはげしく動揺した。しかし、いまにも跳び出しそうだったそのことばは、食いしばった歯がせきとめた。そのかわり別の叫びが唇から|迸《ほとばし》り出た。 「おまわりさん、ぼくをむこうへ連れてってください。ぼくはここにいるのがいやなんだ。このひとといっしょにいるのがいやなんだ」  そのとたん小雪はドシンと音を立てて椅子に腰を落とした。愛する息子からこのひとと呼ばれた母の絶望的な悲しみが、彼女の皮膚から血の気をうばい、まっ蒼に漂白してしまった。  鉄也はそのまま玉川署に留置されることになった。      五  その日の夕刊にはじめて三栄日曜大工センターの事件が大きく報道され、その翌日の朝刊に鉄也が逮捕されたむねが発表された。但し鉄也は未成年者だから少年Aとして報道されたのだが、それにもかかわらずその日の昼過ぎ、法眼滋があわただしく玉川署へ駆け着けてきたのは当然であろう。  滋はゆうべ長距離電話で小雪からことのいきさつを聞いて、むこうの用事をそこそこに切り上げ、|急遽《きゅうきょ》けさ帰京してきたのである。かれはいったん田園調布の家へ立ち寄り、小雪から詳しい事情を聴き取ると、すぐその足で玉川署へ|豪《ごう》|勢《せい》な外車を乗りつけたのである。あらかじめ電話をかけておいたので、玉川署には栗原警部補がいあわせた。滋はその警部補からもういちど、鉄也逮捕の前後の事情を聴かされたが、度の強そうな眼鏡の奥の眼には、|怪《け》|訝《げん》そうな色のみ深く、ただ眉をひそめるだけだった。 「わかりませんなあ、あの子がどうしてそんなところへ出向いていったのか。それ、もとボーリング場だったとおっしゃいましたね」 「はあ」 「その時分|通《かよ》ったことでもあるんじゃないですか」 「いや、ところがこちらで手をまわして、鉄也君の友人たちに聴き合わせてみたところ、ご令息がボーリングをやってたなんて聞いたことがないと、みんな口を揃えていうんです。ご令息はサッカー一本|槍《やり》だったそうですね」 「はあ、あれには熱中しましてね。素質があるというのか、親の口からいうのもなんですが、スター・プレーヤーでした。ビッグ・ゲームのときにはいつも家内とふたりで応援にいったものです」  それをいうとき滋の眼は優しさと|誇《ほこ》りにみちていた。 「学業のほうも抜群だったようですね」 「はあ、幼いときからアタマのいいやつで、わが家の希望はいつにあの子にかかっていたので……ただ……」 「ただ……?」 「祖母の希望とわたしの希望が食いちがっておりまして……祖母はあの子を医者にして、法眼病院を継がせたいようですが、わたしとしてはやはり経済をやって、五十嵐産業をついでもらいたいという希望が強く、その|板《いた》|挟《ばさ》みになって当人もそうとう悩んでいたようです」 「そのせいでしょうかねえ。奥様のお説によると、この二月ごろからひとが変わったようになられたとか……」 「わたしはそれほど変わったとは思いませんが、入試に失敗したりしたもんですから、やはりあれがショックだったんでしょうなあ」  これを要するに栗原警部補もいちおう滋に好意を持ったらしい。いまを時めく五十嵐産業の|総《そう》|帥《すい》ともあれば、さぞや尊大に構えているであろうと思いのほか、意外に腰が低く、肌ざわりも柔らかで、息子のこのたびの不始末にひたすら恐縮しているように見受けられた。 「それではご令息に会っていただきたいんですが、そのまえにちょっとひとこと、お訊ね申し上げたいことがあるんですが……」 「はあ、どういうことでしょうか」 「あなた一昨夜午後八時三十分、羽田発の飛行機で福岡へむかわれたそうですね」 「はあ、それがなにか……?」 「田園調布のお邸を出られたのは何時ごろ」 「七時ちょっと前でした。わたしはあまりいらいらするのが嫌いだし、ちかごろは交通渋滞がはげしいものですから」 「あなたはキャデラックを持っていらっしゃるようですが、いつもご自分で運転なさるんですか」 「いや、運転手がいます。ところがその運転手が四、五日まえから風邪をひいていて、無理をすると肺炎を|惹《ひ》き起こす心配があると医者がいうもんですから」 「お邸を出るとき奥さんが送って出られたんでしょうね」 「もちろん家内の運転手がギャレージから門のまえまでクルマを引き出してくれたんです」 「ああ、奥さんもクルマをお持ちのようですね」 「はあ、だからおとといの晩なんかも家内の運転手を借りてもよかったんですが、家内は家内でパーティーがあったもんですから」 「ああ、奥様もお出掛けでしたか」 「はあ、そのパーティーというのが七時からです。しかし、家内としてはわたしを送り出してからにしたいというので、わたしとしては少し早目に出たんです。われわれの家庭ではしょっちゅうそういうことがあります。家内は家内でなかなか多忙なほうですから」 「パーティーはどちらで……?」  滋はちょっと眉根を曇らせて、 「例の本條会館です。そうそう、わたし羽田へ着くとすぐ本條会館へ電話したんですが、家内はちゃんと来てましたよ。しかしそれがなにか……」  と、いいかけて滋はとつぜん眼鏡のおくの眼を大きくみはって、 「なんだ、わたしども夫婦のアリバイ調べですかあ」 「いや、どうも失礼しました。じつはご令息もあなたのように、素直に答えてくださるとよろしいんですが、それがなかなか……」 「いや、あの年頃の男の子というものは、取り扱いがむつかしいものです。とくに受験に失敗してからは、ちょっとした被害妄想狂みたいになってるんじゃないですか。なんでもないことを|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に考えたりして。ひとつここへ呼んでください。わたしからなんとか説き伏せてみましょう」  しかし、この会見も結局失敗だった。  鉄也は母に会うことを好まなかったと同様に、父の顔を視るのも気がすすまなかったらしい。きのうとおなじように滋ひとりでいるところへ連れて来られて、ふたりきりでしばらく部屋のなかへ閉じ|籠《こ》められたが、かれは父に背をむけたまま、滋がいかに|掻《か》きくどこうとも、終始無言の行だった。極度の絶望からくる|諦《てい》|観《かん》のようなものが、|潮《しお》|垂《た》れたヒゲ面の底に固く冷たく凍りついていた。やがて鉄也が連れ去られたあと、滋もはじめてことの重大さを認識したらしく、しきりにハンケチで|洟《はな》をかんでいた。  こうして鉄也のアリバイ立証はまた暗礁に乗りあげたかにみえたが、それがつぎの瞬間急転直下、じつにたあいもなく謎が解けたのだから、人生というものは皮肉である。  それはまだ滋がその場を立ち去りかねているときである。栗原警部補をまえに、さかんに|愚《ぐ》|痴《ち》をこぼしているところへ、刑事がひとり入ってきて警部補になにやら耳打ちした。耳打ちはかなり長かったが、聞いているうちに警部補の顔にしだいに驚きの色がひろがってきた。しきりに滋のほうを見ていたが、やがて耳打ちが終わると、 「よし、それじゃその子をここへ連れてきてくれたまえ」  それから滋のほうへ向き直って、 「あなた、関根美穂という女の子をご存じですか」 「関根美穂……? ええ、よくしってますよ。その子がどうかしたんですか」 「不良性のあるような子ですか」 「とんでもない。れっきとした良家のお嬢さんで、うちとは家族ぐるみのおつきあいです。家内なんかも気に入って可愛がってますし、鉄也にとってもいちばん仲のよいガール・フレンドです」  そのことばも終わらぬうちに、その関根美穂が刑事といっしょに入ってきたので、滋は眼鏡のおくでつぶらの眼をみはった。 「美穂ちゃん、あんたどうしてここへ……?」 「あら、おじさま」  と、美穂は小さく叫ぶと、そそけ立っていた顔に、さっと血の色が走ったのが可憐であった。 「やっぱりおじさまだったのね、おもてに駐まってるキャデラック。それで鉄也くん、打ち明けまして、ゆうべどこでなにをしてたかってこと」 「いや、それがこのパパにもいってくれないんだ。美穂ちゃん、あんたそれをしってるのかい?」 「ああ、ちょっと。お話し中ですがそのまえにお訊ねしたいんですが、お嬢さん」  と、栗原警部補が割って入って、 「お嬢さんはどうして、鉄也君がここにいることがわかったんですか。新聞でもテレビでも少年Aとしか発表してないんですが」 「それはわかりますわ。刑事さんが鉄也くんのお友達を片っ端から訊ねてまわってるでしょ。うちへは本條会館の徳彦さんから連絡があったのよ。いずれそっちへいくかもしれないって。そしたらやっぱりいらしたでしょ。それであたしのほうからカマをかけて逆にいろいろ訊ねてみたのよ。もちろん刑事さん、あたしの手に乗るようなひとじゃなかったけれど、そのうちにあたしふっと思いついたのよ。ひょっとするとけさの新聞に載っていた少年Aじゃないかってこと。ただ鉄也くんがどうしてあんなところへいったのかいまでもわからないんだけど」  美穂のことばは理路整然としていた。いや、あまり理路整然としすぎているがために、かえってこういう質問があった場合にそなえて、用意してきた答えではないかと、疑えば疑えないことはなかった。と、いうことは、だれか鉄也がここにいるということを通報したものがあるのではないか。 「それで美穂ちゃんは鉄也がゆうべ、どこでなにをしてたかしってるのかい」 「ええ、しってます。ああ、おじさま、鉄也くんはまだ打ち明けてないのね。いかにもあのひとらしいわ。騎士道精神を発揮してるのよ」 「騎士道精神というと……?」 「刑事さん、信じて頂戴、あたしたち、鉄也くんとあたしゆうべ一緒にいたのよ。五時ごろから八時ごろまで……もっと正確にいうと五時八分から七時四十五分まで」 「しかし、それならなぜ鉄也君はそれを正直に……」  と、いいかけてから警部補はハッと美穂の顔を|視《み》|直《なお》した。騎士道精神ということばの意味がやっとのみこめたようである。 「刑事さんもおじさまも信じてください。あたしたち、鉄也くんもあたしも非行少年じゃないのよ。だからゆうべのようなことはふたりにとってはじめての経験でした。はい、あたしたちゆうべホテルにいました、新宿の」  美穂の告白は滋にとって青天の|霹《へき》|靂《れき》のようであった。度の強そうな眼鏡がずりおちそうになり、いまにも跳び出しそうな眼は、|鳩《はと》が豆鉄砲をくらったように|狼《ろう》|狽《ばい》していた。 「美穂ちゃん、それ、ほんとう……?」 「ほんとうです」 「鉄也のほうから誘ったのか」 「いいえ、あたしのほうから。だってしようがないじゃないの、おじさま。鉄也くん。この二月頃からすっかりひとが変わったみたいになって、なにをやり出すかわからないような人間になっちまったでしょ。オートバイを乗りまわしたりしてさ」  オートバイと聞いて栗原警部補の顔色がちょっと動いたのは、金田一耕助から話を聞いているのであろう。本條会館の被害者本條直吉がオートバイに跳ねられそうになったという話を。栗原警部補はそこでなにかをいいかけたが、すぐ思いなおして口を噤んだ。美穂はいま打ち明ける気になっているのだ。話の腰を折らぬほうがよい。 「あのままうっちゃらかしておいたら、暴走族の仲間にでもならないものじゃないと思ったのよ。だからあたしあのひとに責任を負わせる必要があると思ったの。鉄也くんはまえからあたしを愛していました。あたしは鉄也くん以上にあのひとを愛していたんです。だから肉体的な結合によって、あたしというものに責任を感じてほしかったんです。そうすれば無鉄砲なこともやらなくなるだろうし、なにか隠していることがあるなら、あたしにだけは打ち明けてくれるだろうと思ったんです」 「お嬢さん、あなたそのホテルの名を憶えているでしょうねえ」 「憶えています。『はなぞの』というんです。新宿の花園神社のすぐちかくです」 「あなたはそこに五時八分から七時四十五分まで鉄也君といっしょにいたんですね」 「いいえ、もっと正確にいうと、あたしたち五時に新宿の喫茶店で落ち合うことになっていたんです。あたしはキッチリ五時にそこへいったんですが、鉄也くんは八分遅れてやってきました。あたし時計と|睨《にら》めっこしてましたからよく憶えてるんです。それからあたしが鉄也くんを説き伏せて、あらかじめ眼をつけておいた『はなぞの』へ、ふたりでいっしょに入っていったのが六時だったんです。鉄也くんはじめは|躊躇逡巡《ちゅうちょしゅんじゅん》もいいところで、あたしを|諫《いさ》めたり|宥《なだ》めたりしていましたが、ホテルの門をくぐってからは立派でした。男らしくふるまって、あたしに恥をかかせないようにしてくれたんです」  美穂はいくらか涙ぐんでいる。 「そこで七時四十五分までいたんですね」 「ええ、あたしたち二時間の約束だったんです。ですけれど、あのひと八時にひとに会う約束があるというので、七時半にベッドをはなれたんです」 「その約束の人物について、鉄也君はなにかいってませんでしたか」 「あたしも聞いてみたんですがいいませんでした。なんでもない相手なんだが、約束は約束だからといってました」 「それで、美穂ちゃん、鉄也はちかごろの変身ぶりについてなにかあんたに打ち明けたかい」 「ごめんなさい、おじさま、そんなひまはなかったのよ。あたしたち愛し合うのに熱中して。お互いに初体験ですからはじめは失敗ばっかりしてたわ。でも、このつぎ会ったときは打ち明けるって約束してくれました」 「よろしい、わかりました。それでは『はなぞの』の従業員にあなたがた、即ちあなたと鉄也君を認めさせればいいんですね」  美穂は急に不安そうな顔色になって、 「だけどねえ、刑事さん」 「どうかしたの」 「あたしここへくるみちみち、タクシーのなかで考えたんですけれど、あたしたち未成年者でしょ。それにああいううち、未成年者に部屋を提供したりしちゃいけないんじゃない」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「だから『はなぞの』のひとうそをいうかもしれないと思うの。こんなひと会ったことも見たこともないって」 「お嬢さん、あんたまさか!」 「まあ、まあ、待ってよ、刑事さんたら気が短いのね。あたしのいうことしまいまで聞いてよ」 「はあ、はあ、どういうことでしょうか」 「たあいない|悪《いた》|戯《ずら》も時によっては役に立つんじゃないかって、あたしさっき吹き出してしまったんですけれど……あたしたち七時半にベッドを出たでしょう。それからバスを使ったんですけれど、そこの洗面所に鏡がかかってますの。それ|嵌《は》め込みじゃなく壁にぶらさがってますのよ。あたしちょうどいいぐあいにマジックを持ってたもんですから、その鏡の裏に楽書きをしてきたんですの」 「どういう楽書きですか」 「ハートを矢が貫いてるところなんですの。そして矢尻のほうへM、つまりあたしのイニシアルですわね、それから矢羽根のほうへ鉄也くんの頭文字のTを書いたんですの。鉄也くんはじめは馬鹿だなあなんて苦笑いしてましたが、あたしがマジックを押しつけると、達筆でこう書いてくれたわ。一九七三年四月十二日午後八時、我々はここに愛を誓い合うもの也」 「その楽書きがいまでも残ってるんじゃないかというんですね」 「おとといのきょうですからね。そんな証拠を突きつけられたら『はなぞの』のひともうそはつけないと思うんです。そうそう、それ二階の六号室よ」  栗原警部補によってただちに新宿署のほうへ通報され、新宿署のほうからふたりの刑事が「はなぞの」へ出向いていった。「はなぞの」のフロントは案の定四の五のとことばを左右にしていたが、ふたりの刑事がうむをいわせず二階の六号室へ踏み込んで鏡の裏を調べると、あった、あの楽書きが。  こういう証拠を突きつけられては「はなぞの」のフロントも口を割らざるをえなかった。かれはただちに玉川署へ同行を求められた。玉川署へ着くと美穂に会い、鉄也と対決してこの二人にちがいなかったと証言した。これで鉄也のアリバイは完全に立証された。あとにまだかれがなぜ用賀の日曜大工センターへ出向いていったかという疑問は残されたが。  ちょうどその頃小雪はとうとう発見した。鉄也の部屋の経済学の入門書のあいだから、あの世にも恐ろしい生首の写真を。  息子を信頼している彼女はいままで、鉄也の部屋をスパイしてみようなどとは夢にも思っていなかったが、きのう玉川署から帰ってくると、そうせざるをえなかった。きょうも滋を送り出してから鉄也の部屋へ閉じ籠もっていたのだが、とうとう発見したのである、あの恐ろしい写真の入った封筒を。その封筒のなかにはべつに手紙様のものが同封してあった。四枚のその便箋は鉄也が常用しているものであり、筆跡も鉄也のものであった。小雪は眉をひそめたが、聡明な彼女にはすぐ察しがついた。この写真といっしょに手紙がついていたのを、いったんは怒りにまかせて破りすてたが、後日鉄也が思い出すままに書きつづっておいたのだろう。 [#ここから1字下げ] 法眼鉄也よ。 おまえは法眼滋の子ではない。 おまえのおやじはこの生首のぬしなのだ。 ……… ……… おまえのおふくろの由香利という女は、若いころ無軌道そのものであった。多くの男と肉体的交渉を持ち、情を通じた。この生首の男もそのひとりなのだ。 [#ここで字下げ終わり] 「ちがう、ちがう、そこがちがっているのよう、鉄也さん!」  小雪の唇からほとばしったその声は、世にも悲痛なものだった。    第八編 [#ここから4字下げ] 本條会館「温故知新館」のこと  「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」恐怖に|戦《おのの》くこと [#ここで字下げ終わり]      一  |屁《へ》っぴり腰の平ちゃんこと吉沢平吉殺害事件が、世間に大きなセンセーションを|捲《ま》き起こしたことは、ここに改めて繰り返すまでもあるまい。  ことに旧「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」同窓会の席上で演出された、スライドとテープによる|威《い》|嚇《かく》と|呪《じゅ》|詛《そ》が新聞に報道されるにおよんで、世間の好奇心と興奮が|沸《ふっ》|騰《とう》|点《てん》に到達したといってもいい過ぎではないであろう。  こういう小細工を|弄《ろう》するということは、あとにかずかずの証拠を|遺《のこ》すということである。幸か不幸か問題の時計はほとんど完全に爆破されていたが、微細な粉末は|蒐集《しゅうしゅう》されて、目下警視庁の科学検査所で調査研究中である。そこからなにか掘り起こせるかもしれないし、たとえそれに失敗したとしても、そこから犯人像が割り出せるのではないか。  ことにこの事件の犯人像を割り出すうえに、決め手となると思われるのは、スライドに使われた生首の写真である。それが昭和二十八年の秋、世間を騒がせた病院坂の首|縊《くく》りの家における、あの大惨劇の犠牲者の写真とあっては、マスコミに騒ぐなっていってもいうほうがむりだし、それをしった世間一般のひとびとが驚倒したのも当然であろう。中年以上のひとの多くがあの事件を記憶しており、その写真が二十年の歳月を経てとつぜん|甦《よみが》えってきたのだ、しかも非常にドラマチックな演出のもとに。しかも、スライドとテープによって|呪《のろ》われた五人の「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のメンバーのうちのひとりが、その翌日、いちはやく血祭りにあげられたというのだから、マスコミが沸いたのも当然だろう。  それにしても、あの呪わしき写真はいったいどこから出てきたのであろうか。それが本條写真館らしいという情報を加納警部にもたらしたのは金田一耕助であった。金田一耕助はそのことを、いまは亡き本條直吉から聞いたのである。  本條写真館はその背後に、「温故知新館」という建物を持っている。これはこの会館が完成したとき、本條徳兵衛によってつくられたもので、鉄筋コンクリートの近代建築ながら、ちょっと異様な外観を示しているというのは、それが三階建てになっているのみならず、一階より二階、二階より三階のほうが小さくなっているので、ちょっと三重の塔を連想させるような形態になっているからである。いうまでもなく上から順に明治館、大正館、昭和館とよばれていて、明治二十五年創業以来、本條家三代、いや直吉をもふくめて四代によって撮影された写真の原板や原板から焼きつけられた写真が、腐蝕しないような装備のもとに整然として整理され、保存されているのである。  この「温故知新館」は捜査当局の手によって捜査されることになったが、それは四月十四日の午後のことだから、ちょうど関根美穂が玉川署へ出頭して、栗原警部補や滋のまえであの驚くべき告白をしたのとおなじ時刻であり、また小雪が鉄也の部屋から世にも恐ろしい写真を発見したのと同時刻にも当たっている。この捜査はもちろん、高輪署の甲賀警部補の指揮のもとに行なわれることになったが、金田一耕助も加納警部の要請で立ち会うことになった。  さて、この捜査の案内に立つことになったのは、その建物の管理主任ともいうべき|高《たか》|畑《はた》|英《えい》|治《じ》という人物と、兵頭房太郎のふたりである。兵頭房太郎を指名したのは金田一耕助であった。その理由は昭和二十八年当時の記録なら、高畑主任より兵頭房太郎のほうが詳しいのではないかというのであったが、このことは高畑主任の威信をひどく傷つけたようである。 「はあ、それはもう警察の要請とあらばご協力は|吝《お》しみませんが、なるべくならば小人数のほうがよろしいんで……」  と、いうのはあきらかに房太郎を敬遠しているのである。しかし、金田一耕助はさあらぬ態で、 「いや、ご迷惑はよくわかっています。わたしも故会長の整理癖はよく存じ上げているものですが、内部はさぞ整然たるもんでしょうな」 「はあ、それはもう申し上げるまでもございません。お客様のなかには古い記念写真を紛失したから、もういちど焼き増ししてほしいというようなご注文が、ちょくちょくございますもんですから。当会館でご撮影いただいたものは永遠であるというのが、亡くなられた会長のモットーであると同時に、|誇《ほこ》りでもございましたから」 「兵頭君もその建物のなかへ入ったことある?」 「それゃありますさ。だってここはぼくにとって勝手しったるわが家も同然ですからね」 「しかし、会長さんはあなたがここへ出入りなさることを、あまりお好みではございませんでしたよ。いつかわたしにおっしゃったことがございました。房太郎から眼を放すなと」  高畑主任は兵頭房太郎より五つ、六つ年長の、見るからに温厚そうな人柄だが、それに反して房太郎はその服装からして|軽佻浮薄《けいちょうふはく》にみえる。かれはきょうも黒揚羽の|蝶《ちょう》のように、紫色の底光りのする黒い、|艶《つや》|々《つや》としたビロードの三つ揃いを着て、胸には真っ赤な花が咲いたように、大きなボヘミアン・ネクタイという、ひじょうにユニークなスタイルをしているが、それがこの男の人並みはずれた自己顕示欲を示していると同時に、その自己顕示欲なるものが、いささか鼻持ちならぬ浮薄さを示しているように思える。 「|妬《や》きなさんな、高畑さん、あんたほんとにいいひとなんだけど、その嫉妬心だけはいただけませんな。ここにいらっしゃる金田一先生はね、会長とぼくがどういう関係だったかってことをよくご存じでさ。ひところはこないだ死んだ社長よりも信頼が厚かったんですぜ。それをよいことにして親子の仲に水をさすようなことをやったのは、この兵頭房太郎、千慮の一失だったけどな。なあにね、社長の浮気を会長に耳打ちしたところ、会長にひどうお目玉をくらいましてね。会長のほうではちゃんと承知のうえで大目に見てたってこと、こちとら気がつかなかったんですな。そんときつくづく思いましたね、血は水よりは濃いってことをさ。だけど金田一先生も警部さんも信用してください、この会館が出来たのはぼくがおん出たあとだったけど、ここが出来てからだって、ぼくどこへでも出入り勝手だったんですぜ。それをこのひと妬くんです。このひとはぼくがここを出てから入ってきたひとですからね」 「会長からそれほど信頼されていながら,どうしてここを止したんですか」 「それをよくひとに訊かれるんですが,ぼかあ写真屋という稼業がつくづくいやんなったんです。そうでしょ、写真とは真を写すと書く。ところがここいらの写真屋の撮る写真ときたら、どこに真を写してるんです。修正また修正で、鼻の低きも高きがごとく、頬のこけてるのもふくよかに、眉の薄きもほどほどにと、そういう|欺《ぎ》|瞞《まん》がぼくには耐えられなくなったんです」 「なるほど、それで写真屋はいやだ、真実を写す写真家になるって、徳兵衛さんのもとから跳び出していかれたってわけですね」 「そうそう、そういうこと」 「しかしねえ、兵頭君、あなたみたいな真実を追究する写真家が、なんだって虚飾と修正の蒐集場であるところの、『温故知新館』みたいなところにご用がおありなんですか」 「これは金田一先生らしくもないご質問ですな。名づけて『温故知新館』。つまり|故《ふる》きを温めて新しきを知るという意味でしょ。歴史は繰り返すというが、流行もまた繰り返すということを、金田一先生はご存じないんですか」 「いや、恐れ入りました。それで、あなたいちばん最近にその建物へ入られたのは?」 「さあてね、ことしになってからはいちども。去年の秋頃明治時代の風俗をしりたくて、ちょっと三階を見学したことがありましたがね」 「それじゃともかく『温故知新館』というのを見せてもらおうじゃありませんか。あの生首の写真が保存されていたというコーナーを」 「いや、いうにゃ及ぶというところでさあ。ぼくだってこれで忙しいんですぜ。今夜は社長のお通夜ですからね。社長亡きあと、未亡人や徳彦君の相談相手になれるのは、このぼくしかありませんからね」  そうなのだ。解剖を終わった本條直吉の遺体は、すぐ本條家へ返還されて|荼《だ》|毘《び》に付された。そしてあしたが葬儀と告別式である。場所は築地の本願寺。おなじ月に父と子の葬儀がおなじ場所で行なわれるということに、金田一耕助は暗い怒りと、はげしい自己嫌悪を覚えずにはいられなかった。 「温故知新館」は廊下で会館とつながっているが、その内部がいかに清潔で、いかに整然たるものであるかというようなことをここに詳述するのは控えよう。ただそれはあの整理整頓癖の強かった本條徳兵衛の性格を、現代的に科学化したものであったとだけをいっておこう。  捜査陣の一行は高畑主任に案内されて、天井までとどく高いキャビネットとキャビネットのあいだの狭い通路を、昭和二十八年のコーナーへむかって進んでいった。要所要所にまくばられた蛍光灯の光りによって、あたりは|眩《まばゆ》いばかりに明るかった。 「あまりバタバタしないでくださいよ。ここ空気調節に深甚なる注意が払われているんですからね」  しかし、高畑主任のその注意は|杞《き》|憂《ゆう》にすぎなかった。みんな緊張しているうえに、このおびただしいキャビネットの整列に圧倒されているのである。バタバタするどころかおのずと足音を|忍《しの》ぶような歩きかたになっている。やがて昭和二十八年のコーナーにいきあたった。 「金田一先生、あれは昭和二十八年の九月二十日の夜でしたね。あの生首が撮影されたのは」  加納警部は当時の調書を調べてきたらしい。 「そうです、そうです、わたしも記録を調べてきたんですが……」  昭和二十八年のその棚は下から一月、二月、三月というふうに順繰りに繰りあがってきているので、九月はちょうど眼の高さにある。そこにそうとう|嵩《かさ》ばったハトロン紙の封筒が、ビニールの袋に包装されて、整然として積み重ねてあったが、それらの封筒を順繰りに取りのけていった甲賀警部補が、 「あった!」  と、小さく叫んで取りあげたのは、なかでもいちばん|嵩《かさ》ばった封筒で、そのうえには本條徳兵衛の筆跡であろうか、 「昭和二十八年九月二十日夜、病院坂の首縊りの家で撮影。乾板並びに写真」  と、|几帳面《きちょうめん》な達筆で書いてある。  警部補はいそいでその封筒のなかから一枚の焼きつけられた写真を取り出したが、 「わっ、こ、これは……」  と、思わず大声を放ったのもむりはない。  それは風鈴のように宙にぶらさげられたヒゲだらけの生首を、ほとんど真正面から撮影したものだったが、そのおぞましさ、まがまがしさは、かつてその|生《しょう》のものを目撃した経験のある金田一耕助や加納警部でさえ、一瞬、眼をそむけかけたくらいである。いわんやはじめてそれを眼にした若い刑事たちのあいだから、恐怖にみちたどよめきが起こったのもむりはない。 「なるほどねえ、こういうおっかない写真がスライドとなってとつぜん映写されたら、だれだってド肝を抜かれるでしょうなあ」 「甲賀君、そういう写真があと四枚と、乾板が五枚あるはずなんだが……」  しかし、写真はあと三枚、乾板は四枚しかなかった。つまり写真と乾板のワン・セットが紛失しているのである。  しかし、金田一耕助はそれを聞いてももう驚かなかった。かれは少し身をかがめて、おなじ昭和二十八年の八月のコーナーを入念に調べていたが、やがて身を起こすと、眼をショボショボさせながら|呻《うめ》くように|呟《つぶや》いた。 「加納さん、もうひとつ紛失している、写真と乾板のワン・セットがありますよ」 「えっ、なにが……?」 「あなた、お忘れになったんですか。あの大惨事が起こる少しまえ、若き日の本條直吉君が、病院坂の首縊りの家へ出向いていって撮影した、あの奇妙な結婚式の記念写真が紛失しているようです」      二  吉沢平吉殺害事件が世間に大きな好奇心と興奮を捲き起こしたように、いや、それ以上に大きな衝撃をうけたグループがある。いうまでもなく旧「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の残党の四人である。いまの四人の状態は興奮や恐怖というような、生易しいことばでは表現出来ないであろう。それは一種の|恐慌《きょうこう》状態である。 「いったいぼくはどうしたら自分の身を|護《まも》れるというんです。相手はどこのだれともわからない。またいつどういう方法で、襲撃してくるかしれたもんじゃない。ぼくは……ぼくはどういう方法で、自分の身を護ったらいいというんです」  銀座で流しをやっている加藤謙三は、いまにも泣き出さんばかりである。 「謙ちゃん、その心配は君ひとりじゃない。われわれみんなおなじ恐怖を背負っているんだ。なぜわれわれが呪われなきゃならないのか、わからないんだけどな」 「だけど、そういう秋山さんなんかいいですよ。当代一流の作曲家として多くのファンの視線のなかにある。あなたはいつも孤独じゃないんだ。おなじことが佐川さんにだっていえるんです。佐川さんはつねに若い女の子の親衛隊を持っていらっしゃる。それが犯人の襲撃に対する防壁になると思うんです」 「じゃ、おれはどうなるんだ」 「原田さん、あなたはもっと安全ですよ。あなたは資力を持っていらっしゃる。ボディー・ガードを雇おうと思えば雇えないことはない」 「永遠にかい? あっはっは、なあ、謙坊、相手はいつ|幾日《い つ か》までと期限を切ってきたわけじゃないよ。無期限にボディー・ガードを雇っておくほどおれの資力はつづかない。いや、よしんばそんな資力があるとしても、だれがそんなもん雇うもんかい。おれはあくまで闘ってやる。単身この見えざる敵と戦ってやる……と、こういうといかにも勇ましいようだが、なあ、謙坊、おれだって|怯《おび》えているんだぜ、君とおなじようにな。それに世の中にゃ|性《たち》の悪い|悪《いた》|戯《ずら》をするやつがあればあるもんで、けさなんかうちへ電話がかかってきたそうだ。こんどはおまえの亭主の番だぞと。それでかかあのやつすっかり怯え切ってるんだ」 「ああ、|雅《ま》あちゃんのところへもかかってきたの?」 「じゃ、風ちゃんのところへもかかってきたのかい」 「ああ、うちの場合ぼく自身が出たんだけど、闇夜の|礫《つぶて》は防ぎがたし、暗闇から棒ということもあるから、せいぜい気をおつけなさいましと、いやに親切ごかしなんだ。女房にはいわなかったが、彼女もうすうす察しているらしい、お宅とおなじですっかり怯え切っているよ。哲ちゃんのところへはなにもいっていかない?」 「うん、お貞さんのところへなんとかかんとかいってくるらしいな。おれそんなこと全然無視しているけれどね」  記憶のよい読者なら憶えていられるだろう。昭和二十八年の事件のころ、かれは恵比寿駅にちかい「いとう荘」というアパートに住んでいて、|貞《さだ》|子《こ》という男まさりの女性に、身のまわりの面倒を見てもらっていたということを。哲也はいま青山のほうに豪勢なマンションを構えているが、いまも貞子の世話になっている。しかし、それはあくまでも主人と家政婦の関係で、貞子はいまも昔と変わらぬ愛情と尊敬で、この気難しい主人に仕え、とうとう婚期を逸してしまった。 「ときに、謙坊、おまえさっきおれに嫌味なことをいったな」 「嫌味なことって……?」 「おれのことを若い女の子の親衛隊に、取りかこまれてるから安全だって」 「だってそのとおりじゃありませんか」 「じゃ、まあ、そうしとこう」  哲也はノドの奥で乾いたような笑い声をあげたが、しかし、きょうの哲也の語りくちはいつもとは違っていた。あのトゲトゲしい、ひとにむかって突っかかるような調子はまるでなく、なんとなくシンミリとした口ぶりである。 「ところがその親衛隊の女の子について、おれこのあいだ泣かされた……いや、泣かされそうになったことがあるんだ。それ、君たちもしってる法眼鉄也という少年に関係があることなんだけどな」 「哲ちゃん、それどういう話なんだ。差し支えがなかったらここで話してみないか。秘密を必要とする話ならだれも口外しないからさ」  風ちゃんこと秋山浩二がいたわりをこめた声をかけながら、気遣わしそうに哲也の横顔をうかがっている。温厚な秋山浩二はだれに対してもそうなのだが、ことにきょうの哲也のようすはあまりにもふだんと違っている。 「あっはっは、おれいやにオセンチになってんのかな。だけどさ、話しかけて中途でよすのはキザだから話してしまうけどさ、なるべくならみんなの胸のうちにしまっておいてもらいたいと思うよ。だってさ、この話なんだか今度の一件に関係がありそうに思えてならねえんだ。だからさ、さっき多門さんには打ち明けといたんだけどな」 「いや、秘密を守れというならおれも誓うよ。絶対に他言いたしませんと。謙坊、おまえも誓え」 「はい、わたしも誓います。神かけてだれにも|喋舌《し ゃ べ》りません」 「ありがとうよ、雅あちゃんも謙坊も。謙坊、おまえのことはそのうちなんとかするからな。いや、これはこういう話なんだ」  哲也はハンケチを出してチンと|洟《はな》をかむと、 「おれの親衛隊のひとりに、町田啓子という女の子がいるんだ。今度どこかの三流大学へ入ったけどさ、ついこないだまでは高校生だった子さ。こいつとんだ|跳《はね》っ返りで、ずいぶんまえからおれにつきまとっていて、こっちがホテルへでも誘おうものなら、尻っ尾をふってついてきそうないやらしい子なのさ。その子がちかごろ関根美穂という女の子をつれてくるようになったんだな。風ちゃんなんかしんないかな、関根玄竜さんて一流の彫刻家がいるだろう」 「ああ、名前はしってるよ、関根玄竜さんなら人間国宝級だろう。いや、じっさいに人間国宝かもしれないよ」 「そうそう、その関根玄竜さんのお孫さんで、両親は外交官でいま外地勤務らしいんだな。で、美穂って子だけが、|祖《じ》|父《い》さん|祖《ば》|母《あ》さんのところへ預けられていて、今度一流の音楽大学へ入って、ピアニストが志望だっていうんだ。まあ、いってみれば良家のお嬢さんというところさ。いまどき良家のお嬢さんも当てにゃならねえが、その子だけはちがってんだな、おれみてえなジャズ屋に血道をあげるような子じゃねえんだ」 「ふむ、ふむ、それでその子がどうかしたの」 「ああ、おとといの晩おれその子にホテルに誘われたよ。いまにして思えば平ちゃんの殺された晩だったな」 「それで哲ちゃんはそれに付き合ったのかい」 「まさかね。いかにおれがプレイ・ボーイだってさ。だけどなあ、風ちゃん、その子のおれを見る眼つきがちがってんだな。なにかこう非常に真剣で、非常に思い詰めたようなところがあるんだ。だからなにかわけありと思ったもんだから、いきつけのレストランの個室へ連れてったんだ。それどういう子だと思う?」 「どういう子なんだ、それ……?」 「法眼鉄也の恋人なんだ」  ほほうというような顔色で原田雅美がことばを|挟《はさ》んだ。 「で、その子があんたにどういう用事があったんだ」 「先生……と、いうのはおれのことだが、先生はなぜ鉄也くん……と呼んでたな、なぜ鉄也くんにそんなにしつこく付きまとうのか、そのわけをしりたい……」  三人はギョッとしたように哲也の顔を見直して、しばらく無言でいたのちに、秋山浩二が内緒話でもするような声でささやいた。 「じゃ、哲ちゃんはあの少年……法眼鉄也という子に付きまとってたの」 「ああ、つきまとってたよ。その理由はいまさら説明しなくてもわかるだろ。あの少年の顔を見たら」 「そ、そ、そういえばあの少年、ビ、ビ、ビンちゃん、いや、いや、山内敏男さんに似てましたね」 「さあ、そこだ」  突然、佐川哲也は身を起こして、ギタギタと燃えるような眼で三人を|睨《ね》めまわすと、 「法眼家のひとり息子になぜビンそっくりの子が生まれたのか、そのことはここでは考えないことにしようじゃないか。だからおれそのことをさっき多門さんに打ち明けたんだ。多門さんのバックには金田一先生がいらっしゃる。その謎解きは金田一先生におまかせしようじゃないか。だからこのこと当分絶対他言無用だぜ、謙坊、君もだぜ」 「しょ、しょ、承知しました。首がちぎれても……」  秋山浩二もノドにひっかかったような声で、 「しかし、哲ちゃんはいつごろそれに気がついたの」 「おととしの秋のことだった。ほんの偶然のことからだけどな。当時はまだヒゲなんか生やしちゃいなかった。だけど眼もと口もと鼻のかたち、ビンちゃんにそっくりなんだ。それが法眼家の|倅《せがれ》としったときのおれの驚き! 察してくれよなあ」 「だけど、それ以来君があの少年につきまとっていたというのは……?」 「可愛いんだ、雅あちゃん、おセンチと|嗤《わら》わば嗤え、おれ、あの子が可愛くて可愛くてたまらねえんだ。力一杯抱きしめてやりたいくらい可愛いんだ」  突然、佐川哲也の眼から|滂《ぼう》|沱《だ》として涙が溢れた。涙があとからあとから溢れてきた。秋山浩二は|傷《いた》ましげな眼でそういう哲也のようすを見守っていたが、そっと|労《いた》わるような声で、 「哲ちゃんはあの少年の母なる人に、会ったことがあるんじゃない?」 「そういう風ちゃんはどうだ。会ったことがあるのか」 「ああ、二、三度。パーティーの席でね」 「あんたあの女性どう思う」 「立派な人じゃないか。|毅《き》|然《ぜん》としていて、優雅で、高貴で、しかも心の底から優しさが溢れているようなひとだ。ああいうのをほんとのレディーというんだろうね。もっとも面とむかって挨拶したことはないけれどな」 「そうか、君もやっぱり……」  哲也は深い、深い歎息をもらすと、急いで涙をふり落とした。それから急にギラギラとしたいかつい眼になって、原田雅美と加藤謙三の顔を見較べると、 「雅あちゃんや謙坊にいっとくがね、いまの風ちゃんとの会話の意味を、追究しようなんて考えちゃいけないぜ。雅あちゃんは大丈夫だが、謙坊は若いときから好奇心の旺盛なほうだから、とくに強くいっとくがね」 「佐川さん、ぼくはいつまでも若くはありません。いまの話聞かなかったことにします」 「そうだ、そうだ、それがいい。そんな問題は万事金田一先生にまかせておけばいいんだ。それより哲ちゃん、さっきの話のつづきを聞こうじゃないか。関根美穂って女の子の話」 「ああ、それ。それは要するにこういう話なんだ。法眼哲也という子がこの二月頃から、すっかり人間が変わってしまったというんだな。以前はほんとにいい子だったのに、二月頃からひとが変わったように言語動作が粗暴になった。自分なんかもしょっちゅうデートをすっぽかされる。その原因を先生がご存じじゃないかというんだな。それで君はあの子のなんなんだいと聴くと、鉄也くんはあたしにとってたったひとりのひと、大事な、大事な、かけがえのないひとだというだろ。おれ、横っ面をひっぱたいてやりたくなった。そんな大事なひとがありながら、おまえおれに体を提供しようとしたのかいと|面《めん》|罵《ば》してやったんだ。そしたらその女の子がいうじゃないか。もののみごとに真っ赤になってさ」 「なんといったの」 「もういいんです。あたしたちきょう新宿のホテルへいって、互いに愛を確かめあってきたんです。はじめてのものを哲也くんに捧げてきたから、あとはもうどうでもいいと思ったというんだ。と、いうことはことほどさように、鉄也少年の|煩《はん》|悶《もん》|懊《おう》|悩《のう》が眼にあまるということなんだな」 「哲ちゃん、そのふたりが新宿のホテルへいったというのは何時頃?」 「六時にいって八時まえに別れた。自分はその足でこちらへ来たというんだ」 「哲ちゃん、それがほんとだとすると、法眼鉄也って子には平ちゃん殺しのアリバイがあるんじゃないか」 「それだよ、雅あちゃん、きのう玉川署で話をきいてすぐそれに気がついた。ところがきょうの新聞では法眼鉄也のことを、たんに少年Aとしてしか報道されてなかったろう。だからけさ関根家へ電話をかけて美穂って子に注意をしておいたよ。勇気があるなら名乗って出なさいって」  ちょうどそこへ、金田一耕助が多門修といっしょに入ってきた。金田一耕助は本條会館からのかえりでもう六時になっていた。      三  そこはK・K・Kビルの八階、クラブK・K・Kの支配人室である。クラブK・K・Kは八階全部を占有していて、相当広大な面積をしめている。それにしてもこのビルなども日本の高度成長の、ひとつの象徴みたいなものであろう。もとは二階建てのクラブに過ぎなかったものが、いまでは八階建てのかなり壮麗なビルに変身していて、クラブK・K・Kはそのなかに納まっている。東京でも一といって二とは下らぬナイト・クラブで、ここのショーは世界的に有名である。  さるにても物騒なのはここの名前である。K・K・Kとは Ku-Klux-Klan の略字に相当している。キュー・クラックス・クランというのは南北戦争後、アメリカ南部に起こった秘密結社で、奴隷解放に反対する白人地主によって結成されたといわれている。黒マントに、眼のところだけ穴のあいた黒い頭巾をスッポリかぶり、手に手に|松《たい》|明《まつ》振りかざし、黒人を迫害してまわる姿は昔の西部劇によく出てきたものである。  しかし、ここのK・K・Kにはそういう物騒ないわれがあるわけではなく、三人の共同経営者の頭文字をとったのだといわれている。三人とは金田一耕助のパトロンの風間俊六、風間のかつての愛人菊池|寛《ひろ》|子《こ》、それからあとのひとりは金田一耕助だといわれているが、金田一耕助はその説を肯定もしないが否定もしない。 「やあ、佐川君、お手柄だったね」 「はあ、金田一先生、なんのことでしょうか」 「いやあ、いま多門君から聞いたんだが、あんたおとといの晩、ちょっとしたアヴァンチュールがあったって言うじゃないか」 「ああ、あのこと……金田一先生にとってなにか参考におなりでしたか」 「ああ、大きにね。しかし、ぼくがいまお手柄だったというのは、そのこともそのことだが、あんたそのことについて関根美穂って少女に、けさ電話で注意を喚起してやったんだってね」 「ああ、あれ、なにか効果がありましたか」 「きょうの午後、関根美穂なる少女が玉川署へ出頭したそうだよ」 「ああ、あの子、いきましたか」 「いま多門君からあんたの話を聞いたので、さっそく玉川署へ照会してみたのさ。そしたらさっきやってきて一切を打ち明け、しかもそのウラもとれたので、あんたの熱愛する法眼鉄也君はいちおう釈放されたそうだ」 「えっ、じゃあの子、田園調布の家へかえったんですか」 「いや、田園調布じゃないらしい」 「じゃ、どこへ……?」 「いやね、美穂ちゃんの供述のウラが取れたんで、釈放ということになったんだね。ところが本人うちへ帰りたがらないんだ。うちへ帰るくらいならここへ留置しておいてほしいというんだそうだ。そしたら美穂ちゃんがそんならうちへいきましょうってわけで、自分でさっさとお祖父ちゃまのところへ電話をかけたそうだ。そしたらお祖父ちゃまの玄竜先生があたふたと駆け着けてきて、そんな事情ならわしにとっては可愛い孫婿ってわけで、さっさと引き取っていったそうだよ。もちろんあの子がなぜあの現場にいたのか口を割らない以上、このままではすむまいがね」  しばらく黙っていたのちに佐川哲也が口を開いた。 「ねえ、金田一先生、ぼく妙なことを考えたんですが」 「妙なことって」 「こんどの平ちゃん、いや、吉沢平吉君殺しの犯人は、たんに吉沢君殺しだけが目的ではなく、その罪をあの少年に|転《てん》|嫁《か》しようという、もうひとつの|目《もく》|論《ろ》|見《み》を持っていたんじゃないでしょうかねえ」  金田一耕助はしばらく無言でいたのちに、急に白い歯を出して、|悪《いた》|戯《ずら》っぽい眼で一同の顔を見廻しながら、 「だから、君たち気をつけてくれたまえよ。ひょっとすると君たち順繰りに殺されてって、そのつど死体のそばに法眼少年が、ウロチョロしてるってことになりかねないからね」 「せ、せ、先生!」  悲鳴にちかい声を張り上げて、椅子から飛び上がったのは加藤謙三である。 「そんな殺生な! そんな殺生な!」  銀座を流して歩くのが商売の加藤謙三は、一番無防備の状態におかれている。したがって恐怖もひと一倍深刻なのである。 「あっはっは、ごめん、ごめん、つまらん冗談いってのけたな。大丈夫、大丈夫、君たちのうちのひとりにでも間違いがあったら、それこそ警察の威信にかかわる。だから捜査陣でも全力をあげて君たちの身辺警戒に当たっているようだ。しかし、おのがじし気をつけるに越したことはないからね」  金田一耕助がこの連中と、膝をまじえて話し合ったのはきょうがはじめてだったが、会ってみるとそれぞれがいわゆるいいやつなのだ。この連中に指一本ささせてはならぬと金田一耕助は決心している。それには犯人逮捕が第一なのだが……。それからまもなく、 「じゃ、シュウちゃん、あとを頼んだよ」 「承知いたしました。このひとたちならわたしにまかせておいてください。だれにだって絶対に指一本ささせませんから」  こんな場合の多門修は頼もしい存在だった。  こうしてK・K・Kビルを出た金田一耕助が、緑が丘の緑が丘マンションの自分の部屋へかえってきたのは、七時半ごろのことだったが、ドアのまえへ立つと部屋のなかで電話のベルが鳴っている。金田一耕助はやっとその電話にまにあった。 「もしもし、こちら金田一耕助事務所ですが……」 「ああ、先生、金田一先生でいらっしゃいますね」  と、念を押してから、 「こちら法眼の家内でございます」 「あっ!」  と、金田一耕助は低い驚きの声を放って、 「あなたいまどこからこの電話を?」 「先生、ご心配には及びません。あたしいま本條さんのお宅のお通夜へまいる途中なんですけれど、ちょっと買物に寄ったお店のすぐまえに、この公衆電話がございましたもんですから……」 「はあ、はあ、それでご用件とおっしゃるのは……?」 「先生、あたしきょうそちらへ速達を差し上げました。明日の午前中には着くと思うんですけれど、お留守に着くと困ると思ったもんですから……」 「承知いたしました。じゃ明日午前中は在宅することにいたしましょう。しかし、奥さん、あなたまさか無分別なことを……」 「ほっほっほ」  淋しそうな女の笑い声が|耳《じ》|朶《だ》を打って、 「先生、あたしそんなに弱い女ではございません。今度の事件が解決するまでは、あたし絶対に死にません。ではこれで失礼いたします。主人がひとあしさきにまいっているものですから」  そっと受話器をかける音がして電話が切れた。金田一耕助は受話器を握ったまま、深い淵でも|覗《のぞ》くような|眼《め》つきになって、長く、長くそこに立ちすくんでいた。    第九編 [#ここから4字下げ] 耕助愚者の犯罪を説くこと  愚者犯罪計画に熱中すること [#ここで字下げ終わり]      一  本條直吉の葬儀並びに告別式が、築地の本願寺で執り行なわれた、四月十五日の日曜日はあいにくの雨であった。  東銀座の等々力秘密探偵事務所の所長室では、等々力大志が四階の窓のすぐうらがわに立って、ガラス戸越しにそぼ降る雨を眺めながら、しきりに腕時計と|睨《にら》めっこしていて落ち着かない。腕時計の針はそろそろ三時を示しているが、等々力大志はまだ決断がつきかねるふうである。  本條直吉の葬儀は一時から二時まで。二時から三時までが一般参列者の告別式である。等々力大志はそれに出ようか出まいかと思案しながら、なかなか決断がつかないのは、直吉を死にいたらしめたのは、おのれのミスが原因だという自責の念が、|棘《とげ》のようにかれの良心に突き刺さっているからである。  眼の下の昭和通りの雨の町角へタクシーが一台きてとまった。客席のドアが開いて、足のほうから降りてくる客の姿を見ると等々力大志はおやと眼を|欹《そばだ》てた。その男は|襞《ひだ》のたるんだ袴をはいて、古ぼけた|鼠《ねずみ》色の合いの二重廻しを着ているらしい。等々力大志はわれしらず、窓のそばを離れようとしたが、相手はそのまえにこちらの姿をとらえていたとみえて、くちゃくちゃに形のくずれたお釜帽を雨の中で振ってみせた。等々力大志はいまさら逃げるに逃げられず、仕方なしに右手を軽く振ってみせた。  まえにも書いておいたようにこのオフィスは、金田一耕助にとっては勝手しったるわが家もおなじである。こうもり傘を片手にぶら下げた金田一耕助が、のっそりと所長室へ入ってきたが、入ってくるなり意地悪そうに目玉をクルクルさせながら、 「警部さん、あんた|卑怯《ひきょう》じゃありませんか」 「いや、どうも。わたしもいこうかいくまいかと、思案をしていたところなんですが……」 「わたしのいうのは告別式のことじゃない」 「はあ? では、なんのこと?」 「あなたわたしの姿を見ると、急いで窓のそばから逃げようとしたじゃありませんか」 「あっはっは、あなた気がついていらしたんですか」 「笑いごとじゃありませんよ。タクシーの窓からあなたの|白《しら》|髪《が》頭が見えたからこそ、あそこでクルマをとめたんじゃありませんか」  金田一耕助は雨に濡れたこうもり傘を部屋の隅っこに立てかけると、これまたいくらか雨にそぼ濡れたお釜帽と合いトンビを自分で勝手に帽子掛けに掛けておいて、等々力大志のまえの椅子へきた。 「ところでお葬式のほうどうでした」 「このまえの日曜日、わたしがここへ立ち寄ったのは、先代徳兵衛氏のお葬式のかえりでしたね。あのときよりはきょうのほうが盛んでしたよ。なにしろ加納警部をはじめとして、高輪、玉川両署の捜査員諸公立ち会いというものものしさのうえに、一般参列者のなかにはマスコミさんのほか、その他野次馬大勢というところですからね。そうそう、ご令息の栄志君にはお眼にかかりましたよ。別にご挨拶はしませんでしたけれどね」 「その栄志ならいきがけにちょっとここへ寄っていきましたが、妙な話をしてましたよ」 「妙なお話って……? いや、捜査上の機密に属することなら、お聞きしなくてもよろしいんですが……」 「いや、それはそういう意味ではなく、わたしに打ちあけた以上、先生のお耳に入ることは必定と、承知のうえのことでしょうからね」 「はあ、どういうことでしょうか」 「吉沢平吉殺しですがね、あれ、必ずしも用賀の日曜大工センターが、殺人現場とは限らないんじゃないかって説が、捜査員のなかから出て来ているそうです」 「なるほど」 「なにしろ長さ七、八センチもあろうという千枚通しが、|根《ね》|元《もと》までぐさっと突っ立っていたというんでしょう。だからそれを抜かないかぎり、ちょっとやそっと体を動かしても、血はこぼれなかっただろう、だからほかの場所で殺害して、あそこへ運んできたんじゃないかというんです、自動車かなんかでね。あの千枚通し、現場で売ってるものですが、そんなもの|予《あらかじ》め手に入れておこうと思えば、いくらでも出来ますからね。ところで吉沢平吉があの日、日曜大工センターを出たのが六時でしょう、歩いて出たんだそうですね。殺害されたのが七時から八時までのあいだの、どちらかといえば七時よりだということでしたね。すると、いまどき六時から七時というとまだ真っ暗という時刻じゃない。だからだれか吉沢平吉の目撃者がいるはずだというので、目下聞き込み捜査にやっきになってるそうですよ」 「つまり、吉沢平吉がどこへ出向いていったかということがわかれば、ほんとの殺人現場が割れる。ほんとの現場が割れれば犯人も割れるというわけですね」 「と、まあ、そういうこってすな」  金田一耕助はしばらく無言でいたのちに、ゆっくりともじゃもじゃ頭をかきまわしながら、 「それじゃあなたから栄志君に注意を喚起しておいていただきたいことがあるんですが……。但し、これわたしの発想じゃなくてシュウちゃん、多門修君の意見なんですがね。あるいは警部さんなんかも気づいていられることかもしれません」 「と、いうと……?」 「問題は鉛筆なんですがね。一〇センチくらいの……」 「鉛筆……?」 「はあ、これは『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』の同窓会の席上でも、話題にのぼったことだそうですが、被害者の吉沢平吉君というひとは、それが習い性になったとでもいうのか、いついかなる場合でも、右の耳に一〇センチくらいの青鉛筆をはさんで放さなかったというんですね」  等々力元警部の眼が急にくわっと大きく見開かれた。ギラギラ輝く瞳をみて、 「憶えていらっしゃいますか、警部さんも」 「憶えているどころじゃありませんよ。わたしはそれについて冗談いったくらいですから」 「冗談とおっしゃると……?」 「いや、あの日、『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』の同窓会があった晩、あの男が最後に本條会館のフロントへやってきたでしょう。わたしはそのまえからあの男がロビーにいるのに気がついていた、但し、それが吉沢平吉とはしらず、ただ妙なもの……即ち鉛筆ですね、鉛筆を右の耳にはさんでいるので印象に残っていた。それが最後にフロントにきて名を名乗った。そこまでは、まあ、いいんですが、その態度、口のききかたがいやに陰々滅々なんですね。そばにいたベル・ボーイが気味悪がって、まるで死神みたいだといったんです。そこでわたしもつい、耳に青鉛筆をはさんだ死神か。あれでつぎの|死《し》|人《びと》の名をメモにとっているのかもしれんぜと、いったのを憶えているんです」  等々力大志はちょっと小首をかしげたのち、 「そうでした。九階の廊下で出会ったときも、あの男鉛筆を耳にはさんでいました。すると、あの男いつもそうなんですか」 「だからさっきも申し上げたとおり、習い性になるというんですか、吉沢平吉にとってはあの鉛筆が、肉体の一部みたいになってたらしいんですね。ところが用賀の日曜大工センターで、死体となって発見されたとき、吉沢平吉の耳にはその青鉛筆がなかった」 「しかも、死体のちかまわりにも、その鉛筆がなかったとおっしゃるんですか」 「いや、捜査員諸君、そんなもの捜そうともしなかったというんですね。と、いうことは、警察ではまだ吉沢平吉と青鉛筆の関係を、ご存じないんじゃないかと、多門君はいってるんです」 「しかし、先生のシュウちゃんはどうしてそんなことをしってるんです。警察が鉛筆を捜さなかったなんてえことを」  目玉をギョロギョロさせながら、等々力元警部の吐くことばには、いくらか底意地の悪いひびきがある。 「なあにね、シュウちゃん元来好奇心が強いうえに、こんどの事件には自分もひっかかりがあるでしょう。だからブン屋さんになりすまし、用賀の日曜大工センターへ出向いていったらしいんですね。その結果どうやら警察のほうでは、鉛筆のことに気がついていらっしゃらないようだから、適当に注意してあげてほしいと、ゆうべシュウちゃんからアドバイスを受けたんですがね」 「承知しました。じゃ、さっそく栄志に注意しときましょう。で、日曜大工センターを大捜索をして、そこに鉛筆がなかったとしたら……?」 「その鉛筆のあるところが、ほんとの殺人現場じゃないかとシュウちゃんはいうんです。但し、犯人が気がついて始末していれば話はべつですがね」 「わかりました。じゃ、あとでさっそく栄志に電話でもかけておきましょう」  あとにして思えば多門修のこの発想こそ、犯人決定の決め手となったのである。      二 「しかし、ねえ、金田一先生」  等々力元警部はそこで大きく溜め息をつくと、 「いまのことはたしかに栄志に伝えておきます。しかし、わたしは今度の事件から下りようと思うんですが、どうでしょう」 「どうしてですか。栄志君がなにかいったんですか」 「いや、栄志はなにも申しません。かえってわたしを激励してくれたくらいです。この二、三日、わたしが意気消沈してるってえことを家内にでも聞いたんでしょう。しかし、わたしはどうしても自分で自分が許せないんです。わたしのミスから本條直吉氏がああなったのだと思えばね。わたしが持ち場から離れさえしなかったら……」  それからくどくどと等々力大志の|愚《ぐ》|痴《ち》の百万遍がはじまった。昔から責任感の強い性格だから、もっともだとも考えられないことはなかったが、いっぽうこのひとも年が寄ったと思わざるをえなかった。  金田一耕助は溜め息をついて、 「しまったことをしたなあ、こんなことならきょうの葬儀にむりやりにでも、あなたを引っ張っていくべきでしたよ」 「それ、どういう意味ですか」 「いえね、きょうの葬儀の委員長は法眼滋氏でした。したがって奥さんもきていましたよ。法眼滋氏の葬儀委員長は立派でした。葬儀委員長ですからまずいちばんに、法眼氏が弔辞を読んだわけです。弔辞もなかなか立派でした。ところがそれが終わりに近づいたとき、とつぜんわっと泣き出したものがあるんです。直吉氏の息子さんの徳彦君ですね。徳彦君は心中おそらくパパ、パパと叫びつづけていたにちがいありません。それにつれていままで|怺《こら》えに怺えていた未亡人、文子さんというんですがね、よよとばかりに泣き伏しました。徳彦君には直子さんという妹さんがひとりあるんですが、この妹さんがまたわっと泣き出しましてね。ああいう光景をごらんになったら、あなただってファイトをもやされたにちがいない、本條直吉氏の霊を鎮め、あのひとたちの歎きをいくらかでも軽くするには、犯人を挙げるよりほかに方法はないんですからね。それにぼくいまひどく怖れていることがひとつあるんです」 「どういうことでしょうか」 「本條直吉氏の墜死一件ですがね。あれ、なにもかも、あまりにうまくいきすぎたとお思いになりませんか、『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』の旧メンバーが一堂に会した。そこへ自動的にスライドが映し出され、テープの声がきこえはじめた。そこまでは犯人の計画どおりでしょうが、それが爆発とともに終末をつげた、と、思ったつぎの瞬間、窓の外に直吉氏が落下してきた……これあまりにもタイミングが|好《よ》|過《す》ぎると思うんです」 「先生のおっしゃりたいのは……?」 「つまりこれ偶然が大きく左右してると思うんですよ。あなたが持ち場を離れたのも偶然なら、法眼鉄也少年があの晩、本條会館へ来合わせていたというのも偶然なんです」 「先生、それ、どういう意味ですか。法眼鉄也という少年が、あの場にいあわせたのも偶然だとおっしゃるのは……?」 「いや、そのことはいますぐ申し上げます。ただぼくのいいたいのは、本條直吉殺しの場合、あまりにも偶然が働きすぎている。偶然の積み重ねみたいな事件です。しかし、犯人はそう思っていないかもしれない。なにもかも自分の計画どおりいったと、思いあがっているかもしれない。それが矢継ぎばやの殺人事件として発展し、さらにそれが成功したとなると、犯人はますます|己《うぬ》|惚《ぼ》れ増長し、なにをやらかすかわからないということを、ぼくはいまいちばん恐れているんです」 「つまりおまえたちは呪われているという予告どおり『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のメンバーが、順繰りに殺されていくということですか」 「ええ、そう、それがいまいちばん怖いところですね」 「しかし、なんだってそんなこと……犯人がだれにしろ」 「それなんですがね、警部さん、それについて、警部さんに見ていただきたいものがあるんですが……」  金田一耕助がふところから取り出したのは一冊のノートである。ノートのあいだには大きな封筒が|挟《はさ》んであった。その封筒から取り出したものを等々力大志のほうに差し出しながら、金田一耕助は悩ましげな眼をしていった。 「警部さんはこの写真に見憶えがおありだと思うんですが……」  等々力元警部はひとめその写真を見ると、いまにも目玉が飛び出しそうになった。 「き、き、金田一先生、こ、これは山内敏男の生首の写真じゃありませんか」 「そう、そして、おそらくそれとおなじスライドが、『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』の同窓会の席上で、映写されたにちがいありませんね」 「しかし、金田一先生、あなたはこの写真を、どこから手にお入れになったんです」 「いや、それを申し上げるまえに、ひとつこの手記を読んでいただきたいんですが……」  手渡された数枚の|便《びん》|箋《せん》を読んでいくうちに、等々力大志の頬はみるみる紅潮し、額に血管が二本、まるで角のように怒張してきた。それはかつて諸君が読まれたところのものだが、|便宜上《べんぎじょう》もういちどここに掲げておこう。 [#ここから1字下げ] 法眼鉄也よ。 おまえは法眼滋の子ではない。 おまえのおやじはこの生首のぬしなのだ。 その証拠におまえは鏡をのぞいてこの生首と見くらべてみろ。眉、眼、鼻、口、顔の輪郭、そこに恐るべき相似を発見するだろう。おまえがこの生首にならってヒゲをのばすなら、その相似はさらに恐るべきものとなるであろう。 おまえのおふくろの由香利という女は、若いころ無軌道そのものであった。多くの男と肉体的交渉を持ち、情を通じた。この生首の男もそのひとりなのだ。 おまえのおふくろはこの男のタネを身ごもったまま、五十嵐滋と結婚したのだ。 それがウソだと思うならおまえの誕生日と両親の結婚記念日とのあいだの日数を計算してみろ。そこに一か月ほどの誤差があることを発見するだろう。 それにもかかわらず滋がそれに気がつかないのは、滋もまた結婚以前から、おまえのおふくろと肉体的交渉を持っていたからなのだ。 おまえのおふくろは淫婦であり、姦婦であると同時に殺人者なのだ。生首の男を殺害し、それから二日ののち滋と結婚してアメリカへ飛んだのだ。 では、おまえのおやじ、即ち生首のぬしはだれなのか。それをしりたくば昭和二十八年、即ちおまえのうまれた年の前年の、九月二十一日以降の東京の新聞を調べてみろ。 ああ、恐ろしい。 病院坂の首|縊《くく》りの家で発見された、あの生首風鈴殺人事件。その事件の犠牲者が即ちこの写真のぬしであると同時におまえのおやじなのだ。 おまえは法眼家とは縁もゆかりもない人間なのだ。おまえはカタリだ。|贋《にせ》|者《もの》だ。宿無しだ。  地位も身分もない|蛆《うじ》虫みたいな存在なのだ!![#「!!」は底本では「!!!」] [#ここで字下げ終わり]  等々力元警部の受けたショックは大きかった。警部は歯を喰いしばり、眼を皿のようにして生首の写真を凝視しながら、記憶に新しい鉄也のヒゲ面と比較してみた。 「金田一先生、あなたはどこでこういうものを、手に入れられたんですか」 「けさ速達で受け取ったんです」 「差出人は?」 「法眼夫人。夫人はきのう鉄也少年の部屋を捜索して、その手記と写真を発見したんですね。それでぼくのところへ速達で送ってきたんですが、ここに夫人の手紙があります。この手紙によるとその手記は鉄也少年の筆跡だそうです」 「と、おっしゃると……?」 「この手紙に法眼夫人の憶測が書いてありますが、それによると写真と同時に、それとおなじような文句を書いた手紙が添えてあったのだろう。鉄也はいったんは怒りにまかせてその手記を、破るか焼き捨てるかしたのだろうが、後日重大なことなので、思い出すままに書きとめておいたのだろうというのが法眼夫人の意見ですが、ぼくもその説に賛成ですね」 「金田一先生。先生はさっきわたしに、法眼鉄也少年があの場に居合わせたのも偶然だとおっしゃったが、じゃ、先生はあの子と生首のぬしの相似に、まえから気がついていらしたんですか」 「ええ、そう。だから本條直吉氏の二度の奇禍をきいたとき、なにかいまわしい事件が起こるんじゃないかと、いやな予感がしたんです」  金田一耕助は暗い眼をして溜め息をつくと、 「それについてきょう葬儀のはじまるまえに、徳彦君にきいてみたんです。どうしてあの日、鉄也君が本條会館へきていたのかって。そしたら徳彦君のいうのに、鉄也のやつおやじになにか聞きたいことがあったらしい、ところがそれがひとまえでは切り出せない話なので、ふたりきりになるチャンスを待ってるうちに、ああいうことになったんだというんです」 「なるほど、そうするとあの生首のスライドが映写された直後に、鉄也少年があの席へ顔を出したのも、まったく偶然だというわけですね」 「しかし、これ演出効果満点でしょう。犯人はそれも自分の手腕のうちだと|己《うぬ》|惚《ぼ》れてるかもしれない。それがぼくには怖いんです」  金田一耕助はゆっくりともじゃもじゃ頭を掻きまわしながら、身ぶるいをするような声である。等々力元警部はもういちど、鉄也の手記を読み返していたが、 「金田一先生。そうするとここに新しい|恐喝《きょうかつ》がはじまっているということですか」      三 「警部さん、われわれは本條直吉殺しの動機が全然つかめていなかった。動機がわからない以上、犯人を推理しようにもしようがない。それだけにけさ法眼夫人から送られてきた、この生首の写真と、鉄也少年が書き留めておいた、その脅迫状の写しを読んだときの、ぼくのショックは大きかったんです。やっと眼のなかの|埃《ほこり》がとれたような気がしましたね。この|一《つい》|日《たち》ぼくを訪ねてきたとき、本條直吉氏自身がいってましたよ。恐喝者はつねに生命の危険にさらされるって」 「じゃ、本條直吉が法眼鉄也を恐喝していたとおっしゃるんですか」 「しかし、それならば本條直吉は、だれを警戒すべきかをしっていたはずです。ところがあのひとにはてんでそれがわからなかった。なぜ自分の生命が脅やかされているのか……」 「と、おっしゃると……?」 「恐喝者は別にいるんじゃないでしょうかねえ。しかし、犯人即ち被恐喝者は恐喝者をてっきり本條直吉だと思いこんでしまった。あの生首の写真の出どころから、そう勘違いしたのもむりはないといえばいえますけれどね」  等々力元警部は|眼《ま》じろぎもせず、金田一耕助の顔を|視《み》|詰《つ》めていたが、とつぜん大きく呼吸をはずませて、 「じゃ、本物の恐喝者はひょ、ひょ……」 「としか思えませんねえ。あそこ……即ち本條会館にああいう写真が保存されているということを、いちばんよくしってたのは本條直吉と兵頭房太郎の二人です。しかし、本條直吉にその覚えがなかったとすると、二引く一は一残る。つまり、鉄也はしょっちゅう本條会館へ出入りしていた。しかし、直吉のほうは生首との相似にいっこう気がついていなかった。ところが、昔から眼から鼻へ抜けるような、あの|小《こ》|賢《ざか》しい房太郎が気がついたとしたら……」 「すると、法眼鉄也を恐喝していたのは、兵頭房太郎だとおっしゃるんですか」  金田一耕助はこたえなかった。等々力元警部はいくらか|急《せ》きこんで、 「そうすると、法眼の倅が自分を恐喝しているのは本條直吉だと誤解して、直吉を屋上から突き落としたとおっしゃるんですか。しかし、先生。法眼鉄也にはアリバイがあるじゃありませんか。本條直吉が窓の外を悲鳴をあげて|顛《てん》|落《らく》していったとき、鉄也はたしかにスイート・ルームのなかにいましたよ」 「だから、そこになにかトリックがあるんです。警部さんはまだご存じないんですが、法眼鉄也という少年は、有名な推理小説マニアだそうですよ。かれの部屋には内外の推理小説が、ギッチリ詰まっているんだそうです。だから、なにかそこにトリックがある。それをぼくは見落としてるんです」  金田一耕助はそこで悩ましげな眼を、等々力元警部のほうへむけて、 「警部さんはあの事件の起こる直前、あの会館の屋上へのぼっていかれたんですが、なにか変わったことにお気づきじゃありませんか。どんな些細なことでもいいんです。われわれは窓の外を本條直吉が落下していくのを見て、急いで四階へ降りていきましたね。そのあとで屋上へあがっていった。警部さんが最初屋上へのぼっていかれたときと、二度目にあがっていかれたときと、なにか変わったことはありませんでしたか。どんな些細なことでもいいんです。まえにはあったが二度目にはなくなっていたとか、その反対でもいいんです。なにか……なにか……?」 「そうおっしゃられても困りますが……最初あがっていったときは、新婚さんが屋上から夜の景観を楽しんでいましたよ。それから来月から開かれる屋上ビヤー・ガーデン設営のために、労務者が数名働いていました。そのほかには別に……」  と、いいかけて、突然等々力元警部の眼が大きく、くわっと見開かれた。 「ロープだ! そうだ、あのロープは二度目にあがっていったときには見えなかった!」 「警部さん、ロ、ロ、ロープがどうかしたんですか」 「金田一先生。あの屋上へエレベーターであがっていくと、すぐ眼のまえに格納庫のようなものがあるでしょう。その格納庫の屋根の|廂《ひさし》が五〇センチほど胸壁の外につき出していて、その廂の下側に一メートルほどの等間隔に、|鎹《かすがい》みたいなものが打ちつけてあるんですね。その鎹のひとつからロープが一本ぶら下がっていたんです。長さ三メートルくらいもありましたろうか、それが、二重になっていましたから、見たところ一メートル半ぐらいになってぶら下がっていた……」 「け、警部さん、そ、そのロープ、ど、ど、どのへんにぶらさがっていたんですか」 「わたしはべつに、胸壁から下を|覗《のぞ》いてみたわけじゃありませんが、そういえば下から差す光線が、ロープの下部をほんのり染めていましたから、あれ、スイート・ルームの真上に当たっていたんじゃないですか」 「し、し、しかもそのロープはわれわれが四階から屋上へのぼっていったときには、見えなかったんですね」 「はあ、それをいま思い出したんですが……」 「わかりました。警部さん、そ、そ、それが犯人のトリックだったんです」 「と、おっしゃると……?」 「いやね、警部さん。わたしずっと昔、こういう推理小説を読んだことがありますよ。被害者が四階かなにかにいるところを犯人が絞め殺す。そしてそれを五階へ担ぎ上げ、被害者の部屋の真上の部屋へ運び込むんですね。その部屋の窓の外の廂には、警部さんのいまおっしゃったようなロープがぶらさがっている。そのロープの輪に被害者の体を押しこんで、キリキリ、ロープの限界まで|捻《ね》じて捻じて捻じあげる。そうすると犯人が手を放しても、ロープがキリキリ舞っているあいだは、被害者の死体は下に滑り落ちないわけです。その間犯人は|樋《とい》かなんかを伝って地上へ滑りおりる。そして屋内へ忍び込み、一階にいる探偵の部屋のドアをノックする。そして、その部屋へ踏み込んだせつな、ロープの|撚《よ》りがもとに戻って、死体が探偵の部屋のまえへ落ちてくる。そこで一同が大いに驚きあわて、四階の被害者の部屋を調べている隙に、五階へあがってロープを|外《はず》しておく。そういうトリックを使った小説なんですがね」  等々力元警部は|唖《あ》|然《ぜん》としたように、金田一耕助を凝視していたが、やがて大きく息を|弾《はず》ませると、 「金田一先生、じゃ、犯人はそのトリックを模倣したと……」 「警部さん、こう考えたらどうでしょう。本條直吉氏は泥酔のあげく隣のトイレへゲロを吐きに出ていった。そしてゲロを吐くのに無我夢中でいるところへ、犯人が背後よりしのびより、鈍器のようなものでぶん殴って昏倒させた。それをエレベーターで屋上へ担ぎあげ、いまいったような操作で直吉氏を逆さ吊りにしておいた。そして、また九階のスイート・ルームへかえってきた。と、まもなくロープの撚りがもとに戻って、直吉氏は九階の窓の外を|顛《てん》|落《らく》していったが、その直前に意識を回復し、悲鳴が虚空をつんざいた……と、すると、あのときスイート・ルームのなかにいただれにも、完全なアリバイはないんだということになりはしませんか」 「それを推理小説マニアの鉄也がやったと、おっしゃるんですか」 「ねえ、警部さん、ぼくはけさ法眼夫人からその写真と手紙を受けとったとき、はじめて眼のなかの埃がとれたような気がしたんです。ここに新しい恐喝が、はじまっているのではないかと気がついたんです。しかし、恐喝者が本條直吉でなかったことはたしかなようです。すると、犯人はまちがった男を殺したことになる。これ即ち愚者の犯罪ではないかと思いはじめたんです。そこへもってきて、いま警部さんが啓示してくだすったトリック、推理小説のトリックを模倣したとすると、これはいよいよ愚者の犯罪ですよね。だいいちああいう|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》なスライドとテープ、犯人がほんとうに賢明なら、あんな馬鹿なことはやりませんよ」 「金田一先生、もっとはっきりいってください。あなたはなにをいおうとしていらっしゃるんですか」 「じゃ、もっと別の角度から考えてみようじゃありませんか。それゃ世の中には他人の家庭を|攪《かく》|乱《らん》し、破壊することだけで悦に入り、|北《ほく》|叟《そ》|笑《え》んでいる悪魔のような魂をもった人間もいるかもしれません。しかし、たいてい恐喝者というものは、そこからなんらかの収穫をもぎとろうとするもんです。鉄也少年をユスったところで、いったいなにがえられるというんです。それに鉄也少年はあのときわれわれと一緒に、四階へ降りていきましたよ」 「と、おっしゃると……?」 「恐喝者のねらったのはもっと別の人物、もっとユスリがいのある人物、即ちこういう恐喝状で手ひどい打撃をうけ、しかも、恐喝者がいくらでも甘い汁の吸えそうな資力豊かな人物」 「法眼由香利……?」 「ならばこういう重大な手記や写真をわたしのところへ送ってよこさないでしょうねえ。もうひとりいるんじゃないですか。資力豊かでこういう恐喝で大ショックを受ける人物、しかも、あのときわれわれと一緒に四階へ降りずに、ひとりで屋上へのぼっていた人物……」 「法眼滋……?」  等々力元警部の声はささやくように低く、かつ著しくふるえていた。 「警部さん」  とつぜん金田一耕助はシャッキリと椅子の中で体を起こすと、烈々たる眼で相手を視ながら、 「法眼滋氏はいままでこのうえもなく善良な夫でした。このうえもなく妻を愛し、このうえもなく息子を誇りとしていました。しかし、そのひとがある日突然、こういう恐喝状を受け取ったとしたら……?」 「そ、それじゃ本條直吉を殺した犯人が、自分の殺した男の葬儀委員長をやったというんですか」  金田一耕助は暗い眼をして|頷《うなず》いた。 「しかし……しかし、鉄也にこういう脅迫状をよこしたのは……?」 「滋氏でしょう。あのひと以外には考えられませんね」  金田一耕助はこのうえもなく暗い眼をして、呻くように呟いた。 「いままでこのうえもなく愛し、このうえもなく誇りとしていたわが子が、わが子でなかったとしったとき、滋氏の憎悪と復讐心はまず鉄也君にむけられた。そうそう、ゆうべ『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』の佐川哲也君はこういってました。こんどの吉沢平吉殺しの犯人は、吉沢殺しだけが目的ではなく、その罪をあの少年に転嫁しようという、もう一つの|目《もく》|論《ろ》|見《み》をもっているんじゃないかと。警部さん、鉄也少年の書きとめておいた、その手記の末尾をごらんください。おまえは法眼家とは縁もゆかりもない人間なのだ。おまえはカタリだ。贋者だ。宿無しだ。地位も身分もない蛆虫みたいな存在だとありますが、それ少しおかしいと思いませんか」 「なるほど、これはおかしい。鉄也の父がだれにしろ、かれは由香利の息子である。と、いうことは法眼琢也の|曾《ひ》|孫《まご》である。法眼家と縁もゆかりもない人間だというのは不条理ですね」 「と、いうことは、そういう|恐喝状《きょうかつじょう》を書いたとき、筆者はことほどさように混乱していたということでしょうねえ。由香利におのれの子を生ませることのできなかったその男は、おのれこそ、法眼家とは縁もゆかりもない人間なのだという意識が、どこかに潜んでいたんじゃないでしょうか。いずれにしても法眼滋にそういう残忍な手紙を書かしめたのは、影にかくれた恐喝者の手記でしょうね。ある日、どこからともなく送られてきた手紙。それが法眼滋の性情を一変せしめた。仏が一転して鬼になり、悪魔と化した。かれは鉄也を殺人者に仕立てることによって、間接的には由香利に復讐しようとした。しかし、自分の妻をいまでも由香利と信じきっているらしいところをみると、滋を恐喝にかかった影の男、それが兵頭房太郎にしろだれにしろ、まだほんとのことはしらなかったんでしょうね」 「ほんとのこととは……?」 「警部さん、堪忍してください。これがきょう法眼夫人から送られてきた、写真と手紙がおさまっていた封筒なんですがね」  それは縦二〇センチ横一五センチくらいの茶色の封筒で、表には金田一耕助の住所と名前が、いわゆる水茎の跡もうるわしくしたためてある。 「金田一先生、これがなにか……?」 「裏を返してみてください。あのひとも覚悟はできているようです」  等々力元警部は裏をかえしてしばらくふしぎそうに、差出人の名前を見ていたが、とつぜん大きく眉がつりあがった。 「山内小雪……山内小雪、これはあの生首の男、山内敏男の妹にして妻だった女じゃありませんか。あの女まだ生きていたんですか」 「あのねえ、警部さん、法眼琢也先生の妾腹の子に生まれた山内小雪と、法眼琢也先生の孫として生まれた法眼由香利は、おないどしであったばかりか、瓜ふたつに生まれついていたんですね」 「それで……?」 「だから、病院坂のあの大惨劇以来、法眼由香利の役廻りを演じてきたのは、山内小雪のほうだったわけです」  そのとき卓上電話のベルがはげしく鳴り出さなかったら、元警部の怒りは爆発したことだろう。不承不承受話器を取りあげたが、 「金田一先生、あなたにですよ。相手は多門修君」  ぶっきら棒な調子である。金田一耕助は苦笑いしながら受話器を受け取ると、しばらく相手の話を聞いていたが、 「そう、やっぱりねえ、そんなに|酷《ひど》いのかい、……悪徳金融業者にひっかかってねえ……ああ、なるほど、恐喝でもやりかねまじき状態にあるというんだね、ああ、そう、よし、わかった。シュウちゃん、ここんところをよく聞いて頂戴。われわれはなるべく合法的手段に訴えて事件を解決したい。それゃ警察は組織にものをいわせて、|絨緞《じゅうたん》捜査であの晩の吉沢平吉の目撃者を発見し、それからひいて犯人のアジトを発見するかもしれない。しかし、われれはそれまで待っていられないんだ。なにしろテキさんは恐喝者を|屠《ほふ》って、|後《こう》|顧《こ》の|憂《うれ》いを断ったと思いこんでいるんだからね。だから、非合法手段でもなんでもいい、ひとつやっつけてみるか。君も大変だろうがよろしく頼む。もちろんおれも頃合いを見計らって駆け着けるがね、警部さんと一緒に。ああ、うむ、ところが、その警部さん、いまやご機嫌斜めで弱ってるんだ。なあに、それゃシュウちゃんなんかの|与《あずか》りしらぬところなんだがね。ああ、そう、じゃ、またのちほど」  金田一耕助はそこで受話器をおくと、改めて等々力元警部のほうへむきなおった。      四  角にある洋品店のまえでタクシーを降りた兵頭房太郎は、いくらかホロ酔い機嫌であったが、それでもあたりを警戒することは怠らなかった。尾行はなきやといま自動車の走ってきた道をそれとなく振り返ってみる。尾行はなさそうであった。時刻はすでに十二時になんなんとして、街は明るかったがあたり近所は寝しずまっている。  兵頭房太郎はさすがに今夜は葬式がえり、黒の背広に黒いネクタイという平凡ないでたちだが、左脇に大きな|嵩《かさ》|張《ば》った封筒を、後生大事にかかえこんでいる。けさうちを出るとき、かれはそんなものを持っていなかった。どこかで買物でもしてきたのであろうか。それとも|最《も》|寄《よ》りの駅のロッカーへでも預けてあったものを、時分やよしと取り出してきたのではあるまいか。  角の洋品店はすでにシャッターを下ろしているが、ショウ・ウインドウには|煌《こう》|々《こう》と照明が入っている。そこは花柳界やK・K・Kビル、クラブやバーが点在する場所とは、眼と鼻のあいだにあるのだけれど、おなじ赤坂でも房太郎のスタジオ・フサのあるあたりは、ちょっとその繁栄から取り残されたような淋しい場所になっている。  房太郎は洋品店の横の露地へ足を踏み入れるとき、なんとなくうしろを振り返ったが、 「ばかだなあ、おまえは。なにをそんなにビクビクしてんだ。相手はまだなんにも気づいちゃいねえんだ。いよいよ出番がきたというのに、いまからそんなにビクついてちゃ、てんでお話にならねえじゃねえか」  露地のなかには大谷石の|塀《へい》でかこまれた、ふつうの住宅が二軒並んでいる。そこで露地は突き当たりになっていて、そこを左へ曲がったところに、Studio Fusa と書いたネオンが、赤と紫の交互の色に点滅している。ちょっと|洒《しゃ》|落《れ》た洋館で、真向かいは表の洋品店の倉庫になっている。Studio Fusa の正面玄関は、コンクリートで練り固めた三段の階段を上がったところにあり、そこがちょっと気取った恰好のポーチになっている。房太郎は洋品店の倉庫の角を曲がり、そのポーチに眼をやったせつな、ギクッとしたように足をとめた。玄関のドアにもたれるようにして、だれかがポーチの門灯の下に立っている。  しかし、相手は反対に房太郎の姿を見ると、急いでポーチを駆けおりてこちらへやってきた。 「あら、先生、遅かったじゃない。どこをほっつき歩いてたのよう。あたしずいぶん待ってたのよお」 「なあんだ。チャコか。おまえこんなところでなにをしてたんだ」 「あら、いやだ、先生を待ってたんじゃない? ちかごろちっともお呼びがないので、チャコ心細くって……」  短いスカートに半袖のセーターを着て、赤いカーディガンに腕を通さずに、肩からひっかけているスタイルが、いかにも寒々とみえる。 「だって、おまえしってるだろ、おれが長く日本にいなかったってこと。ヨーロッパ各地を飛び歩いてきたんだから、お呼びがないもないじゃないか」 「だって、ご近所できいたら、帰ってきてからもう四、五日は経つんじゃないの。帰国したらいちばんに声をかけるって約束だったじゃない」 「それがさあ、そうはいかなくなってさあ」  まつわりつく女の腕を、うるさそうに振りほどきながら、房太郎はポーチの階段をのぼると、ポケットから鍵を出してドアを開いた。 「さあ、お帰り、今夜は駄目だよ」 「あら、先生、あたしをなかへ入れてくれないの」 「ああ、いま時分から仕事をする気はないね」 「お仕事でなくってもいいの。あたし今夜はうんと腕に|撚《よ》りをかけてサービスするわ」 「ありがと。だけど今夜のおれにはそんな気はないね。だいいちおれお葬式のかえりなんだぜ。せめて今夜ひと晩くらい、お精進でいなきゃ仏さんに悪いよ」 「そんなこといって、だれか綺麗なひとがなかに待ってんじゃない」 「ばかなこというもんじゃない。さあさ、今夜は帰ってちょうだい。なんだ、チャコ、おまえすっかり体が冷え切ってるじゃないか」 「だから、なかへ入れてっていってるのよ。あたしここを追っぱらわれると今夜どこへもいくところがないのよ」 「そう、それはお気の毒さま。だけどおれいまいったとおり、今夜はお世話になったひとのお|葬《とむら》いだ。ああ、そうか、ちょい待ち」  ポケットから紙入れを取り出すと、なかから千円紙幣を一枚引っ張り出したがちょっと考えたのちもう一枚奮発した。 「さあ、さあ、今夜はこれで引き取ってちょうだい。そのうちまた声をかけてあげるからさ」  女はそのあいだ首を伸ばして、ドアの内側をのぞいていたが、家のなかは森閑としてひとの気配はさらにない。女は憤ったような顔をして、男の手から二枚の千円紙幣をもぎとると、怒りと|屈辱《くつじょく》に頬を染めて、ポーチの階段を駆け降りると、小走りに倉庫の角を曲がっていった。  ヌード・モデルなのである。房太郎はこういう種類の女の過剰サービスのおかげで、女に不自由することはない。だから女房を持つなんておよそ馬鹿の|骨頂《こっちょう》のやることだと、かねがね豪語しているのだか……。  角の洋品店のところまでくるとチャコは歩調を|緩《ゆる》めた。相変わらず憤ったように肩をいからせていたが、心の中で考えている。 「変ねえ、女を待たせている気配はなかったみたい。だけどさっきたしかに家の中でひとの動く気配がしていたみたいだったけど……」  とつぜんチャコは口のなかで、 「泥棒……?」  しかし、彼女は引き返して、それを房太郎に注意してやるほどの、|親《しん》|切《せつ》|気《げ》は持ち合わせていなかったらしい。逆に急に怖くなってきたのか肩をすぼめると、タクシーを探して明るい往来を急ぎ足で立ち去った。  スタジオ・フサの正面玄関のドアのなかは、狭いタタキになっている。房太郎は用心ぶかく玄関のドアに鍵をかけると、一段あがった正面のドアを開いてスイッチをひねった。そこは六畳くらいの応接室になっている。この応接室には三方にドアがついており、ひとつはいま房太郎が入ってきたドアだか、正面と左側にもドアがついている。房太郎が左側のドアを開くと、そこに狭い廊下が走っている。  房太郎はいちいちスイッチをひねりながら、その廊下を奥へ進んだ。そこはかれの私生活の部分になっており、勝手口もその奥にある。勝手口のドアにも異常がないことをたしかめると、ダイニング・キチンの内部を調べ、寝室を|覗《のぞ》いた。房太郎は独身なのだけれど、ベッドはダブルになっている。房太郎は押し入れのなかを調べ、洋服ダンスのなかまで覗いた。  やっと安心ができたのか電気を消して、もとの応接室へかえってきた。正面のドアには鍵がかかっていたが、それを開くとそのむこうがわこそ、房太郎ご自慢のスタジオなのである。  そこに畳敷きにして十二畳はあるだろうか。四方は赤いビロードのカーテンにつつまれていて、天井にまでおなじようなカーテンが、ふんわりとした曲線を見せて張ってある。床にも真っ赤な|絨緞《じゅうたん》が敷き詰めてあり、正面はゆるやかなスロープをえがいて一段高くなっている、そこにもすべすべとしたビロード様の、色さまざまな絨緞が乱雑に投げ出してある。  その高くなっている場所こそ、ヌード・モデルがあるいは寝そべり、あるいは|腹《はら》|這《ば》い、あるいは斜めに腰をおろして、房太郎の注文どおりのポーズを作る神聖なベッドだろう。この真っ赤なスタジオは、女陰を連想させて|淫《いん》|靡《び》で|猥《わい》|褻《せつ》で官能的である。このスタジオこそ房太郎のいわゆる、 「女体の|醸《かも》し出す甘美な夢」  を創造する工房なのである。  房太郎もかつては一流のヌード写真家であった。しかし、この世界も競争が激しいし、新陳代謝は猛烈である。房太郎はちかごろ追われるものの焦りをどうしようもなくなっている。房太郎は|目《もっ》|下《か》落ち目なのである。そのうえ|性《た》|質《ち》のよくない金融業者から搾られている。  房太郎はスタジオの中央に突っ立って、かつてはご自慢であった部屋のたたずまいを見廻していたが、いまはすべてが|虚《むな》しく、コケ脅かしのように思えてならぬ。そういう心境を房太郎は|屠《ほふ》り落とすように、 「なあに、おれはまだこれからなのだ。もうひと旗もふた旗もあげてみせるぞ」  房太郎の行動は急に活発になってきた。スタジオの奥の左のカーテンをまくりあげると、カーテンのむこうにドアがある。ドアのむこうは暗室であった。  房太郎はスタジオの明りを消して暗室のスイッチをひねった。そこは四畳半ばかりの密室だが、そここそ房太郎のいわゆる、 「女体の醸し出す甘美な夢」  を、織りなすほんとうの工房なのである。そして、こういう密室こそある種の人間にとっては、屈強の陰謀の場になるのではないか。  房太郎は暗室のドアに鍵をかけたが、かれはいまある種の興奮にとらわれているらしく、その鍵孔に微妙な細工がほどこしてあって、鍵がほんとうに掛かっていないことを確かめる余裕を失っていた。  暗室のなかにはそれに必要な器具道具が、|一《いっ》|切《さい》揃っているのだが、なかに暗室に不似合いと思われるものが|堆《うずたか》く積み上げてある。古新聞である。  房太郎が暗室のなかへ入ってきて、まず一番にやったことといえば、そこにあるキャビネットの|抽《ひき》|斗《だし》の底から取り出した薄いゴム製の手袋を、ていねいに両手にはめたことである。衛生器具に使うような薄いゴム製品だから、これなら両手にはめていても、指先の感覚をそれほど奪われることはあるまい。  房太郎はていねいにそれを両手にはめると、つぎにやったことといえば、あの|嵩《かさ》|張《ば》った封筒から一枚の写真を取り出すことであった。それこそは金田一耕助が本條会館の温故知新館から紛失していることを指摘した、ビンちゃんこと山内敏男と法眼由香利との、あの強制結婚の記念写真ではないか。  房太郎は部屋の中央にある、デスクのうえのスイッチをひねった。|眩《まばゆ》いばかりの照明が、デスクの中央を浮き上がらせる。そこには複写用のカメラが適当の高さに固定してあった。房太郎はあの記念写真をカメラの下におくと、ファインダーを|覗《のぞ》きながら、写真の位置を訂正していたが、やがて満足がいったのかシャッターを切った。  つぎに房太郎がやったことは、卓上の写真を封筒に戻し、その代わり別の写真を取り出すことであった。その写真こそきょう昼間等々力元警部を驚かせた、あのビンちゃんの生首の写真である。それをさっきとおなじようにカメラの下に固定すると、ファインダーを覗きシャッターを切った。  房太郎はそのあと写真を封筒に戻し、カメラの中からフィルムを抜きとると、それに厳重な封をほどこしてそれらをガラクタ道具の一杯つまった抽斗の奥に|蔵《しま》いこんだ。  さて、そのつぎに房太郎のやったことといえば、ワイシャツのポケットから小さな手帳を取り出すことであった。その手帳のあるページにはギッチリ数字が書き込んである。 「まず三月二十九日の二十三面の下段と十六面の広告か」  房太郎の取り上げたのは東京人なら、大部分のひとが購読している新聞である。二十三面の下段は三行広告になっていて、そこに、 「山田法律事務所」  の広告が白抜きで印刷してある。かれはその中から「法」の一字を切り抜いた。そのおなじ日の十六面の広告に某眼鏡店の広告がある。かれはそこから「眼」の字を切り抜いた。それからまた手帳の数字を参照しながら切り取ったのは、滋養飲料水の「滋」という字である。もちろんそれらの活字の大きさは一定していないが、そんなことは房太郎にとって、いささかも|痛《つう》|痒《よう》を感じないらしい。  かれがこうしていちいち手帳の数字を参照しながら、活字を切り抜いているところをみると、あらかじめ今夜の作業の下工作は、数日まえから出来ていたらしい。それはずいぶん|辛《しん》|気《き》|臭《くさ》い仕事であった。何字かれは切り抜いたであろうか。腕時計を見るともう二時である。さすがに疲労を覚えたのか、 「やれ、やれ、今夜はこれくらいにしておこうか。なにもそう急ぐことはない」  思わず口に出して呟いたが、そのとたん背後に当たって声がした。 「そうおっしゃらずに、もっとお続けになったら……」  房太郎は|迂《う》|闊《かつ》千万にもドアを背にして、この辛気臭い仕事に熱中していたのだ。あなやとばかりに立ち上がろうとしたせつな、背後から|磐石《ばんじゃく》の力で|羽《は》|掻《が》い絞めに絞め上げられた。 「金田一先生も警部さんもお入りください。やっこさんそこのキャビネットの下から二番目の抽斗に、写真らしきものを突っ込みましたよ」  等々力元警部がそれを捜し出した。封筒の中から二枚の写真を取り出したとき、等々力大志の顔は怒りにふるえた。  金田一耕助はデスクのうえに散乱している、新聞の切り抜きをあれやこれやと並べていたが、やがてニコリともせず等々力元警部をふりかえり、冷たい声で呼びかけた。 「警部さん、読んでごらんなさい。これがこの男の綴ろうとした文章でしょう」 「法」「眼」「滋」「よ」「お前は」「間違った」「男を」「殺害」「したのだ」「昨年の秋」「お前」「に」「これと」「同様の」「手紙」「と」「写真」「を」「送ったのは」「本」「條」「直」「吉」「ではなかった」「のだ」「お前は」「いまや」「殺人」「者」「なのだ」「それ」「だけに」「要求」「額」「は」「倍加」「する」「で」「あろう」  多門修に|羽《は》|掻《が》い絞めにされた兵頭房太郎は、はじめのうちこそ必死となってもがいていたが、等々力元警部がその大小不揃いの活字の羅列を、口に出して読んでいくのを聞いているうちにいつかぐったりとなっていた。      五  法眼滋はいまや虚脱放心状態である。滋はいまや打ちのめされ、ノックアウトされたボクサーのように、精神も|朦《もう》|朧《ろう》としている。では、なにが滋をかくまでノックアウトしたのか、それはいうまでもなく、いまかれのまえに繰りひろげられている一通の手紙である。それはあきらかに新聞かなにかに印刷された、大小不揃いの活字の文字から切り抜いて台紙に|貼《は》りまぜた、それ自体がおぞましい形態なのだが、その文面はさらにまがまがしい。 [#ここから1字下げ] 法眼滋よ お前は間違った男を殺害したのだ 昨年の秋お前にこれと同様の手紙と写真を送ったのは本條直吉ではなかったのだ お前はいまや殺人者なのだ それだけに要求額は倍加するであろう このまえおれは差し当たり百万円を要求したが 今度は二百万円ということにしよう このまえは金銭授受の時期と場所を明記しなかったが 今度はハッキリ明示しておこう  場所 本條会館屋上  時日 四月二十三日午後十一時 お前は目下本條直吉亡き後の本條会館の善後策に忙殺されている身分だから その時日に指定の場所へ姿を現わしても 誰も怪しむものはないであろうし おれまた然りだ お前は年に何回かおれに二百万円を支払うことにより永遠の安全を保証されるのだ 銘記せよ お前は殺人者なのだ それも二重殺人を犯したのだ ロープのトリックはおれには通用せぬものと思え では当日指定の場所で会おう 余計なことは考えるな 念のためにこの前同様写真を二枚同封しておこう [#ここで字下げ終わり]  法眼滋がこういう種類の活字の貼りまぜ手紙を受けとったのは、このたびがはじめてではない。  忘れもしない、去年の十月十二日の夕刻、茅場町にある五十嵐産業の社長室へ配達された数通の郵便物のなかに、奇妙な上書きの手紙が一通あった。宛名の文字を一字一画、定規とコンパスを使って書いたのではないかと思われるような、規格正しいといえば規格正しいが、いやにごていねいな封書であった。差出人の名前はなかった。  ちょうど月に一回定期的に、福岡にある九州支社へ出張するまぎわだったので、滋はそれをほかの数通の郵便物といっしょに、無造作に旅行|鞄《かばん》のなかへ詰め込んだ。縦二〇センチ、横一五センチくらいの粗悪で平凡な茶色の封筒だったが、なにか固い手触りが、写真でも入っているのではないかと思わせた。そういえば封筒の表にこれまた定規とコンパスを使って書いたのではないかと思われる、規格正しいていねいな文字で、二つ折り厳禁と朱書きがしてある。どうせダイレクト・メールの|類《たぐい》であろうと滋はタカをくくっていた。  茅場町から羽田までは運転手が送ってくれた。秘書はついていなかった。月に一回定期的な出張とはいえ、子供の使いでも足りる程度の簡単な仕事である。秘書を必要としないゆえんだが、それがかれに解放感を与え、月にいちどのこの出張を、心中ひそかに楽しみにしている。と、いって滋は浮気をしようというのではない。かれは由香利と結婚して以来、いちども浮気をしたことはない。ことほどさようにかれは由香利を愛し、家庭に満足を覚える以上に誇りを持っていた。  空港のロビーから由香利に電話をかけた。旅行するときはいつもそうする習慣になっている。機内には顔見識りの人物が二、三人いた。かれは滋の席へ挨拶にきたが、それはいたって儀礼的なものだったから、滋はすぐにひとりになれた。飛行機が離陸するとかれはゆっくりシートにくつろいで、郵便物を取り出そうとしてバッグのチャックを開いたが、そのまえにいっしょに詰め込んできた週刊誌が目についたので、そのほうを取り出して読みはじめた。  かれの手にする週刊誌はどちらかといえばお硬いほうである。かれは芸能関係の週刊誌にはほとんど興味を示さなかった。ちかごろは硬派の週刊誌にもセンセーショナルな見出しが多いが、そのなかにちょっと気になる表題があった。滋はその見出しにつられて記事を読んだが、読み終わるとなんだこんなことかと生ま|欠伸《あ く び》をかみころした。  週刊誌を読んでいるうちに、かれの郵便物に対する関心は薄れてしまった。かれの名前でくる郵便物に緊急を要する通信があるはずがない。大事な手紙はみんな妻宛てにくるのである。かれは少し眠ろうと思った。眠ろうと思えばいつどこででも眠れる習癖を身につけている。あるひとはそれを見かけによらぬ豪胆な性格と評したが、べつのある人物は、なあに、髪結いの亭主的感じの鈍さなのさと酷評した。どちらの批評もかれの耳に入っていたが、いっこう気にもとめぬところは、見かけによらぬ豪胆さなのか、それとも髪結いの亭主的感じの鈍さなのか。  眼が覚めると美しい北九州の夜景が眼下に広がっていた。空港には九州支社の幹部がふたり出迎えにきていた。いつもとおなじことである。滋はふたりを誘ってホテルへいくと、いささか遅い夜食をしたためながら用談をすませた。用談がすむと明日のスケジュールについて打ち合わせた。スケジュールといっても九州方面のお得意さんをご招待してのゴルフである。  九州駐在の二人の幹部が引き揚げていったのは、もうかれこれ十一時であった。滋は自分の部屋へ引き取ると、バスを使おうとバッグを開いたが、そのとき眼についたのは数通の郵便物である。かれはそれをベッドのうえに投げ出しておいてバスを使った。バスから出るとパジャマのまま郵便物のなかの一通を取り上げた。さいわいかたわらの卓上には|鋏《はさみ》があった。  滋は鋏を使って一通一通ていねいに封を切っていったが、どれもこれも愚にもつかぬ種類のものばかりであった。最後に取り上げたのが、あの定規とコンパスを使って書いたのではないかと思われる、規格正しい上書きの封書である。滋は気のない顔色で鋏を使った。  なかから出てきたのは鼠色の厚紙が二枚である。その二枚の厚紙のあいだに写真らしきものが|挟《はさ》まれている。写真のほかになにやら新聞の活字の切り抜きを、ベタベタと貼りつけた手紙らしきものが入っている。  滋はまずその写真の一枚に眼をやった。それはあきらかに結婚記念の写真らしかった。金屏風のまえに男と女がいる。男は黒紋付きの羽織袴に威儀を正しているが、あきらかに借り着とみえて|裄《ゆき》|丈《たけ》があっていない。それにそうとう行儀の悪い花婿とみえて、いささか前はだけになった|襟《えり》|元《もと》から首筋のところまでビッシリ密生している胸毛がのぞいているのが、なんとなく猥せつである。裄のあわない袖口からのぞいている二本の腕は丸太ン棒のようで、それもそうとう毛深いようだ。  顔はいままで全然見たことのない男だ。縮れた髪を長くのばし、顔中ヒゲで埋まっている。いや、ヒゲのなかから顔が出ていると形容したほうが正しいかもしれぬ。まるでライオンのような顔だが表情もライオンみたいに|精《せい》|悍《かん》で、しかもいくらか|微《び》|醺《くん》をおびているのか、ニタリと笑ったその口もとが、来たるべき快楽を予想して、舌なめずりをしているようにも受け取れる。身長は一メートル七、八〇というところか、袴をはいた胴まわりの太さといい、黒紋付きの肩幅の広さ、少しはだけぎみの胸板の厚さ、かてて加えて袖口からニューッとはみ出している丸太ン棒のような腕といい、とにかく|獰《どう》|猛《もう》な面構えをした花婿さんだ。  滋はつぎに花嫁さんのほうに眼を移した。大振袖に金糸銀糸の派手な|裾《すそ》模様の裾をひろげて、花婿さんのそばに腰をおろしたその花嫁さんは、つつましく両手をまえに合わせて、視線をカメラのほうにむけているが、無表情ながらもその瞳は、ものに酔ったように浮わずっている。滋はふしぎそうにしばらく角かくしをしたその顔を凝視していたが、とつぜんその眼が大きく見開かれたのは、まえに重ねた花嫁の両手の左の指に、視線がいったからである。花嫁は左の薬指に大きなダイヤの指輪をはめている。  滋はゴクリと生唾をのみこむと、あわててかたわらの卓上を見まわした。さいわい虫眼鏡がそこにあった。滋はそれでダイヤの指輪を拡大してみた。一カラットほどのダイヤを中心に、小粒のダイヤをハート型にちりばめたその指輪をどうして滋が忘れようか。いまから何十年かまえ、アメリカへ留学していた滋が帰国するとき、由香利へのプレゼントとしてむこうから買って来たもので、由香利はいまでもときどきそれを指にはめているではないか。 「これ、あなたからはじめていただいたプレゼントよ、大事にしましょうね」  由香利はいつかそういった。  滋はおそらく|鬘《かつら》だろうが文金高島田に角かくしというその花嫁の顔を、もういちどしげしげと|視《み》|詰《つ》めているうちに、また生唾をのみこむと、あわててその写真を裏返してみた。と、そのとたんつぎのようなまがまがしい文字が、飛び込むように滋の網膜のなかへ入ってきた。 [#ここから1字下げ] 昭和二十八年八月二十八日の夜 病院坂の首縊りの家にて撮影 カメラ 本條直吉 新郎 ビンちゃんこと山内敏男 二十六歳 新婦 法眼由香利 二十二歳 尚 この記念撮影の直後別室にて 新郎新婦のあいだに濃厚なる新枕が交わされたる事 本條直吉の証言により明らかなり 念の為ここに付加えおくものとす 本條徳兵衛誌是 [#ここで字下げ終わり]  大小不揃いの切り抜き文字が、キャビネ型の写真の裏一杯に、ベタベタと貼りつけてある。 「尚 この記念撮影の直後別室にて 新郎新婦のあいだに濃厚なる新枕が交わされたる事 本條直吉の証言により明らかなり」  という、おぞましい活字の貼りまぜ文字が、かれの名状すべからざる怒りの火に油を注いだ。滋もかれの妻由香利が結婚以前に何人かの男と肉体的交渉を持っていたらしいことはしっている。げんに自分などもそのひとりであった。それらのことはすべて水に流すつもりであったが、いや、げんにきょうがきょうまでそうしてきたが、いまこのようにおぞましい写真を眼のまえにつきつけられると、|腸《はらわた》の捻じきれるような怒りを覚えるのである。  いや、それは単なる怒りではない。嫉妬がそれに輪をかけてかれの胸をかきむしるのだ。滋は自分の肉体に劣等感を持っている。由香利が一メートル六四あるのに、かれは一メートル六二しかない。由香利とはじめて肉体交渉をもったころ、かれはただブクブクふとった、豚のような存在でしかなかった。行為の最中に由香利からはげしいことばで|叱《しっ》|咤《た》されたことを憶えている。 「なにをまごまごしているのよう。男なら男らしく、もっと|逞《たくま》しくなるものよう」  そういう由香利はたけだけしかった。  この男なら……と、滋は憎悪と嫉妬に狂ったような眼を、写真の花婿の身長、肩幅、厚い胸板、さらに丸太ン棒のように太い両腕にむけると、この男ならさぞ|逞《たくま》しくたけだけしかったであろう。滋はいつか頭のなかでその男を裸にしていた。首筋までビッシリ埋めた|羆《ひぐま》のような密毛は、若かりし日の由香利をどのように熱狂させたことであろう。  それにしてもこの男はその後どうしたのであろうかと、滋はあわてて手紙らしきものを手に取りあげようとしたとき、もう一枚写真があることに気がついた。その写真を取り上げて正視したとき、滋はおもわず悲鳴をあげて顔をそむけた。やがて気を取りなおして、おそるおそる写真のおもてに視線を戻した。  生首の写真であった。画面一杯に拡大されているのは、風鈴のように宙にぶら下げられた生首である。しかも、それは明らかにビンちゃんこと山内敏男なるヒゲ面男の生首ではないか。滋はあわてて結婚記念写真と比較してみた。もう間違いはない。明らかに文金高島田の由香利をそばにひかえさせて、ニタリと不敵な笑みを浮かべているヒゲ面男の世にも|悽《せい》|惨《さん》な生首である。  最初の恐怖とおぞましさがしだいに鎮静していくにつれ、滋の胸に強い好奇心が頭をもたげてきた。虫眼鏡でその写真の細部を拡大してみた。|拵《こしら》えものではないかと疑ったが、拡大鏡の示すところはそうではなさそうであった。それにしてもこれがなにを意味することなのかと、滋はあわてて写真の裏面に眼をやった。と、そこにもおぞましい印刷文字の切り抜きが、ベタベタと一面に貼りつけてある。 [#ここから1字下げ] 昭和二十八年九月二十日深更 病院坂の首縊りの家で発見されたビンちゃんこと山内敏男の生首 但し山内敏男が殺害され 生首を切断されたるはその二日以前 即ち九月十八日の夜なるべしということ 捜査当局の活躍にて明らかにされたり この生首の撮影者本條徳兵衛為念誌是 [#ここで字下げ終わり]  滋はいそいで結婚記念の写真の裏面に眼を走らせた。由香利がビンちゃんこと山内敏男なるヒゲ面男と、病院坂の首縊りの家で、結婚記念の写真を撮影したのは、昭和二十八年八月二十八日とある。それから約二十日後におなじ病院坂の首縊りの家で、このような大惨劇が演じられたとしたら、二人のあいだにどのような|葛《かっ》|藤《とう》と|破《は》|綻《たん》があったのであろうか。  そういえば昭和二十八年の秋、由香利と教会で式を挙げ、その夜アメリカの軍用機でロサンゼルスへ発ったのだが、むこうへ落ち着いてからしばらく経って、病院坂の法眼家の空家で、なにか事件があったらしいことを風の便りに聞いたことがある。滋の憶えているのは病院坂の法眼家が空家になっているのをよいことにして、よからぬ|輩《やから》がそこを根城として、なにか悪事を企んでいるうちに、仲間のあいだにトラブルが生じて、殺人事件に発展していったらしいということであった。  ロスでそういう|噂《うわさ》をきいたとき、由香利は|歯《し》|牙《が》にもかけなかったし、滋も問題にしなかった。ことによからぬ輩というのがまだ下っ端のジャズの連中だときいたとき、自分たちの住む世界とあまりにもかけ離れていると、滋はいよいよ問題にもしなかった。  しかし、いまこの二枚の写真をつきつけられ、ことにその裏書きを読むにおよんで、滋の心に強くひっかかるものがあった。即ち、病院坂の首縊りの家で生首の撮影された日が、昭和二十八年九月二十日だということである。若いときから滋は日記をつける習慣を持たなかったが、自分の結婚記念日くらいは憶えている。それは忘れもしない昭和二十八年九月二十日であった。  滋は当時を追想してみようと思ったが、そのまえにかれの注意を強くひいた辞句があった。その生首の写真の裏面に貼りつけられた本條徳兵衛の覚え書きの一節である。 「但し山内敏男が殺害され、生首を切断されたるはその二日以前、九月十八日の夜なるべしということ、捜査当局の活躍にて明らかにされたり」  その九月十八日なら由香利はまだ日本、いや、この東京にいたはずである。当時の|不《ふ》|羈《き》|奔《ほん》|放《ぽう》でたけだけしかった由香利の性情を思い起こして、滋は名状すべからざる戦慄を背筋におぼえずにいられなかったが、それにしても気になるのは、二枚の写真に添えられた奇妙な手紙である。印刷物からでも切り抜いたらしい、大小不揃いの活字の文字を、ベタベタと貼りつけてある十数枚にも及ぶその便箋は、それ自体ゴワゴワと波打っており、見るからに身の毛もよだつほどうとましくおぞましく、それを読むにはそうとうの勇気を必要としたが、滋はとうとうその勇気を振り絞った。 「法眼滋よ」  と、その文章は号数の揃わぬ活字の羅列からはじまっており、それはつぎのようにつづいていた。      六 [#ここから1字下げ] 法眼滋よ ここに同封された二枚の写真とその裏面に書かれた解説によって お前は過去二十年間法眼家において 盲人扱いを受けてきたことを知ることが出来るであろう お前の妻の由香利という女が若き頃 いかに不きほんぽう無軌道無節操な女にて いろんな男と肉体的交渉を持ち 情を通じていたことを お前もいまにして思い起こすことができるであろう おまえもその一人だったのだから 法眼滋よ 昭和二十八年八月二十八日の夜 病院坂の首縊りの家において 現在のお前の妻由香利と祝言の盃をあげたビンちゃんこと山内敏男という男は当時の下等なジャズ・コンボ「怒れる海賊たち」すなわち「アングリー・パイレーツ」のリーダーだったのだ ここに貼付したのは事件発覚後 昭和二十八年九月二十一日の毎朝新聞の夕刊の紙面に掲載された山内敏男の写真なのだ [#ここで字下げ終わり]  そして、そこには新聞から切り抜いたらしい、山内敏男なる人物の全身像が貼り付けてあったが、それは滋の肉体的劣等感と、劣等感からくる胸を掻きむしられるような嫉妬を扇動する以外のなにものでもなかった。  そこに写っているビンちゃんこと山内敏男は、海賊のシンボル・マークであるところの、大腿骨のぶっちがいのうえに、頭蓋骨を白く浮き彫りにした提督帽を長髪の頭のうえにのっけ、トランペットを|誇《ほこ》らしげに奏しているが、ほかに身につけているものといえば、タイツのようにピッタリ肉に食い入るズボンのほかに長靴だけ。上半身はこれ見よがしに|臍《へそ》のところまで丸裸で、その広い肩幅といい、厚い胸板といい、太い胴廻りといい、その|逞《たくま》しさもさることながら、滋の眼を強くうばったのは、首筋から臍のあたりまでビッシリ埋めた密毛と、タイツのように肉に食い入るズボンの股間のふくらみである。 [#ここから1字下げ] 法眼滋よ これが山内敏男のご自慢のスタイルだったのだ 山内敏男にはサムソン野郎のビンちゃんというアダ名があった そのサムソンのような怪力と |羆《ひぐま》のような密毛の肌触りが多くの浮気女を魅了し 自ら進んでサムソン野郎の腕に抱かれ 強烈なエクスタシーのなかに|悶《もん》|絶《ぜつ》した お前の妻由香利などもその一人なのだ 昭和二十八年八月二十八日の夜 病院坂の首縊りの家で戯れに祝言のマネ事をした由香利が その直後サムソン野郎の腕に抱かれて いかに大恐悦をしたかは本條徳兵衛の手記によっても明らかである 法眼滋よ お前の妻の由香利はその一夜の交渉によって すっかりサムソンの肉体のトリコにされたのだ その後もたびたび不倫の交渉をつづけているうちに 由香利はますますサムソンの肉体的魅力の泥沼におちいっていったのだ しかしお前の妻の由香利はお前もしってのとおり 誇り高き女である しかもデリラのごとく|奸《かん》|知《ち》にたけた淫婦である サムソンの肉体的魅力を断ち切るには その肉体を滅ぼすよりほかに途はないことを覚るにいたった しかも|恰《あだか》もよし昭和二十八年九月二十日由香利はお前と結婚し アメリカへ旅立つことに決定していた その二日まえ由香利はデリラのごとき甘言をもって サムソンを因縁深き病院坂の首縊りの家へおびき出し 遂にこれを殺害したばかりか その生首を切断し風鈴のごとく宙にブラ下げておいたのだ 法眼滋よ もう一度由香利と敏男の結婚式の記念写真を熟視せよ そこに風鈴がブラ下がっていることに気がつくであろう 風鈴は法眼家にとって因縁浅からざるものであることをお前もしっているであろう かくて由香利は過去にまつわる愛憎のすべてに決着をつけ その二日の後なに食わぬ顔をしてお前と結婚しアメリカへ旅立ったのだ いや アメリカへ逃避したのだ しかし 天は由香利の悪業と鉄面皮をそのまま見逃し給わなかった お前と結婚したとき由香利はすでに山内敏男のタネを身ごもっていたのだ それがアメリカで生まれた鉄也なのだ 法眼滋よ お前にしてわが言を疑うならば この二枚の写真のヒゲ男と鉄也の顔を比較してみよ そこに著しい相似を発見するであろう |若《も》しそれ鉄也がヒゲを伸ばすならばその相似は更に顕著となるであろう 鉄也はお前の子ではない サムソン野郎のビンちゃんこと山内敏男の子供なのだ お前は法眼家においてタネ馬にもなれなかった男だ お前は法眼家とは縁もユカリもない男だ お前は宿無しだ カタリだ 風来坊だ 地位も身分もない|蛆《うじ》虫みたいな存在なのだ 法眼滋よ だがケンカは止そう ひとつ妥協しようではないか おれはお前以外の誰にもこの秘密を語ろうとは思わない タトエにも魚心あれば水心というではないか 差し当たりこの秘密厳守の代償として百万円を要求しよう お前は年に何回かおれに百万円を支払うことによって永遠に現在の地位にとどまることができるのだ 安い物ではないか では金の受渡しの場所と日時は後日指定しよう [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]無名氏より  この悪意にみちたまがまがしい恐喝状を読み終わった瞬間、法眼滋は気が狂ったのである。かれはいままで付き合い以外に自ら求めてアルコールに親しんだことはいちどもない。しかし、その晩ばかりはよっぽどボーイを呼んで、強い酒を求めようかと、いくどかベルを押しかけたが、そのつど強い自制心で自分を叱った。いまこそ冷静であるべきである。取り乱しているところを絶対に余人にしられるべきではない。そういう意味でこれが九州のホテルの一室であったことを、心の底から感謝せずにはいられなかった。  さすがにその夜かれは|輾《てん》|転《てん》反側して眠れなかった。はじめは強い怒りがかれの|腸《はらわた》を引き裂いた。嫉妬が胸を掻きむしった。しかし、その怒りや嫉妬が鎮静すると、いいしれぬ悲しみと孤独感がかれの全身をくるんだ。鉄也が自分の子供ではないということである。滋にとってこれほどショッキングな暴露はなかった。  鉄也こそ滋にとっては唯一の誇りであった。自分は無能かもしれないけれど、鉄也のような秀れた子供を妻に生ませたではないか。鉄也は体格もよく、運動神経も発達しており、頭のよいことも抜群であった。しかも、素直で誠実でだれからも愛され、信頼される性格だった。滋にとっては鉄也こそ掌中の珠であり、眼の中へ入れても痛くないほどの存在だった。  その鉄也が自分の子でなく下等なジャズ屋の|倅《せがれ》であったとは!  しかも、滋はこの悪意にみちた中傷を疑うわけにはいかなかった。いま眼のまえに並んでいる二枚の写真と、鉄也の面影を思いくらべると、その相似はあまりにも顕著である。もしそれ恐喝状にあるとおり、鉄也がヒゲを伸ばすなら、その相似はさらに驚くべきものになるであろう。滋は無毛症ではなかったけれど、それに近いすべすべとした肌をしているのに、鉄也は首筋の付け根から|臍《へそ》の下まで、羆のような体毛におおわれている。  その晩、ほとんど眠らなかったにもかかわらず、翌日かれはゴルフのコンペへ出た。スコアもふだんと変わらなかったが、そのうちに突発事故が起きた。ティー・ショットを打った拍子にボールがバウンドして滋の左の|踝《くるぶし》を直撃した。滋はその場に倒れた。これは滋が企んでやったことではないが、骨に軽いヒビが入った滋はそれを帰京を三日延ばす口実にした。毎晩由香利と電話で話したが、その優しさは以前とちっとも変わりはなかった。  帰京するとまもなく、かれは|牛《うし》|込《ごめ》の貸しマンションの一室を変名で借りた。福岡の商社マンで週に一回上京するものだが、ビジネス・ホテルよりこっちのほうが都合がよい、宿泊することはないが、週に一回やってきて、二、三時間部屋へ閉じこもって、あちこちに連絡を取りたいという口実であった。名前も|逸見篤《はやみあつし》と名乗り、濃い口ヒゲと顎ヒゲ、げじげじのような太い付け眉毛で変装していた。  こうして悪鬼と化身した法眼滋の世にも|惨《みじ》めで孤独な二重生活がはじまったのである。      七  社長とはいえ重要事項は全部会長代行であるところの由香利が決裁するので、滋が一週間に一回、一回に二時間くらい、ひとにしられぬ秘密の時間を持つことは、それほど至難なわざではなかった。  滋は日も曜日も時間もきめなかった。あるときはそれが火曜日の午前中だったり、あるときは木曜日の午後だったり、あるときは金曜日の夜だったりした。はじめのうちかれは自分の行動に|怯《おび》えていた。隣近所の住人や管理人の疑惑を買いはしないかということについてである。しかし、慣れてくるとおいおいかれは安心もし大胆にもなった。かれはいま改めて都会人の無関心ということについて思いしらされ、自分の行動に自信を持ちはじめたが、それと同時に都会のなかの孤独ということを思いしらされ、それがかれに世にも惨めな絶望感を味わわせるのである。  しかし、かれははじめのうち、自分がなにをしようとしているのかよくわからなかった。いざという場合に備えて逸見篤という名のもとに、牛込にアジトを用意するいっぽう、法眼滋としては恐喝者の第二弾をひそかに待ちうけていたのである。恐喝者はさしあたり百万円を要求してきている。百万円の秘密支出はかれにとって不可能ではなく、またそれほど苦痛ではなかった。恐喝者はいっている。 「お前は年に何回かおれに百万円を支払うことによって永遠に現在の地位にとどまることができるのだ。安い物ではないか。では金の受渡しの場所と日時は後日指定しよう」  だが、第二弾はなかなかやって来なかった。ひょっとすると恐喝状の内容が真実であるということを、自分がたしかめるまでの余裕を与えようというのではないか。だからこそ滋は牛込にアジトを構えたのである。  逸見篤の名前でアジトをかまえた法眼滋が、まずいちばんにやったことは、昭和二十八年の事件を調査することであった。かれは古本屋をまわってやっとその年の新聞の縮刷版を手に入れることができた。その縮刷版ならば茅場町の本社の図書館にもあるはずなのだが、かれはこの調査を法眼滋としてではなく、あくまで逸見篤としてやりたかったのだ。その縮刷版の昭和二十八年九月二十一日以降のページを繰っていくうちに、それがいかに当時世間を騒がせた大事件であるかをしるにいたった。その新聞にはさすがに生首の写真は出ていなかったが、その代わり生前の山内敏男の写真が掲載されていた。その写真は恐喝状に貼付してあったのとおなじ写真であり、恐喝者はこの新聞から切り抜いたのであろう。  かれはそのほかこの一冊の縮刷版からいろんな事実をしることが出来た。山内敏男には小雪というぜんぜん血のつながっていない妹があり、惨劇のあった当時ふたりが夫婦関係にあったことをしった。しかも、小雪と由香利の関係をしるにいたって、滋はじっさい|愕《がく》|然《ぜん》とせざるをえなかった。かれはいままでだれからもそんな話をきいたことがない。新聞によると小雪は法眼琢也の妾腹の子とある。してみると由香利にとっては叔母に当たるわけだが、そういえばいつか由香利がいってたっけ。じぶんにおばさんがあるんだって、そんなバカなことあるって。あれはいつのことだったっけ。  新聞で見ると小雪という娘は由香利とおない年だったらしい。そして兄ともたのむ敏男といつか夫婦関係を結んでいたが、敏男の女関係があまり無軌道なので、ついにこれを殺害し、いまわのきわの敏男の遺言によってその生首を切り落とし、風鈴のごとく宙にブラ下げ、自分は自殺すると称して姿をくらましたが、その遺体はどこからも発見されなかったらしい。  ところが恐喝者の手記によると、由香利も敏男の肉体の讃美者のひとりであり、その肉体の誘惑から逃れるためにかれを殺害したとある。するとおない年の叔母と|姪《めい》とのあいだでひとりの男を奪いあい、そのあげくの果てがこういう|血腥《ちなまぐさ》い大惨劇に発展していったのであろうか。  かれは高校を出るとすぐアメリカの大学へやられた。かれはむこうで女をしった。一年何か月ぶりかに帰国してみると、由香利の成長は著しかった。それもそのはず由香利のほうがふたつ年長であり、幼時から|不《ふ》|羈《き》|奔《ほん》|放《ぽう》、怖れをしらぬ性格であった。一年とちょっと離れているうちに、彼女はすでに何人かの男をしっているらしかった。滋はおのれのことを棚にあげ、嫉妬に胸がかきむしられるようであった。法眼家のひとり娘であるところの由香利と、五十嵐家の末孫である自分は将来夫婦になるものと、周囲できめてかかっているように滋は思いこんでいた。光枝にそう吹き込まれていたのである。  忘れもしないあれは昭和二十八年の八月中旬のことだった。日までよく憶えていないが、十二、三日のことではなかったろうか。滋がおずおず切り出すと、由香利はさんざんかれを|愚《ぐ》|弄《ろう》し、罵倒しながらいっぽうでは露骨な肢態や言葉で挑発してきた。結局抱きあったあとは由香利のほうがはるかに積極的で、能動的で、逞しく、かつたけだけしかった。  それでいてことが終わると、由香利はいけしゃあしゃあといったものである。 「あなた、力ずくであたしを犯したのよ。あたしは犯された女なのよ。責任をとっていただかなきゃ。今後絶対にほかの女に手を出しちゃいやよ」  この言葉ほど滋をよろこばせたものはない。かれは大いに男性としての責任を感じ、ひと息いれたのちもういちど|挑《いど》んでまぐわった。それからのちは毎日のように抱き合った。由香利は二つ年長者であるところの権威を発揮し、主導権を握るのが好きだった。  それから……?  それからどうしたのか。そうだ、それからとつぜん彼女は|失《しっ》|踪《そう》したのだ。滋の幸福は一週間か十日くらいしかつづかなかったから、あれは八月二十日前後だったろう。由香利がとつぜんかれのもとから身をくらましたのだ。そうだ、はじめて由香利と抱き合ってから一週間ほどたったある日、軽井沢の別荘へどこからか電話がかかってきたのだ。由香利はのちにそれを東京のおばあちゃまからだといいくるめていたが、そうだ、思い出した。その電話のあとで由香利がいったのだ。 「おばさんからの電話よ。あたしにおばさんがあるんだって。こんなバカな話って聞いたことある」  そういって由香利はケラケラ笑っていたっけ。そのおばさんというのが小雪という女だったにちがいない。そのとき由香利はサムソン野郎のビンちゃんこと山内敏男なる男に会ったのだろう。そして……そして。……  滋はいそいでアジトへ持ち込んでいる、あの忌まわしき結婚記念写真の裏を返してみた。 [#ここから2字下げ] 昭和二十八年八月二十八日の夜、病院坂の首縊りの家にて撮影 [#ここで字下げ終わり]  そうだ、なにもかも符節があう。由香利はあのとき十日ほど姿をくらましていたのだ。十日ほどしてかえって来たとき、由香利はいたく疲労|困《こん》|憊《ぱい》していた。その晩、滋は由香利の部屋を訪れてさっそく|挑《いど》んだが|態《てい》よくはねつけられた。いやその晩ばかりではない。九月二十日の午後教会で式をあげ、その夜アメリカの軍用機でロスへ飛び、むこうの知人の家で落ちつくまで、由香利は絶対に体を許そうとしなかった。それでいて結婚の話はトントン拍子に進行した。由香利も同意し、それまで煮え切らなかった祖母の弥生も積極的だった。そうだ、あの時分のことだった。ある日、自分がホテルへ誘うと、由香利がこういう意味のことをいったのを憶えている。 「滋さん、あなたの気持ちはよくわかっているのよ、だけどあたしそのまえに結着をつけておきたいことがあるのよ、結着をね」  そのところを恐喝者はこう指摘している。 [#ここから1字下げ] お前の妻の由香利はその一夜の交渉によって すっかりサムソンの肉体のトリコにされたのだ その後もたびたび不倫の交渉をつづけているうちに 由香利はますますサムソンの肉体的魅力の泥沼におちいっていったのだ しかしお前の妻の由香利はお前もしってのとおり 誇り高き女である しかもデリラのごとく奸知にたけた淫婦である サムソンの肉体的魅力を断ち切るには その肉体を滅ぼすよりほかに途はないことを覚るにいたった [#ここで字下げ終わり]  だから滋との結婚式の二日まえ、因縁浅からざる病院坂の首縊りの家へおびき出し、ついにこれを殺害したのだと恐喝者は|糾弾《きゅうだん》している。  滋は身ぶるいを禁じえなかったが、それについてロスではじめて抱き合ったときの由香利の姿態を回想してみた。はじめそれは生ける|屍《しかばね》を抱くように味気ないものだった。なぜそうなのかと詰問すると、結婚というものは女を変えるものである。以前はアソビだったけれど、これからは神聖な儀式なのだから、あなたもいつまでも子供っぽい好奇心を持たないで、これからは旦那様として妻のあたしを愛してほしい。……  あれは殺人という残虐行為が一時的に彼女から、性感というものを奪っていたのか。しかし、夜毎そういうことを繰り返しているうちに、しだいに彼女がたけだけしさを取り戻していったのは、ショックがおいおい薄れていったせいだろうか。しかし、彼女はもう二度と主導権をとろうとはしなかった。たまに滋が要求しても、彼女は頑として応じなかった。 「妻というものはやはり旦那様にリードされるのがほんとうだと思うの。あなたにそういう要求されると、あたしのほうが年上であることを思いしらされるようで悲しくなる」  佳境にはいると彼女はあいかわらずたけだけしかったけれど、以前のようなサディスティックな振る舞いは影をひそめて、ただ旦那様のリードよろしく、エクスタシーの極限をきわめようとする、可憐な妻の肢体しかそこにはなかった。 「由香利、君は変わったね」  あるとき事後の陶酔のなかにいる由香利のからだを抱きしめて、滋が耳もとで|囁《ささや》いた。 「ええ、あたし変わりたいの、まだまだ変わりたいと思うのよ。昔のあたしは思いあがった、ひとりよがりの女だったわね。あの時分の自分のことを思うと、自己嫌悪以外のなにものでもないのよ。だから昔のことには触れないでくださいね、なにもかも忘れたいと思うの。あたしを善くするのも悪くするのも、あなたしだいよ。あなたの愛情だけがあたしにとって支えなのよ」  そして、滋の腕のなかで彼女はさめざめと泣いたのであった。  かくて由香利は滋にとってこのうえもなき貞淑な妻であったのみならず、在留邦人のあいだでも、その評判は日ましにあがるいっぽうだった。はじめはかなりブロークンだった英会話も、むこうのよき家庭の主婦について努力するにいたって著しい上達をとげた。  ただ滋がときどきふしぎに思うことは、彼女は昔のことをよく忘れていた。滋がからかい顔にそれを指摘すると、 「だからいつかいったでしょ。あたし昔のことは忘れたいの。すっかり忘れてしまいたいの。あたしは生まれ変わりたいのよ」  それからもうひとつ滋がふしぎに思ったことは、日本にいるときあんなに得意にしていた乗馬をフッツリやめてしまったことだ。故国から送ってきた荷物のなかにも乗馬鞭はなかった。滋がそれを指摘すると、 「だってあれは軽井沢だけの趣味だったでしょ。こちらでは極まりが悪くって。女だてらに鞭をふるうなんて悪い趣味よ。あたし乗馬はやめようと思うの」  これを要するに滋はおいおい男としての自信を深めていった。人間自信ほど恐ろしいものはない。それまでの滋はクラスでも、日本人の社会でも決して評判のいいほうではなかった。ノロノロとした口のききかたをする、そして、むやみに人見知りをする豚のような存在でしかなかった。それがしだいに変わってきた。由香利にすすめられて乗馬をつづけているうちに、おいおい体が引き|緊《し》まってきた。元来運動神経が皆無ではなかったとみえ、ほかのスポーツにも手を出した。言語動作もキビキビしてきて、以前はひとの陰へ陰へとかくれるようにしていた男だが、ちかごろでは控えめながらひとまえで意見を述べられるまでに進歩して、それがクラス・メートのあいだでも評判だった。 「あいつの変わったのはあんな素晴らしいワイフを持っているからだよ。あいつはワイフによって洗脳され、精神改造をされているんだ」  その陰口はかれの耳にも入っていた。かれはそれを少しも意に介さなかったばかりか、むしろ得意であった。 「そうだ、おれは由香利によって洗脳され、精神改造されたが、由香利はおれ以上におれによって洗脳され、精神改造されているんだ」  出産の日がちかくなったとき滋はニヤニヤしながらこういった。 「少し早いんじゃないか」 「いや、そんなこといって。これでちょうどいいのよ」  耳たぶまで真っ赤になって抗議する由香利を抱きしめて、 「ごめん、ごめん、そうだったね」  子供が生まれるとしって東京の弥生から手紙がきた。男が生まれたら鉄也、女の子が生まれたら弥生と命名するようにとのことだった。男の子が生まれたので鉄也と命名した。  ああ、問題はその鉄也なのだ。      八  恐喝者はその点についてつぎのごとく告発している。 [#ここから1字下げ] 鉄也はお前の子ではない サムソン野郎のビンちゃんこと山内敏男の子供なのだ お前は法眼家においてタネ馬にもなれなかった男だ お前は法眼家とは縁もユカリもない男だ お前は宿無しだ カタリだ 風来坊だ 地位も身分もない蛆虫みたいな存在なのだ [#ここで字下げ終わり]  アジトへ持ち込んだ恐喝状のその部分を読むたびに、滋は|腸《はらわた》がねじきれるような怒りと絶望を覚えずにはいられなかった。  それについて滋は思い当たることがあるのである。かれはどうしても子供がもうひとり欲しかった。周囲もそれを望んでいた。もっとも強くそれを希望したのは祖母にして母なる光枝である。アメリカ在住中かれはあせって、ひそかにその方面の医師の検診をうけたことがある。精密検査ののちその医師は、気の毒そうに首をふっていったものだ。 「あなたのこの体質ではベビーをつくることはむりだと思ってください。ひとりでもお子さんがあるとすれば、儲けものだと思って満足することですね」  生物として種族保存を願わぬものはない。中年にしてそういう意識においおい目覚めてきた滋は、だからこそいっそう鉄也に希望をつなぎ、この秀抜な息子を愛し、誇りにもしていたのだ。あいつならふたりでも三人でも子供をつくることができるであろう。そうすればそのなかのひとりに五十嵐家を継がせればよいではないか。滋はそれによって自己を慰め、老いてとかく愚痴っぽくなっている光枝をたしなめてきた。  しかし、唯一の頼みの綱のその鉄也が、自分のタネではなく|不法闖入者《ふほうちんにゅうしゃ》であったとは! かれの怒りはただその一点に集中するのだ。  ふしぎにかれは由香利にたいして、それほどひどい憎悪も敵意も感じなかった。どう考えても結婚後の由香利はこのうえもなきよい妻だった。現在の自分のよってもってあるのもすべて由香利の|薫《くん》|陶《とう》の|賜《たまもの》なのだ。しかも、自分は彼女が不羈奔放、多くの男と肉体的交渉の経験を持つ女だと、承知のうえで結婚したのだ。すべては不法闖入してきたあいつが悪いのだ。いや、由香利の胎内に運命の一発をぶち込んだ、あいつのおやじこそ呪わるべきだ。滋は昭和二十八年度の新聞の縮刷を、なんどもなんども読み返して、そいつがどういう生活をしていたかをしるにいたった。そいつは肉体を売りものに、多くの女を|弄《もてあそ》んでか弄ばれてかしらないが、ジャズ・コンボの資金稼ぎをしていたというではないか。  滋はふしぎに由香利の殺人者としての大罪には、関心があまり持てなかった。殺人罪といってもとっくの昔に時効が成立しているではないか。警察の無能こそ|憫笑《びんしょう》すべきである。これはもう法律上の問題を乗り越えて、家庭的問題となって発展しているのだ。もちろん滋といえどもこの真相が公けにされたとき、五十嵐産業や法眼病院の事業が、壊滅的打撃をうけるであろうことはしっていた。しかし、種族保存に失敗して、いまや絶望的境地にある滋にとってはそんなことはどうでもよかった。いままでこのうえもなく誇りとしてきた息子が、自分の子供ではなく、下等なジャズ屋のタネであることをしったとき、滋のまえには富も名誉も繁栄もケシ飛んでいた。  それだけにかれは恐喝者を憎まずにはいられなかった。自分の幸福を根こそぎに奪った恐喝者を。このケースで滋がだれをいちばん憎んだかといえば、それはもちろんこの呪わしき恐喝状のぬしだった。滋はそれを頭から本條徳兵衛とその|倅《せがれ》直吉と信じて|遅《ち》|疑《ぎ》するところがなかった。そういえば滋にはいろいろ思い当たるところがあった。弥生ほどの権謀術策にとんだ女傑が、いかに本條徳兵衛だけにヨワかったかということを。こういう重大な秘密をタネに、本條親子が長年にわたって、弥生をユスリつづけていたのだと滋は直断した。その弥生の余命いくばくもない現在、恐喝の対象を自分にむけてきたのであろうと考えたまでは当然だったかもしれない。  かくて一週間に一時間か二時間、アジトに閉じこもって昭和二十八年の事件の大要をつかむと、滋がつぎにやったことはジャズ・コンボ「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のメンバーのその後の消息を探ることであった。なぜそんなことをしなければならないのか、自分でもよくわからなかったが、なにかしらそうせざるをえない衝動みたいなものに動かされたのだ。  最初滋は私立探偵を雇おうかと思った。しかし、かれはすぐにそれを断念した。この件に関するかぎり絶対に第三者を介入させてはならぬと思ったのだ。かれはみずから私立探偵になろうと決心した。やってみるとそれは案外、案ずるより産むがやすいのたとえのとおりであった。  昭和二十八年の事件には、他のメンバーのすべてが関係していた。事件の発見者はギターの吉沢平吉と見習いの加藤謙三という男のふたりであった。いちばん有力な容疑者と目されたのはドラムの佐川哲也であった。ピアノの秋山風太郎も、テナー・サックスの原田雅実も重要参考人として警察へ出頭している。そして、そのたびにかれらの住所が新聞に発表されているのである。  かれはまず被害者とライバル関係にあったという、佐川哲也に眼をむけた。それにはもうひとつ理由があって鉄也と哲也、名前の読みかたがおなじだということも、滋の疑惑を|煽《あお》ったのである。そこらにもなにかアヤがあるのではないかと、いまの滋にはどんな些細なことにも|猜《さい》|疑《ぎ》の念がはたらくのである。  佐川哲也が当時住んでいた「いとう荘」はその後建てかわっており、いまやちょっとしたマンションになり、経営者も変わっていたが、それにもかかわらず佐川哲也の消息が案外簡単にわかったのは、昭和二十八年の事件がいかに世間を騒がせたかということもあるが、それにもまして哲也自身がいまやすっかり有名人になっていたからである。 「あんた、佐川哲也さんがいまなにをしてるかしらんのかねえ」  新しいマンションの管理人は|呆《あき》れたようにこの見すぼらしい、げじげじ眉にボシャボシャと口ヒゲ|顎《あご》ヒゲを生やした近眼の小男を見下した。 「はあ、いまなにをしておいでんさるんです」  滋は出来るだけことばかずを控えながらも、九州弁のアクセントを匂わせることを忘れなかった。 「なにをしてるちゅうて、しょっちゅうテレビに出てるじゃないか。ザ・パイレーツ。有名なバンド・マスターだ。あのひとここがマンションに建てかわってからも、しばらくここにいなすったが、その後出世なすって青山のほうの豪勢なマンションに移っていかれた。そのマンションの名? しらんねえ。だけどそんなこと電話帳を調べてみればすぐわかることじゃないかね」  電話帳……? そうだ、それがあったと滋は内心ほくそえんだ。  ことのついでにかれは秋山風太郎のことを訊ねてみたが、管理人はいよいよ呆れたふうで、ますますもってあいてを見下した。 「なんだ、あんた、秋山浩二さんもしらんのか、それでよく私立探偵が務まるねえ」 「なんせ、まだ駆け出しじゃもんですけん。秋山浩二さんちゅうのが本名で? ふうむ、そいでそのひとも有名になっちょるさるんですか」 「あんた、いま『北国の星』ちゅう歌がはやってるのをしらんのかね。あれが秋山浩二さんの作曲じゃ。いま流行歌の作曲じゃ五本の指にはいるじゃろ」  滋はその日はそれくらいで切り上げた。秘密探偵第一日目としては予想をはるかに超える成功だった。少なくとも電話帳を利用するということに気がついただけでも。  かれはその電話帳によって五人の住所をしることが出来た。それ以来このインチキ秘密探偵事務所の新米調査員の長い、苦しい調査行がはじまった。かれは調査の対象になっている五人に、自分たちがだれかに調査されているということをしられたくなかったので、それは世にもまわりくどい、もどかしい調査行だった。かれは出来るだけ目立たない存在でありたかったので、あるときは保険の勧誘員に化け、あるときは電気製品のセールス・マンになりすまし、あるときは貸間探しの安サラリーマンに変装した。それは文字どおり難行苦行の連続だった。出先で|侮辱《ぶじょく》され、|愚《ぐ》|弄《ろう》され、悔しさにアジトへかえってから血涙をしぼることも珍しくなかった。そんなとき|沮《そ》|喪《そう》しそうなかれの士気を鼓舞し、|鞭《べん》|撻《たつ》してくれるのはあの二枚の写真の裏書きと恐喝状のつぎの一節であった。 [#ここから1字下げ] お前は法眼家においてタネ馬にもなれなかった男だ お前は宿無しだ カタリだ 風来坊だ 地位も身分もない蛆虫みたいな存在なのだ [#ここで字下げ終わり]  滋はその一節を読むたびに激しい怒りと屈辱と、名状すべからざる悲しみのために、人知れず悲憤の涙に暮れ、|挫《くじ》けそうになる復讐心を奮い立たせ、悪鬼の化身として炎えあがった。  それにしてもかれはなぜ「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の残党の五人にこだわるのであろうか。はじめのうちかれ自身にもよくわからなかった。ただ生前の山内敏男という男を、よくしっているべきはずの五人の人物の、現在の地位、身分、職業、性格、収入、配偶者の有無までを徹底的にしっておきたかったのだ。  なぜ?  この五人が一堂に会している面前へ、鉄也をとつぜんつきつけたら、かれらがどんな反応を示すだろうか。ただ漠然とそのていどにしか考えていなかった。しかし、それにはどういう手段方法があるだろうか。自分は絶対に表面へ出ないで、かれらを一堂に集めるには、五人のうちのだれかを利用するよりほかはなさそうだった。では、いちばん利用できそうな可能性のあるのはいったいだれか。そこに徹底調査の必要があったのだが、コケの一念というべきか、三か月ほどかかって滋はついにそれを成し遂げたのだ。  こうして五人の追跡調査が完了したころ、滋はまた新しい嫉妬と怒りに物狂わしくならざるをえなかった。五人のうちのふたりは個性豊かな有名人である。してみると昔の「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」も、下等なジャズ屋の集団とのみ、軽蔑しきれないのではないか。そうするとこれらの優れた芸術家の卵を|傘《さん》|下《か》におさめて、リーダー・シップを握っていた山内敏男という男も、素行はともあれ、秀でた素質に恵まれていたのではあるまいか。そして……そして、鉄也のあの優れた|凜《りん》|質《しつ》はすべてその男から継承したのではないか。  かれの脳裡にあの悪魔のように邪悪な計画が芽生えはじめたのはちょうどそのころからだったろう。「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」のメンバーをひとりずつ殺していって、その罪を鉄也に転嫁していったらどうか。動機は? かれらが鉄也の出生の秘密をしっているがゆえに。  かれはそこまで考えたとき慄然たらざるをえなかったが、いっぽうどこかでそういう探偵小説を読んだような気がした。そうだ、アメリカに留学中むこうで読んだ探偵小説にそういうのがあったっけ。そこに連続殺人がある。しかし、犯人は犠牲者たちとなんの利害関係もなければまたかれらに対して|怨《えん》|恨《こん》もない。ただ自分がひそかに憎んでいる第三者に罪を転嫁するために、すべての殺人が行なわれるのである。滋はその小説の題名と作者の名前を憶えていた。しかも、その翻訳が鉄也の書架にあることもしっていた。かれはその翻訳を買ってきてアジトで読んだ。  かれは俄然探偵小説というものに興味をおぼえた。すると忽然として思い出したのは中学時代か高校時代、即ちアメリカへ留学する以前こちらで読んだ日本の探偵作家の作品だった。題は「蝶々殺人事件」。そのなかにロープのトリックがあった。それを読んだとき日本にもこういう傾向の作家が出現したのかと感心するいっぽう、ロープのトリックだけはいただけないと軽蔑した。そんなにうまくいくものかと子供ごころにもおかしかった。  しかし、これはいちど試してみる価値があると思った。アジトのかれはときどきレンタカーを利用することがあったので、郊外から少しずつ土を運んでアジトの一室に持ち込んだ。かれは粘液質にうまれついているので、なにか思い立つとしんねり強かった。土の重量が六五キロに到達すると、適当なかたちの|土《ど》|嚢《のう》をつくり、それをレンタカーでひそかに郊外の林の中に持ち込んで、大木の枝を利用してなんどかテストを試みた。  テストの結果は上乗だった。ロープの長さを適当に選択することによって、それを極限まで廻転させ緊めつけると、行動者がロープから手を放してから、ロープに押し込められた物体が、そこから解放されて落下するまで、最低四十五秒はかかることを確認した。そして、|敏捷《びんしょう》に行動すれば四十五秒あれば、そうとうの行為がとれることを、たびたびのテストによって自信を強めた。  一月の終わりごろかれはアジトにおいて、鉄也に宛てた恐喝状を作成した。かれを恐喝してきた人物の手法を模倣して、もっとも世間に|流《る》|布《ふ》していると思われる新聞を切り抜き、ありふれた便箋に|貼《てん》|付《ぷ》することによってそれは完成した。封筒にはこれまた恐喝者を模倣して定規とコンパスを使って宛名を書いた。こういう残酷な恐喝状を作成することに、かれはもうなんの良心の|呵責《かしゃく》も感じなかった。 「鉄也のやつ、鉄也のバカ」  恐喝状を作成しながらかれは絶えず口ぎたなく|罵《ののし》っていたが、ふしぎなことにはその眼には涙が光っていた。  つぎに時限装置つきのスライドやテープを作製することだったが、それこそ滋の得意中の得意とするところであった。むしろそういう自信があるからこそ、ああいう大それたことを思いついたといってもいいであろう。|元《がん》|来《らい》が内向性にうまれついているかれは、幼時から小型機械をいじるのが好きだった。カメラにかけて素人ばなれのした技術を身につけている。豚みたいに太っていた時代でも指先は器用に出来ていて、部分品を買い込んできて、ラジオを組み立てたりするのに興味を持っていた。ひところはハムの仲間に加わっていたこともある。  しかし、かれにかくれたそういう特技があるということは、由香利がよくしっているはずである。弥生も光枝もしっている。鉄也もしっているかもしれない。しかし、かれらが自分を裏切るはずはないと滋は信じていた。うっかりすると由香利の旧悪が暴露することである。よしんば裏切られてもそれでよしと滋は考えている。種族保存に失敗したかれはすべてにおいてデスペレートになっている。いざとなれば死ねばいいという考えかたが、ちかごろの滋を支配し、その|脳《のう》|裡《り》からはなれなかった。  滋がかりそめの相棒として吉沢平吉をえらんだのは、かれの調査がいかに完璧だったかを示しているといえよう。かれはそのために自宅のある田園調布と、日曜大工センターのある用賀の中間に当たる、玉川のマンションに第二のアジトを構えた。こんどのアジトは牛込のそれよりもはるかに高級で、触れ込みは大阪に本社を持つ大手企業の東京出張員ということで、それだけに滋の扮装も凝っていた。|小《こ》|鬢《びん》に霜をおいた初老の紳士であった。鼻の下から顎へかけていくらか白いもののまじったヒゲをたくわえたうえ、眼鏡はよしてコンタクト・レンズをはめていた。名前は|山上良介《やまがみりょうすけ》と名乗っていた。  かれの吉沢平吉との最初の接触は二月上旬に行なわれた。かれのほうから吉沢平吉のアパートへ電話をかけたのである。自分は若いころ進駐軍の仕事をしていたものだが、そのころ「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の猛烈なファンであった。その後大阪へ移住してこれこれこういう仕事をしているが、いまはからずも当時のメンバーであるあなたの消息をしってたいへん懐しく思う。いちど一緒に食事でもして貰えないかと、都内でも有名なレストランを指定した。魚はすぐ|餌《えさ》に食いついてきた。ことほどさように吉沢平吉が飢えていたということだろう。  こうして第一回のふたりの会食は、二月九日の金曜日に行なわれた。吉沢平吉もはじめは大いに警戒的だったが、相手のようすがこういう場所にたいしていかにも板についているので、おいおい気を許す羽目になってしまった。そのときは「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の思い出話に花が咲いただけだったが、別れるとき山上良介の渡した名刺が吉沢平吉を誘惑した。  自分は月の上旬に上京してきて、一週間ほどこちらに滞在することになっているのだが、ホテルは殺風景なので先月からこういうマンションに引き移った。気がついたらお宅とそう遠くないのではないかと思う。いちど遊びにきてほしい。ジャズのスタンダード・ナンバーでもお聴かせしようと、渡した名刺の住所が玉川になっていた。  図々しくもそれから三日のちの夜、山上良介氏のマンションを訪問して、大いに歓待されて気をよくした吉沢平吉は、相手の底意を読んでいると|己《うぬ》|惚《ぼ》れていた。山上良介氏の属する大阪の大手企業は、関西ではすでにレジャー産業にも手を広げて成功していた。その勢いに乗って東京にも進出を企画中だということは、もっぱら業界筋でも評判だった。もしそれが成功すればバックに擁する資本の大きさからいって、吉沢平吉の属する三栄興業などひとたまりもなかろうと|戦々兢々《せんせんきょうきょう》だった。山上良介氏はその|尖《せん》|兵《ぺい》として派遣されているのであろうし、そういう意味で三栄興業のベテランであるところの自分に、眼をつけたのであろうと己惚れたのが吉沢平吉の運の尽きだった。  こうなると吉沢平吉は山上良介氏の|自家薬籠中《じかやくろうちゅう》のものだった。こうして四月十一日の夜の「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の同窓会が企画決行され、その夜とつぎの夜のふた晩つづいて、同一犯人の兇手によると思われる殺人が矢継ぎばやに演じられたのである。  この連続殺人に成功した滋は有頂天になっていただろうか。  否!  かれの深い悲しみと絶望はより傷を大きくこそすれ、すこしも薄められはしなかった。しかし、矢はすでに弓を放たれたのだ。かれの予定された六人の犠牲者のうち、本條直吉と吉沢平吉の名前のうえには線が引いてあった。そしていま名前のうえに不吉な★のマークがついているのは加藤謙三である。かれはこれが全部成功するとは思っていなかった。いつかは失敗するだろうと覚悟はきめていた。しかし、それがこんなに早くやって来ようとは。  かれはいま第一のアジトの一室で、シーンと第二の恐喝状と|対《たい》|峙《じ》している。滋はいま虚脱放心の極限状態にあるようにみえる。むりはない。第二の恐喝状が指定してきた四月二十三日とはきょうなのである。    第十編 [#ここから4字下げ] 愚者耕助の|罠《わな》に落ちること  耕助・弥生最後の対決のこと [#ここで字下げ終わり]      一  金田一耕助は生きとし生ける限り、その夜、即ち昭和四十八年四月二十三日の夜のことを、忘れることは出来ないであろう。かれがいまやろうとしていることは、すべて非合法的な手段であった。そのことは等々力元警部なども鼻を鳴らして非難したくらいである。 「金田一先生、それはあきらかに一種の恐喝ではありませんか」 「一種の……ではありません。あきらかに恐喝ですね」  金田一耕助はもじゃもじゃ頭をひっかきまわしながら、物悲しげに首を左右に振った。 「あなたらしくもない。なぜこんな非合法的手段をとろうというのです。いままであなたはいつも公明正大でした。そのあなたがこんな卑劣な……」 「いいや、卑劣、結構ですよ。陰険とおっしゃられても弁解の余地なしです。警部さん、あなたはなぜ警察にまかせておこうとしないかと、そうおっしゃりたいのでしょう」  等々力元警部が無言のままでひかえていたのは、金田一耕助のことばが|肯《こう》|綮《けい》にあたっていたからであろう。 「警部さん、ぼくもそうしたいのはやまやまなんです。日本の警察の捜査能力の優秀なことは、ぼくはだれよりもよくしっているつもりです。いま警察では全力を挙げて第二の犠牲者、吉沢平吉のあの夜の行動について聞き込み捜査をやっていますね。いずれ警察はそれに成功するでしょう。そして犯人のアジトを発見するでしょう。そして、そこから犯人像を割り出し、犯人逮捕に成功するでしょう。しかし、それまで待てないというぼくの気持ちも、少しはわかっていただきたいのですがねえ」 「犯人が第三、第四の殺人を計画しているとおっしゃるんですか」 「と、しか思えないのではありませんか。兵頭房太郎の告白によると、かれが最初の恐喝状を発送したのは去年の十月の十日だというんですよ。それにもかかわらず、第一の惨劇が演じられたのはこの四月十一日でした。その間半年あります。しかも、第一の惨劇がいかに入念な演出のもとにおこなわれたかは、警部さんもよくご存じです。そこには練りに練り抜かれた計画がありましたね。犯人はその恐喝者を本條直吉と誤解した。だからこれをまず一番に血祭りにあげたのはわかりますが、なぜおなじ晩、おなじ建物のなかに、旧『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のメンバーを集めておいたのでしょう」 「つまりこのつぎはおまえたちの番だぞという、警告だったとおっしゃるんですか」 「犯人が恐喝者のつぎに憎んだのはだれだったでしょう。それはいうまでもなく鉄也君でしょうね。犯人はこのうえもなく鉄也君を愛し、誇りにもしていた。それだけに犯人の逆上は大きかったでしょう。そのことは鉄也君が犯人から受け取ったとおぼしい、恐喝状の末尾の一節によっても明らかでしょう」 「あれは兵頭房太郎が犯人につきつけた、最初の恐喝状の末尾にそっくりですね」 「それだけに犯人の怒り、無念、絶望はおおきかったと思うんですよ」 「そこで旧『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』の残党を、ひとりひとり血祭りに挙げていって、その罪を鉄也少年に転嫁しようとしているわけですか」 「警部さん、ほんとうをいうとぼくはもうすでに、第三の犠牲者が現われていたかもしれないと思うんですよ。犯人の行動にブレーキがかからなければね」 「ブレーキとおっしゃると……?」 「第二の恐喝状ですね」 「わかりました。犯人は本條直吉を|屠《ほふ》ることによって、すべての秘密は抹殺されたと思い込み、図に乗ったことはたしかでしょうな。そこから第二の殺人として発展していった。そこへ第二の恐喝状がいったとすると……」 「それともうひとつ鉄也少年が家を出て、青山の関根玄竜さんとこへ引き取られていったこともあるでしょうね」 「なるほど、わかりました。犯人の行動にブレーキをかけるという意味でも、第二の恐喝状が必要だったわけですね」 「わかっていただけて光栄です。で、今夜ご協力いただけるでしょうねえ」 「しかし、そのまえに兵頭房太郎の生命は、保障なさるんでしょうねえ」 「あいつは悪いやつです。八つ裂きにしても飽き足らんやつです。犯人をこういうデスペレートな行動に追いやったのも、みんなあの|小《こ》|賢《ざか》しげな房太郎のよこしまな欲望ですからね。しかし、それは万事法によって罰せられるべき問題です。今夜に関する限りあの男の生命は保障されるでしょう。多少怖い思いはしてもらわなければならないかもしれませんがね」  金田一耕助は白い歯を出して|悪《いた》|戯《ずら》っぽく笑った。しかし、その笑いかたにはどこか|虚《むな》しいものがあった。  元警部の等々力大志はこの男をよくしっている。かれはいままでつねによき警察の協力者であった。警察を出し抜いておのれの売名をはかろうなどということは、いままでいちどもやらなかった。 「承知しました。協力させていただきましょう、喜んで」  しかし、このとき等々力元警部もまだ気がついていなかったのである。金田一耕助の胸中に、どのような固い決意が秘められているかということを。  さて、問題の四月二十三日は陰暦の三月二十一日に当たっていた。したがって空には下弦の月があるべきはずなのだが、あいにくの曇り空で、月はおろか星影さえどこにも見当たらなかった。ビヤー・ガーデン設営の作業員も、十一時ともなれば引き揚げていて、だだっぴろい本條会館の屋上にはもう人影とてはさらにない。|靄《もや》が少しおりていた。  十一時ジャスト、この屋上へあがってきた男がある。スイート・ルーム直通のエレベーターからではなく、ホテルのほうの階段からである。むろん法眼滋であった。かれは眼立たない平服を着て、右手を上衣のポケットに入れている。素早く屋上を見まわすと、エレベーターのすぐ鼻先に立っている格納庫に、きっと|尖《とが》った瞳をすえて、 「おい、だれかいるか」  あたりを|憚《はばか》るような声であることはいうまでもない。 「お、法眼さんかね」  格納庫のかげから聞こえてきたのは、これまたあたりを憚るような声である。と、同時に格納庫の角を曲がって姿を現わしたのは、|黒《くろ》|揚《あげ》|羽《は》の蝶のように、紫色の底光りのする黒い|艶《つや》|々《つや》としたビロードの三つ揃いを着て、胸に大きなボヘミアン・ネクタイをしめた男である。顔はよく見えなかったが、明滅するネオンの光りで、底光りする上衣の艶だけは感知できる。今夜は頭にベレー帽をのっけていた。 「やっぱりおまえだったのか、兵頭房太郎」 「おっとまえへ出てきちゃいけない、法眼さん、それに上衣のポケットから手を出してもらおうじゃありませんか。そこからズドンと一発なんてのはいただけませんからね」 「バカなことを!」  滋はしかしいわれるままにポケットから手を出すと、疑わしそうに格納庫のほうに顎をしゃくって、 「おい、兵頭君、そこにだれかいるんじゃあるまいな」 「とんでもないこと。あなたの秘密はわたしの秘密。秘密をひとにもらして元も子もフイにするほど、わたしゃバカじゃありませんやね」  房太郎もさすがに緊張しているのか、声が咽喉にひっかかって|嗄《しゃが》れているようである。 「しかし、兵頭君、まえへ出ちゃいけないというのはどういうことだ。わたしは君に渡すものを用意してきている」 「そうだなあ」  兵頭房太郎はふたりの距離を目分量で測っている。彼我の距離約三十メートル。ネオンのまたたきがあるとはいえ、あいだに|霞《かすみ》みたいなものが立ちこめていて、たがいに体の輪郭がわかるくらいが関の山、顔まではハッキリと見定めにくかった。 「それじゃそこから二、三十歩まえへ出ていただこうじゃありませんか。一歩一歩わたしが数えますからね。ストップと声をかけたら、その場に停止していただきましょうか」 「いや、そのまえに兵頭君、君にちょっと聞きたいことがある」 「はあ、どういうことでしょうか」 「君はいったいどういうことをしっているんだ。ロープのトリックとはどういうことだ」 「そんなことどうでもいいじゃありませんか。マゴマゴしているとだれかやってくるかもしんねえ。そうなるとおたがいに|拙《まず》いことになりますぜ」 「いいや、いってもらおう。おれも死に金は使いたくない。君がどこまで知っているか、ハッキリたしかめておきたいんだ。今後のこともあるからね」 「疑いぶかいおかただ。それじゃちょっと謎の絵解きといきましょうか」  房太郎は両手をひろげて大袈裟に肩をゆすってみせた。西洋人のするようなその仕草は、アチラかぶれの房太郎の身についた習慣なのだ。 「あんたあの晩、即ち四月十一日の晩、結婚式へ出るまえに、ひそかにここへ上がってきて、ほら、わたしのちょうどうしろに当たる格納庫の|廂《ひさし》の下の|鎹《かすがい》に、長さ三メートルもありましたかな、そういう長さのロープをブラ下げて、そいつを輪にして結んでおいた。だから二重になったロープの長さは一メートル半もありましたかな」 「おまえはそれを自分で見たのか」 「ええ、見ましたよ。あんたが結婚式へ出てるあいだにね」 「そのロープがどうしたというんだ」 「なんだ、あんたまだそのさきをいわせる気か。ようし、こうなったらあの晩のあんたの行動を|逐《ちく》|一《いち》ご説明申し上げましょうか。あんたはあの晩結婚式のお|仲介人《なこうど》を仰せつかっていた。ゴルフ場からこっちへまわったといってゴルフ・バッグをかついでいた。ゴルフ・バッグのなかには凶器がいっぱい詰まっていますな。長短よりどり見どりというところでさ。トイレで使うにはパターなどいかがでしょう。ちょうど手頃の長さですぜ。あんたはそこで着更えをするまえに、そのパターを一本どこかへ隠しておいた。そしてそのまま奥さんと結婚式場へ赴いたが、さてお役目を果たして引き返してくると、下のトイレで本條の直さんがゲロゲロやっていた。そこでパターでぐゎんと一撃……」 「それはまたお|誂《あつら》えむきに、本條直吉がゲロを吐いていたもんだね」  法眼滋がせせら笑った。 「そうさね、あんたはなにもあの晩でなくてもよかったのさ。都合が悪ければよすまでのこと。げんにあんたは一度ならず二度までも失敗している。ところが三度目の正直といおうか、あの晩はすべての条件がピタリと|揃《そろ》った。そこで決行したまでのこと」 「ふん、ふん、それで直吉をぶん殴って……」 「|昏《こん》|倒《とう》している直さんの体を担ぎ上げ屋上へあがると、ロープの輪のなかへ逆さ吊りにしておいて、キリキリ、キリキリ極限までロープを巻いた。もうこれ以上巻けないまでロープを|捻《ね》じった。直さんの体は巻き上げられたロープのなかにギッチリと封じ込められている。あんたは納得のいくまでロープを捻じあげると手を放した。そのとたんロープは逆廻転をはじめたが、直さんの体はすぐには落ちない。落ちるまでには何十秒か何分かはかかるだろう。その間のあんたの作業はあっという間の出来事だったろう。あんたはロープから手をはなすとエレベーターを利用して九階へおり、スイート・ルームに飛び込んで、何|喰《く》わぬ顔をして着更えをはじめた。その鼻先の窓の外を直さんが落下していったのだ。ごていねいにもその瞬間、意識を取り戻した直さんが悲鳴をあげてね。それであんたのアリバイは完全となり、万事メデタシ、メデタシというわけだったのだが……」 「いいよ、もうわかったよ」  あの晩のことを思い出したのか、それとも暴露の恐怖におびえたのか、滋の声は靄のなかでいちじるしくふるえていた。 「それじゃ、君のいうとおりにやるよ。前進してもいいかね」 「ようし、おれが号令をかけるからね。一歩一歩かぞえておれがストップといったら、すぐその場でとまるんだぜ。スタート」  滋の足取りは|蹌《そう》|踉《ろう》としていた。それでも房太郎のかぞえるままに一歩一歩進んでいった。三十歩まで前進したとき房太郎がストップをかけた。 「ようし。それじゃそこへ用意してきたものをおくんだ」  滋は内ポケットから取りだした|嵩《かさ》ばった封筒を足許へおいた。そのなかには一万円紙幣が二百枚入っているのである。 「それでよし、それじゃ廻れ右、前進。もとの位置へかえったところでストップする。そして、そのままの姿勢でそこに立っている。こちらをむくんじゃないぞ。おれが札束を勘定するまではな」  滋はもう操り人形みたいなものである。蹌踉たる足取りで房太郎の号令するまま、一歩一歩よろめき、踏みしめ、もとの場所へかえっていくと、そのままむこうむきに立ちすくんだ。  それを見定めておいて房太郎は床におかれた封筒のほうへ近づいていった。いくらか小走りになっているのは、かれもこの|期《ご》におよんで興奮しているのであろうか。封筒を取り上げ、なかから札束を引っ張り出すと、一枚一枚勘定しているとき、滋がひょいとこちらを振りかえった。彼我の距離十五メートル、そのとき靄がいくらか晴れたうえに、ネオンの明りが真正面から兵頭房太郎のおもてを照らした。と、そのとたん、大きな|驚愕《きょうがく》の嵐が滋の全身をゆすぶって、 「だ、だれだ、き、き、きさまは!」  その声は|腸《はらわた》からしぼり出すようである。 「わたしですよ、法眼さん」  ベレーを取るとその下から現われたのは、もじゃもじゃ頭の|蓬《ほう》|髪《はつ》である。ネオンの明りのなかでニコニコ笑っている。 「あっ、き、き、きさまは金田一耕助!」  絶望が滋の理性を狂わせた。かれは右ポケットからピストルを取り出すと、金田一耕助をめがけて三発、四発、ズドンという音のかわりに、シュッ、シュッという音がしたのは、ピストルに消音器がついているのであろう。  金田一耕助がバッタリ倒れて、かれの手から二百枚の一万円紙幣がパッと靄のなかに散乱した。滋はそのほうへ駆け寄ろうとしたが、そのときさっきかれが出てきた階段から、ひとりの女が飛び出してきた。 「あなた、やめて……」  女は滋の腕に身を投じて、 「もうこれ以上の|殺生《せっしょう》はやめて……やめて……」 「ああ、由香利……」  滋は毛頭由香利をうつつもりはなかったであろう。引き金へかかった指が|揉《も》みあうはずみに動いたのでもあろうか。シュッ、シュッという音が二度ほどしたかと思うと、由香利……いや、この期におよんでも滋がそう信じ切っている女が、くたくたと滋の足下にくずれ落ちていった。 「由香利……由香利……」  滋が叫んでそのほうへ身をこごめようとしたとき、この屋上へふたつの人影が躍り出してきた。小雪のあとから飛び出してきたのは等々力元警部であった。下の廊下で待機していたこの元警部は、法眼夫人に突きとばされて、壁へ背中をぶっつけたとき、脚でもくじいたのであろうか|跛《びっこ》をひいている。格納庫のなかから飛び出してきたのは多門修である。 「法眼滋、ピストルを捨てろ。ピストルを捨てないと射つぞ」  多門修は一発|威《い》|嚇《かく》|射《しゃ》|撃《げき》をぶっ放した。  等々力元警部はそのとき屋上の床からムクムクと起きあがってきた。金田一耕助のほうへ駆け寄って、その服装に眼をやると、はじめて相手の決意のほどをしったらしく、 「金田一先生、それじゃあなたは……それじゃあなたは……こ、こ、こんな無茶な……こんな無茶な……」 「大丈夫ですよ、警部さん、ぼくだって防弾チョッキくらいは用意してますよ」 「でも、血が……血が……」 「なあに、左腕をかすっただけですよ。それより法眼夫人を見てあげてください。シュウちゃん、射つんじゃないよ。そのひとを死なしちゃ捜査陣のみなさんに申し訳ない」  法眼滋はいまやオコリが落ちた人間のようなものである。足下に倒れた妻を抱き起こして、 「由香利……由香利……」  すすり泣くような声だったが、そのとき法眼夫人の生命の、最後の名残り灯が燃えあがったかして、ひしと夫の腕に手をまわすと、 「あなた!」  小さい声で叫んだかと思うと、|咽《の》|喉《ど》をゴロゴロいわせながらも、最後の力をふりしぼって、 「ごめんなさいね。みんなあたしが悪かったのよ。でも……でも……これだけは信じて……あたしあなたを尊敬してたのよ、いいえ、尊敬する以上に愛してたわ。だれがこんなにあなたを追いこんだのか……あたしはそのひとが憎い……」  その憎まれた男の兵頭房太郎がいま格納庫から|這《は》い出してきた。金田一耕助と多門修によって身ぐるみ|剥《は》がれたかれは、シャツと|股《もも》|引《ひ》きと腹巻きだけの姿でふるえていたが、それでも屋上に散乱している一万円紙幣を見つけると、なにかブツブツ口のなかで呟きながら、一枚一枚拾い集めている。どこかうつろな仕草である。  等々力元警部と多門修に手伝ってもらって、傷の手当てを終わった金田一耕助が、法眼夫妻のそばにちかよってきたとき、法眼夫人の生命の灯がまたかすかにまたたいた。 「金田一先生。先生はこのひとを捕らえたりはなさらないわね。このひとを自首させてくださいますわね」 「もちろんですとも、奥さん。法眼滋氏はだれの勧告がなくとも、潔く自ら名乗って出られるでしょう」 「ありがとうございます。それから……テープが……テープが……」 「えっ、テープがどうかしたのですか」 「秘書に……あずけてあります。……あたしの告白……テープが……いつか鉄也にも聞かせてやって……」  それがこの悩み多かりし女性の最期のことばであった。彼女は胸部と腹部に貫通銃創をうけていた。血がブクブクと唇から溢れ出たかと思うと、彼女は夫の腕のなかでガックリと首をうなだれた。  法眼滋はあやまって妻を射殺したのではあるまい。夫人がみずから引き金を引いたのであろう。そして、それこそこの女性の苦悩にみちた生涯を閉じるに当たって、もっともよき幕切れであったかもしれない。  金田一耕助は立ち上がると、足下に横たわる夫人の遺体にむかって|粛然《しゅくぜん》として合掌した。靄がまた深くなってきたようである。      二  昭和四十八年の四月三十日は月曜日に当たっていた。しかも、この月曜日はふつう一般の月曜日とちがって、日本人の生活にとってちょっとした異変をもたらした記念すべき月曜日であった。即ち祝祭日が日曜日に当たっていると、その翌日の月曜日をふりかえ休日とするという定めが、はじめて実行された日であった。ひともしるとおり四月二十九日は天皇誕生日に当たっている。その日が日曜日だったものだから、翌三十日の月曜日がふりかえ休日となった、はじめてのケースであった。あだかもよし、その日は快晴で気温も平年並みより四、五度も高かったから、マイ・カー族の行楽客が多かったと記録にのこっている。  しかし、田園調布の法眼家ではそれどころではなかった。法眼夫人の死、それにつづいて夫の法眼滋氏の自首と不祥事があいついだため、いまや田園調布の一画に豪邸の威容を誇る法眼家は、マスコミの注視の的となり、夜討ち朝駆けの記者たちによって四六時中監視されている。その法眼家では固く表を閉ざし、女あるじの弥生はだれにも会おうとはしなかった。なにしろ八十を越える高齢でもあり、主治医喜多村博士のきびしい勧告もあることなので、捜査当局も彼女に関する限り、手控えざるをえなかった。  ところがその法眼弥生がいまひそかに奥の院ともいうべき夢殿で、ひとりの男と相対しているのである。四月三十日の午後十時ごろ、相手はいうまでもなく金田一耕助。  金田一耕助は法眼滋の自首を見とどけたのち、マスコミ関係のひとたちから、いっさい消息を断っていたが、きょうはあだかも法眼夫人の初七日である。久しぶりに門をひらいた法眼家では、ひとの出入りもあわただしかったが、たぶんその混雑に乗じてまぎれ込んだのであろう。しかし、きょうの金田一耕助は、このまえきたときとちがって鉄の|函《はこ》を持参している。本條直吉から託されたあの鉄の函である。 「金田一先生」  金田一耕助と相対している弥生はあいかわらず、黒い几帳のなかにいるのである。 「あの子はテープを遺しておいたそうですね」 「はあ、あの事件のあった二日のちに、秘書のかたから頂戴いたしました」 「先生はそれをお聴きになったのでしょうね」 「はあ、もちろん。さっそく拝聴いたしました」 「そのテープ、わたしにも聴かせてくださいますでしょうね」 「ご希望ならば……ここに持参しておりますから」 「では、どうぞ」 「でも、奥さま、この鉄の函はどうしましょう」 「それはあとでけっこうでございます。それよりテープを聴かせていただきとうございます」 「承知いたしました。では、テープのほうから聴いていただくことにいたしましょう」  金田一耕助は鉄の函から取り出した小型のテープ・レコーダーをデスクのうえにセットすると、 「では、はじめますよ」 「どうぞ」  金田一耕助がスイッチを入れると、やがてテープ・レコーダーから法眼夫人の、よく澄んだ、よく透る声が切々として流れてきた。このテープを吹き込んだとき、法眼夫人はおそらく動揺の極致だったろうが、それを少しも感じさせぬ、落ち着いて、むしろ淡々たる語りくちであった。 「わたし山内小雪と申します。二十年ちかくの歳月にわたって、法眼由香利の代役をつとめてきた女でございます。ではなぜそんなことになったのか、またなぜそんなことが可能だったのか、万一の場合にそなえて、ここにこの告白をテープにとっておくものでございます」  ここでちょっとしばらくことばが途切れたのは、なにから語っていったらよいのかと、思案をしているのであろう。 「わたし法眼病院の法眼琢也と、その愛人、山内冬とのあいだに妾腹の子として生まれたものでございますが、昭和七年のうまれでございますから、琢也の孫、法眼由香利とはおないどしになるわけでございます。わたしの母、冬というひとは旧姓佐藤と申したのでございますが、日本画家の山内|某《なにがし》氏と結婚しましたので、生涯その姓を名乗っていたのでございます。この山内某氏と冬とのあいだには子供がなかったのでございますが、山内某氏には先妻にあたるかたとのあいだに生まれた、敏男という男の子がひとりございました。つまり冬というひとは敏男という継子がひとりあるところへ、後妻としてもらわれていったのでございます。ところが山内某氏が亡くなられたので、冬は敏男という継子をつれて苦労しているところを、法眼琢也に愛されて敏男とともに|池《いけ》の|端《はた》へかこわれ、そこでわたしが生まれたのでございます。したがって敏男とわたしはきょうだい同様に育てられたとはいえ、血のつながりというものが全然なかったことは申し上げるまでもございません。としは四つちがいでございました。 「父琢也は縁もユカリもないこの敏男をとても可愛がりました。たぶん自分に男の子がなかったせいでしょうか。それこそ眼の中へ入れても痛くないほどの可愛がりようでございました。敏男もまたその寵愛にこたえて琢也を真実の父のように慕っていました。敏男はおなじ年頃の少年にくらべると、体も大きくガッチリとして|逞《たくま》しく、学校の成績も|上乗《じょうじょう》で、いつもクラスでリーダー・シップを握っていたようでございます。そういう敏男を琢也はこのうえもなく頼もしいものに思い、ゆくゆくはわたしの後ろ楯にと思いこんでいたようでございます。いや、思いこんでいたのみならず、ときどき冗談半分に、『なあ、ビンちゃん、この小雪という娘は|不《ふ》|愍《びん》なうまれだ。いつかはおまえの世話になるような場合があるかもしれない。そんなときにはよく|労《いたわ》ってやっておくれ』と、頼みこんでおりました。そんなとき敏男は昂然として胸を張っていうのでした。『大丈夫ですよ、お父さん、コユちゃんはこのとおり綺麗だし、お利口さんだし、きっと仕合わせになりますよ。でも、万一ということがありますから、そんな場合、ぼく|生命《い の ち》にかけてもコユちゃんを護ってあげます』 「こういったからといって、敏男はけっして思いあがっているのではございませんでした。かれはおおらかでものにこだわらぬ性格でしたが、それでも自分のおかれた立場をよく|弁《わきま》えており、父や母にたいする態度はまるで従僕が主人に仕えるがごときものがあり、それがまた父や母の信頼をかちえていたようでございます。ことに母冬にたいする感謝の情は非常なもので、いつかもわたくしにいったことがございます。『もしコユちゃんのお母さんというひとがいなかったら、ぼくはだれも引き取り手がなくて、幼にして飢え死にしていたかもしれない』と。 「さて、母の冬というひとはどういうひとであったのか、かぞえどしで十六のときに死にわかれたので、もうひとつ記憶がハッキリしないのですが、このひとはもう優しいいっぽうのひとだったのではないでしょうか。子供ごころに覚えていることは父を愛し、父を信じ、ただそれだけで生きているというふうで、もうひとつ自分でなにかしてみようという、いわゆる生活能力に欠けていた女性だったように思われます。そういうところが父の心をいっそう捉え、いっそう不愍がられ、愛されたゆえんかもしれません。 「みなさまもご存じのように、父琢也も妾腹の子でございました。父の生母宮坂すみというひとも、わたしの祖父法眼鉄馬の手によって、池の端へかこわれていたひとですが、幼時そういう境遇におかれた父琢也は、じぶんの父鉄馬の通ってくる夜を、どのような|憬《あこが》れと、どのような|畏《い》|怖《ふ》の情とで待ちわびたことでございましょうか。祖父の鉄馬は南部のひとでした。したがって妾宅の軒にはつねに南部風鈴がブラ下げてあったそうでございますが、その風鈴の鳴りかたによって父の来る日と来ない日が占えたと、いつか琢也がわたしにではなく、敏男に話したとがあるそうです。 「そういう琢也でございますから、あのひとの風鈴にたいする愛着には異常なものがあり、『風鈴集』という歌集があるくらいでございますから、われわれが育った池の端の妾宅の軒にも南部風鈴がいつもブラ下がっておりました。琢也のそういう話を聞いてから、敏男もその風鈴に異常な興味を示しはじめました。もちろん父と母とのあいだには、通って来るべき日とそうでない日は、あらかじめ打ち合わせができていたのでございましょうが、それでも戦争がだんだん苛烈になっていくにしたがって、約束の日に父が来れないこともございました。なにしろ法眼病院には傷病兵のかたをお預かりしていたので、そういう日がだんだん多くなるにつけ、母の|悄《しょ》|気《げ》かたは子供ごころにもいじらしいくらいでございました。するとあるときすっかり悄気きっている母にむかって、とつぜん敏男が慰めがおにいいました。『ほらほら、お母さん、そんなにボンヤリしていてはいけないではありませんか。ちゃんとお化粧していなきゃ……』『あら、どうして』『だって、いまにお父さんがいらっしゃいますよ』『あら、敏男さんにはどうしてそれがわかるの』『だって風鈴があんなに激しく鳴っているではありませんか。お父さんのいらっしゃる晩は、風鈴もよろこび勇んであんなに激しくなるんですよ』なるほど、そういえば軒の風鈴がはげしく鳴っています。それにしてもこんなに風のない日に、どうしてあんなに風鈴が鳴るのであろうかと、子供ごころにわたしが外をのぞいてみますと、なんとその風鈴には|紐《ひも》がついていて、その紐の端を敏男がひっぱっているのでございました。母もそれに気がつくといったんはプッと吹き出しかけましたが、すぐ淋しそうな顔になり、『ありがとうよ、敏男さん、あなたはほんとうに思いやりのあるいい子ねえ。でも、だめよ、あのかたちかごろとってもお忙しくていらっしゃるんだから』だが、そのことばも終わらぬうちに、玄関の開く音がして父の声が聞こえたときの、母のうれしそうな顔といったら……」  それは妾宅という特殊な環境に育った子供たちの、世にも|侘《わび》しい思い出話なのだが、小雪はそれによって風鈴なるシロモノと、自分たち哀れなきょうだいとの結びつきを印象づけようとしているのであろう。淡々たる語りくちながら、いや、淡々とした語りくちだけに、金田一耕助は胸を|抉《えぐ》られるような哀れさを覚えずにはいられなかった。カーテンのなかの弥生はどうであろうか。|歔《きょ》|欷《き》するような呻き声が聞こえたと思ったのは、金田一耕助のそら耳であったろうか。テープの声はとつぜんその弥生について語りはじめた。 「琢也の正妻でいらっしゃる弥生さまというかたについて、当時まだ子供であったわたしは別として、母の冬や兄の敏男はどういう印象を持っていたのでしょうか。おそらくふたりとも非常にまちがった人間像を、頭にえがいていたにちがいございません。そのかたは才色兼備な女傑としても、夫まさりの敏腕家としても、戦前から世にも有名なかたでいらっしゃいました。そこから冬も敏男もそのかたを、冷酷無残な、血も涙もない鬼畜のような婦人を想像したのではございますまいか。ことに冬の場合そのひとの夫の愛情を奪ったという罪業感がございましたでしょうから、いっそうそのかたを怖れたのではございますまいか。それにしても父はなぜいちどでもいいから、冬を弥生さまのところへつれていって、挨拶させておかなかったのでございましょうか。ただ父はいちどだけ冬に申したそうでございます。あれは怖い女だ。あの女の恐ろしさには|測《はか》りしれないものがあると。わたしはそれを敏男からきいたのでございますが、その意味はいまもってわかっておりません。スジさえ通ればあんなに物わかりのいいかたなのに……」  そのときカーテンのむこうがわから、また|歔《きょ》|欷《き》するような呻き声が聞こえてきたが、こんどは金田一耕助のそら耳ではなかった。弥生は悔恨に打ちひしがれて、身も世もなく関係者一同の苛酷な運命を歎いているのではあるまいか。 「わたしは心の底から戦争というものを憎みます。恨みます。昭和二十年三月九日夜から十日未明にかけての大空襲で、爆死しなかったら父ももう少し|手《て》|際《ぎわ》よく、わたしども|母《おや》|子《こ》の身分を、保証しておいてくれたことでございましょう。少なくとも法眼家におけるわたしの立場を、もっと明確なものにしておいてくれたことでございましょう。そのうちに、そのうちにと思っているうちに、ああいうことになってしまったのであろうと思うと、わたしは父の優柔不断を恨まずにはいられません。さようでございます。わたしはこのうえもなく父を尊敬しております。父は偉いひとでした。しかし、家庭的なことに関する限り、父はたしかに優柔不断だったようでございます。 「さて、父の死後、われわれ三人がいかに惨めな立場におかれたか、くだくだしくは申し上げません。これは|贅《ぜい》|沢《たく》な愚痴というべきかもしれないのです。世間にはわれわれ三人よりもっともっと惨めな立場におかれたひとが、日本全国かぞえきれないほどいらっしゃったのでございますから。申し忘れましたが父が爆死をとげたとき、わたしは十四歳、兄の敏男は十八歳でございました。 「したがって、母の冬が病院坂の法眼家の旧邸で、みずから|縊《くび》れて死んだとき、敏男は二十歳、わたしは十六歳でございました。この冬の死についてはこと新しく申し上げますまい。それはあの当時捜査に当たられた、高輪署の記録に遺っていることでございましょうから。しかし、法眼家にたいする怨恨は長く尾を引きました。わたしよりも敏男の胸に。そのことは敏男が天竺浪人というペン・ネームで、『病院坂の首縊りの家』と題する詩集を、自費で出版して、弥生さまにお送りしたことでもわかっていただけるかと思います。 「敏男がいつごろからどういう機会で、ジャズ・コンボ『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』を主宰するにいたったか、そのことはここでは省略させていただきとうございます。そのことはこれからお話しようとしている、あの世にも恐ろしい事件とは直接関係はないのでございますから。このジャズ・コンボのメンバーのかたは、みなさん個性豊かなすぐれた芸術家でいらっしゃいました。そのことはメンバーのなかからふたりまで、その道の第一人者になっていらっしゃることでもわかっていただけるかと存じます。しかし、なんといってもいちばん傑出していたのは、敏男のトランペットだったでしょう。そのことはあちこちの一流バンドから引き抜きにきたことでもおわかりになるでしょう。しかし敏男はあくまでも『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』そのものを、一流のジャズ・コンボに仕立てあげたいという野心を持っていたようでございます。 「この際いちばんいけなかったのはこのわたしでございました。わたしは敏男の熱心な指導と|薫《くん》|陶《とう》とによって、ソロ・シンガーとして育て上げられていきました。しかし、その場合、わたしはどうしても、その世界に安住することができず、いつも浮き上がった存在になっていたのでございます。それでもまだ物心つかぬころ、『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』が進駐軍のキャンプを専門にまわっていたころはまだよかったのです。敏男にほめられるのがうれしさに、わたしはわたしなりに努力もいたしましたし、青い眼のG・Iさんたちからコイちゃんだとか、ベビー・コイだとかアイドルみたいにもてはやされているうちは、いくらか得意でもあったのです。ああ、そのころ習い憶えたブロークンな英語が後年お役に立とうとは、だれが知っていたでございましょうか。 「しかし、わたしの得意にも年齢の制限がございました。十八、十九、二十ととしをとっていくにしたがって、わたしはしだいにそのグループから浮き上がった存在になっていったのでございます。自分でいうのもおかしなものですが、わたしの唄はけっして|拙《まず》くはなかったそうでございますが、なにかが……つまり it が欠けているのだそうでございます。it|即《すなわ》ちお色気でございますわね。その時分わたしはもう二十二歳になっていました。グループとしてもお客さまとしても、二十二歳の女のお色気を要求してくるのは当然のことでございましょう。それがわたしにはどうしても出せないのでございます。『コイちゃんはダメだなあ、ふだんはお色気十分なのに、舞台に立つとどうしてあんなにコチコチになってしまうんだ。お客さんに|媚《こ》びを売れとはいわないよ。ふだんのお色気だけで十分なんだ。それを出してもらえさえすれば……』佐川さんなどもかねがねくやしがってくださいましたが、それが|昂《こう》じて、『この時代に、しかもこういう世界に住んでいながら、まだ男をしらないなんて不自然だ。ひとつおれが……』と、おっしゃって……しかし、そこへ敏男が飛び込んできて佐川さんを殴り倒したのでございますが、あとにもさきにも敏男のあんな凄まじい剣幕を見たことはございません。敏男が怪力の持ちぬしだということはうすうすしっていましたが、それが立証されたのは、この一件があって以来のことでございます。お気の毒に佐川さんはそのとき敏男に強打されたのがもとで、左の眼を失明してしまわれ、それまでホトケのビンちゃんと呼ばれていたのが、一転してサムソン野郎のビンちゃんと呼ばれるようになったのでございます。 「敏男がとにかく考えこむようになったのは、そのころからのことでございました。あるとき真剣な|眼《まな》|差《ざ》しでわたしの顔を見ていましたが、とうとう『おまえ、法眼家のことを考えることがあるかい』と、いい出しました。わたしが黙って悲しそうな顔色をしていると、『そうだろうなあ、あんな立派なうちがあるのに、こんな稼業をさせているんだから。それもこれもおれに意気地がねえからよ』『うそよ、うそよ、お兄さま、あたしがいま黙っていたのは、法眼家のことを思わないといえば嘘になるからです。しかし、あたしはもう|諦《あきら》めています。それに現在の生活にも満足しています。お兄さま、もう二度とあの家のことはいわないで』『そうもいかねえ。おまえはどんな大家においても少しもおかしくない娘だ』『いや、いや、あたしを法眼家へかえそうなどとは思わないで。あたしいつまでもお兄さまといっしょにいたいのよ』『ときに琢也先生には由香利さんというお孫さんがいたなあ。たしかおまえとおないどしだと聞いているが、おまえ会ったことがあるかい。由香利さんに』『いいえ一度も』『おまえ会ってみたいとは思わないかい』『思わないといえば嘘になります。でも変な気がするわねえ。あたしのほうがおばさんになるんでしょ』『むこうはおまえのことをしっているだろうか』『さあ、どうだか。たぶんご存じないんじゃない』『そうだろうな。弥生ばばあがひた隠しに隠していやあがるにちがいねえ。しってれゃ由香利さんだって、おまえのことを放っとくはずがねえもんな』 「ああ、またしても、またしてもわたしたちは作戦をあやまったのです。あのとき敏男はわたしをつれてまっすぐに、法眼家を訪れて弥生さまに会うべきでした。そうしていたらこれからお話するような、恐ろしい事件は起こらなかったでございましょう。しかし、それをいえば|愚《ぐ》|痴《ち》になります。敏男はそれから半月ほどかかって、由香利さんのことを調査したらしいんですが、ある夕方、まるで幽霊でも見たような顔をしてかえってきました。『コユ、おれきょう、由香利さんに会ってきたよ』『あら、そう、で、どういうかた』わたしがつい飛び立つような息遣いをするのを、敏男はジロリと尻眼に見て、いや、会ったといっても口をきいたわけじゃない。あれが法眼由香利さんだと、ひとに教えられただけなんだからと弁明しました。そこでわたしが綺麗なひとでしょうねえと質問すると、いや、それは自分の眼で見て判断するがいいといったきり、敏男は黙りこんでしまいました。 「その時分由香利さんは|目《め》|白《じろ》のほうの大学を出て、|市《いち》ケ|谷《や》にある洋裁学院へ通っていたのでございますが、敏男がわたしをつれていったのは、その洋裁学院の正門まえでした。ちょうど夏休みに入るまえで暑い盛りだったにもかかわらず、どういうわけか敏男はわたしに厚いベールを頭からかぶらせて、絶対ひとに顔を見せてはならぬと命じました。わたしはふしぎに思っていましたが、その疑問も半時間ほどたつうちに氷解しました。ああ、そのときのわたしの驚き、筆にもことばにも表わせないというのが、そのときのわたしの気持ちをいちばんよく表現してくれるでしょう。正門のなかから五、六人づれの生徒が笑いさんざめきながら出てきましたが、わたしは敏男に小突かれるまでもなく、そのなかのどれが由香利さんだかすぐわかりました。 「わたしはいっとき姿をかえたわたし自身が、むこうから歩いてくるのだという錯覚を、持ったくらいでございます。わたしの眼からとつぜん|滂《ぼう》|沱《だ》として涙が溢れてきました。羨望、嫉妬、くやしさ……なんとでも解釈してくださいまし。おそらくその全部だったでございましょう。由香利さんは正門から出てくると、すぐまえにある駐車場から豪勢な外車を引っ張り出して、みずから運転して走り去っていきました。わたしはそのとき恥も外聞もなく、敏男の胸のなかで泣き崩れてしまったのでございます。 「こうしてわたしの|姪《めい》にあたるひとが、わたしと瓜ふたつであることをしり、わたしが大いに|瞋《しん》|恚《い》の炎をもやしたのが、七月二十日ごろだったにもかかわらず、わたしたちふたりの軽井沢での会見が、八月十八日まで延びたのは、その間わたしが熱を出して寝込んだからでございます。わたしは一時ひどく|窶《やつ》れました。そんな姿でわたしは由香利さんと会いたくなかったのでございます。会うならば由香利さんとおなじように、若くて健康で美しくありたいと思ったのも、女心というべきでございましょうか。  この軽井沢での対決からひいて、はからずも由香利さんを誘拐、監禁し、さらにあの病院坂の首|縊《くく》りの家での、奇妙な結婚式へと発展していくのでございますけれど、しかし、それらはいっさい省略させていただきとうございます。わたしも少しお喋舌りをしすぎたようでございますし、それにそこいらのいきさつは、金田一耕助先生がよくご存じのようでございますから。それよりも、昭和二十八年九月十八日の夜、病院坂の首縊りの家で演じられた惨劇のほうへ、お話をすすめさせていただきとうございます」      三  小雪はさすがに疲れたらしく、そこでひと息ふた息いれていたが、やがてまたよくとおる声で語りはじめた。 「病院坂の首縊りの家で奇妙な結婚式があり、由香利さんを解放した翌晩、わたしたち、敏男とわたしは五反田のギャレージの二階で、ふたりだけの|盃事《さかずきごと》をして、ここにはじめて夫婦になったのでございました。ふたりは生涯法眼家の名前を口にしないこと、わたしはソロ・シンガーとして今後真剣に勉強することなどを、たがいに誓いあいました。 「しかし、それでことがすんだと思うほど、わたしも甘くはございませんでした。由香利さんを解放するとき敏男は、ゆうべの花嫁は小雪だったと、メンバーのものはみんな信じきっているんだから、まあ、悪い夢でも見たと|諦《あきら》めなさいと、由香利さんにいってきかせたそうですが、それで諦めてしまう由香利さんかどうか、そこに不安が残りました。しかも、その不安がそれからまもなく、現実となって現われはじめたのを感じたとき、わたしは|嫉《しっ》|妬《と》のために身も心も狂いそうでございました。 「敏男がジャズ・コンボを維持していくために、ときどきお金持ちのご婦人に体を売っていたことは、わたしもまえからしっていました。ふたりが夫婦になったとき、今後それだけはやめてほしい、その代わり自分も一人前のソロ・シンガーとなり、経済的にも自立できるように努力するからと約束をし、敏男もそれを承知したのでございますが、それにもかかわらず、夫婦になってから二週間ほどのちごろから、敏男の素振りにときどき異常を感ずることがございました。つまり、それは夜毎肌を合わせている夫婦でないとわかりかねる、微妙な細胞の変化なのでございますが、わたしはときどき敏男の体に、他の女の体臭を嗅ぐことがございました。他の女……それが由香利さんではないかと気がついたとき、わたしは|寒《そう》|気《け》|立《だ》つような、そら恐ろしさを感じずにはいられませんでした。そのことについて敏男をなじると、 『バカをいっちゃいけない。相手は良家のお嬢さんだ。二度とおれなど相手にするもんか。あの晩のことは悪い夢でも見たと諦めているさ。げんにその後法眼家からなんの苦情も来ないじゃないか』 「しかし、わたしにいわせればそのことが、かえってそら恐ろしいのでございました。なるほど由香利さんはあの夜のことは、ひた隠しに隠しているのでございましょうが、だからといってあの性格では、そのまま泣き寝入りしてしまおうとは思われません。なんらかのかたちで復讐を……それもわたしに対しての復讐をもくろんでいるだろうことは、火を見るよりも明らかだと思わざるをえないのでした。かつて自分を|弄《もてあそ》んだ男をこんどは逆に誘惑し、その体を弄ぶと同時に、わたしの鼻をあかそうとしているのではないかと思うと、みずから|播《ま》いた種とはいえ、気が狂いそうなほどそら恐ろしさを感じずにはいられませんでした。嫉妬……? もちろんそれもございました、なにかしらそれ以上の恐ろしさに腹の底が固くなり、胸もふさがりそうになるのでございました。 「あの運命の晩、昭和二十八年九月十八日の夜がそうでした。あれはひどい台風の晩のことでした。あの晩敏男は六時ごろどこへいくとも告げずに、五反田のギャレージを出ていきました。出るまでひと|悶着《もんちゃく》あったことはいうまでもありませんでしたが、敏男が出ていったあと嵐はますますはげしくなります。その嵐がわたしの不安をいよいよますます|掻《か》き立てます。それにしてもこんな晩、ふたりはどこで会っているのだろうかと思いめぐらせているうちに、ふいと胸に浮かんだのが、病院坂のあの家のことでございました。それと気がついたとき、わたしは嫉妬の炎に身も心も焼きただれるような思いがしました。これが女のカンというものでございましょうか。 「それと気がついたのは、八時半ごろのことでございましたが、わたしは女としては決断のはやいほうでございます。すぐに黒い皮の防水服に身を固めると、さいわい敏男がトラックをおいていったものでございますからそれを運転してギャレージをとび出しました。外の嵐はますます激しく、おりおり稲妻が町々を掃き、それにつづいて雷鳴がとどろき渡りました。街路樹の梢は草のように揺れなびき、家々の屋根瓦は木の葉のように舞いあがり飛んでいきました。そういう大土砂降りのなかをクルマを走らせるわたしの心も、外の嵐に劣らぬほどの大荒れでした。嫉妬と不安と恐怖とで。 「わたしがあの家へ着いたのは九時ごろのことでしたが、そのときは万事終わっていたのでございます。いや、いままさに終わろうとしていたところでございました。わたしは坂の途中でクルマを停め、懐中電灯片手に嵐をついて坂をのぼっていきましたが、あの家のまえまでくると、果たしてあの広間から灯の色がもれているではございませんか。わたしは嫉妬に気が狂いそうになり、嵐のもたらすあらゆる困難を排除して、その広間へとびこんだのでございますが、そこでわたしの見たものは……」  小雪はそこでいったん絶句したが、みずから励ますように声を強めて、酸鼻をきわめたその場の状態について語りつづけた。 「部屋のほぼ中央に全裸の男と女が、肉体と肉体をからみあわせるようにして|斃《たお》れていました。男が敏男であったことはいうまでもありませんが、哀れな敏男は両の手首に手錠をはめられ、その体は全身鞭のあとだらけでした。皮は裂け、肉は破れというのは文字どおりあのことでしょう。鞭のあとは背中から胸部に巻きついているのもあれば、腹部から臀部にからみついているのもあり、それこそ縦横無尽とはあのことでございましょう。全身が吹き出す血に真っ赤に染まっていたことはいうまでもございません。わたしは全身を怒りにふるわせ、敏男のたくましい|股《もも》と股とのあいだに挟まれて、いまやまったくこときれている女のほうに眼をやりました。あれはプロレスでいうエビ固めというのでしょうか。由香利さんは敏男の|太《ふと》|股《もも》にはさまれて、|肋骨《あばらぼね》をズタズタにヘシ折られたうえ、|咽《の》|喉《ど》|首《くび》を絞め上げられたとみえ、白い眼を剥き、ダラリと舌を出し、口からおびただしい血を吐いてこと切れていたのでございますが、あえていわせていただきますと、それは恐怖と憎悪に|歪《ゆが》んだ世にも醜悪な形相でした。しかも、その手に|鞭《むち》の輪が巻きついており、三メートルほどの鞭が血に染まっているのみならず、鞭の輪に仕込んだ一三センチほどの|錐《きり》ようのものが、これまたぐっしょりと血に染まっているのを見たとき、わたしは全身の血が頭にのぼるようでございました。敏男は全身を鞭で打たれたうえ、最後は錐ようのもので下腹部を|抉《えぐ》られて、それがかれの生命を奪ったのでした。 「敏男にはサムソンというアダ名がございました。サムソンは由香利さんを犯しました。犯された由香利さんというひとが、そのまま泣き寝入りをするようなひとではないことは、さきほども申し上げたとおりでございますが、そこで由香利さんはデリラになったのでございましょう。デリラになってサムソンを誘惑したのは、わたしへの|腹《はら》|癒《い》せだったでございましょうが、デリラはそれでも飽き足りなかったのでございましょう。敏男の上半身はあのひとの自慢のタネであると同時に、売りものでもございました。デリラはその売りものの上半身に、生涯消えることのない鞭の痕を刻み込むことによって、最後の復讐としようとしたのではございますまいか。 「|睦《むつ》|言《ごと》のあとサムソンの眠り込んでいるあいだに、デリラはあいての両手の手首に手錠をかけたのでございましょうか。そして|俄《にわ》かに鞭をふるいはじめたとき、サムソンは驚いて広間へ逃げ出しました。それを追って鞭をふるデリラ。デリラははじめから殺意を抱いていたのでございましょうか。あの鞭の輪に仕込まれた錐状のものを見ると、あるいはそうかとも考えられますが、わたしはそうは考えたくございません。あれはただ万一に備えただけのことで、デリラはただ生涯|消《け》ぬべきもない鞭の刻印を、サムソンの自慢の肉体に、縦横にふるうことで満足するつもりだったのではございますまいか。 「サムソンは逃げまわりました。あのひとのことでございますから、けっして弱音を吐かなかったと思います。憐れみを乞うたりはしなかったでしょう。それがデリラをいっそう|苛《いら》|立《だ》て、凶暴にしたことと思われるうえに、それに拍車をかけたのが、あの夜の大暴風雨だったのではございますまいか。はためく|雷《いかずち》、ひらめく稲妻、天も地もひっくりかえるような大風と大雨。そういう物凄まじい舞台装置が、ふたりをいっそう凶暴にかり立て、とうとうああいう悽惨な破局にまで追いこんだのでございましょう。 「わたしは隣の寝室へとび込みました。果たしてそこに寝床がのべてあり、睦言のあったらしいことを確かめましたがそれはもうわたしの嫉妬をそそるものではございませんでした。わたしの必要だったのは手錠の鍵だったのでございますが、それはすぐ見つかりました。わたしは急いでそれをもってあの血まみれの広間へとってかえし、敏男の両手を手錠から解放してあげましたが、そのときのことでございます、敏男がかすかな呻き声をあげたのは。わたしは急いで敏男の頭を膝にのせ、敏男の名を呼びつづけました。するとそれが通じたのか敏男はポッカリ眼を開きましたが、そのときでした、『悪かったよ、おれはバカだった』と、呟いたのは。わたしの膝のうえで仰向けになっていた断末魔の敏男の眼に、そのときなにが映ったのでしょうか。 「ああ、それはあのシャンデリヤの鎖でした。母の冬がみずから縊れて死んだシャンデリヤ……! すると敏男はとつぜん妙なことをいい出したのでございます。自分が死んだら生首を斬り落とし、あそこへ風鈴のようにブラ下げておいてほしいと。おそらくそのとき敏男の脳裡には、あの池の端の妾宅の、|侘《わび》しかったが、また楽しくもあった幼時の記憶がよみがえっていたのでございましょう。それと同時にそこでみずから縊れて死んでいった、あの哀れな冬の最期の姿が、まぼろしのような映像となって、幼時の記憶とダブっていたのかもしれません。うわごとのようになんどもなんどもおなじことを繰り返し、わたしがきっとそうしますと約束すると、敏男はそこでニッコリ笑い、そして全身をつらぬく断末魔の|痙《けい》|攣《れん》とともに、ガックリと息が絶えてしまったのでございます。 「さて、わたしにいったいなにが出来たでしょうか。わたしにはどうしても手助けが必要でした。『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のひとたちの応援を頼もうか。いやです、いやです。敏男さんのこんな浅ましい姿はだれにも見せたくはありません。サムソンにとってあの鞭のあとは、敗北の刻印とおなじことでございます。それにこれは一種の無理心中でございます。わたしはそれからのけものにされた女でございます。それを思うとわたしは|腸《はらわた》も引き裂かれんばかりの|屈辱《くつじょく》を感じずにはいられませんでした。では、ほかにだれがいるでしょうか。そのとき卒然としてわたしの頭に浮かんだのは弥生さまのことでした。弥生さまはわたしにとって恐ろしいひとでした。しかし、いまの場合弥生さまをおいてほかにだれがいるでしょう。あのかたも由香利さんのこういう浅ましい姿をひとに見られたくないのではないか。 「わたしはその家を走り出ました。病院坂のうえに電話のボックスがあることを思い出したからでございます。さて、こうしてお話してくると、とても時間がかかよったようでございますが、電話のボックスへ駆け込んで腕時計を見ますと、ちょうど九時十五分でした。わたしがあの家へ駆け着けたのが九時ちょっと過ぎでしたから、あそこにいたのはほんの五分か十分だったらしいのでございますが、いま思い出してみてもずいぶん長かったように思われてなりません。それにしても電話ボックスのなかで電話帳から、法眼弥生さまのお名前を発見するまでのもどかしかったこと。それでもやっとそのお名前を発見すると、わたしは急いでダイヤルを廻しました。そして、まもなく弥生さまが電話のむこうにお出になりました。わたしは興奮にふるえていたのでございますが、出来るだけ落ち着くように努力しながら、つぎのように申しました。こちらあなたのいまは亡きご主人、法眼琢也の妾宅にうまれた山内小雪というものでございますが、……そこで弥生さまの驚きの声がきこえましたが、わたしはいっさいそれを無視して、自分のいいたいだけのことをつづけました。あなたはこれからすぐに防水服に身を固め、家を出る裏口のあたりで待っていなければなりません。そして、このことは絶対秘密に。あなたが今夜外出したということは、絶対だれにもしられてはなりません。いまから半時間、いえ、二十分のちにわたしがクルマでお迎えにあがりますから。それではもういちど繰り返します。と、わたしはおなじことを申し述べると、よろしゅうございますか、わたしのこのお願いを無視なさいますと、法眼家の名誉は地に落ちてしまいますよと、念を押すことも忘れませんでした。 「外はあいかわらずひどい暴風雨でした。いいえ、さきほどよりもっともっと吹きつのり、降りまさっておりました。しかし、結局そのことがわれわれに幸いしたのでございました。少なくとも交通渋滞がないだけでも。それから二十五分ののちわたしが田園調布へクルマを走らせますと、弥生さまは約束どおり防水服に身を固め、裏口からちょっと離れたところで待っていてくださいました。わたしがドアをあけると助手席へ入って来られました。そのときわたしはズブ濡れの防水帽をかぶっていたのでございますが、ルーム・ランプの灯りでそのしたの、わたしの顔をのぞきこまれた弥生さまは、とつぜん腹立たしげな声をお立てになりますと、『由香利、これ、なんのこと。つまらない冗談はよして頂戴』『いいえ、奥様、わたしは由香利さんではございません。わたしは山内小雪でございます』わたしは防水頭巾をとって真正面から弥生さまのほうへ顔をむけましたが、おお、そのときの弥生さまの驚きようったら。あの沈着で、およそものに動じることをご存じない弥生さまが、あんなに驚かれたのはあとにもさきにもあのときいちどだけでございました。弥生さまはそれでもまだまだ由香利さんが悪戯をしているのではないかと、いろいろ厳しい質問をしてこられましたが、じっさいはそうではなくわたしが山内小雪であり、その小雪がご自分の孫の由香利さんと瓜ふたつであると納得がおいきになると、とつぜんさめざめとお泣きになりました。『小雪ちゃん、小雪ちゃん、あなたなぜもっとはやくわたしのところへきてくれなかったの。わたしがもっと早くあなたに会ってさえいたら……ひどい、ひどい、主人ったら。どうしてわたしのところへ小雪ちゃんをつれてきてくれなかったの。由香里と瓜ふたつみたいなこんな綺麗なお嬢さんを』そして、弥生さまはなおもさめざめとお泣きになるのでございました。その後わたしははからずも、弥生さまにはずいぶん可愛がっていただくことになりましたが、なぜあのときあんなにお泣きになったのか、あんなに取り乱されたのかいまもってわかっておりません。 「しかし、このことが当時の|頑《かたくな》なわたしの心を、いくらかでも|和《やわ》らげ温めたことはたしかでございました。このひとは思ったより悪いひとでもなく、怖いひとでもなかったのかもしれない。……しかし、そのときのわたしはそれどころではなかったのでございます。むこうへ着くまでにだいたいの事情を説明しておく必要がございます。さいわいひとしきりお泣きになると弥生さまは、やっと自分を取り戻されて、涙をおおさめになると、『それで由香利はいまどこにおりますの。あなたさっき法眼家の名誉が地におちるとかおっしゃったけど、それ、由香利のこと? 由香利がなにかしでかしたんですの』そこでわたしがちかごろの、敏男を中心とした由香利さんとわたしとの、愛と憎しみの|葛《かっ》|藤《とう》をかいつまんでお話すると、『その結果たいへんなことになってしまったんです。しかし、それは奥様の眼でごらんになって、お確かめください』 「わたしたちのクルマはまもなく病院坂の家へ着きました。そこで弥生さまがどんなに驚かれたか、それらのことはくだくだしくなりますから、一切省略させていただくとして、いったんの驚きからさめると、弥生さまは頼りになるかたでございました。『それであなたはこの始末を、どういうふうにつけたいとおっしゃるの』『奥様、あたしは敏男さんのこの|亡《なき》|骸《がら》をどこかへ隠してしまいたいのです。未来|永《えい》|劫《ごう》だれにも発見されないところへ』『あなたその自信あって?』『自信ってございませんけれど、そうしなければなりません。こんな惨めな姿を|晒《さら》しものにしたくはございませんから』『じゃそうなさい。それがいいかもしれませんわね』『それで奥様はどうなさいます。由香利さんのお|亡《なき》|骸《がら》を』そのとき弥生さまのお口許にうかんだ奇妙な微笑を、わたしはいまでも忘れることはできません。『わたしも由香利の死体をどこかへ隠してしまいましょう。未来永劫だれにも発見できないところへ』 「それから弥生さまは手伝って、敏男の巨体をトラックまで運んでくださいました。火事場のバカ力とはよくいうことでございますが、あのときの弥生さまとわたしがそれでございました。『あなたこのお亡骸を五反田へ運ぶのね』『はい』『そして未来永劫だれにも発見されないところへ隠してしまうのね』『そうしたいと思っております』わたしはまだ敏男の遺言については隠しておりました。弥生さまはしばらく黙って考え込んでいらっしゃいましたが、やがてこういうことをおっしゃいました。『あなたこのお亡骸のしまつをつけたら、田園調布のわたしの家へいらっしゃい。いい、だれにもしられぬようにくるのですよ。こちらもそれだけの用心はしておきますから。そしていろいろ善後策を講じましょう。それでないとああいう血みどろの現場が残っているのだし、そこへ敏男さんが失踪したとなると、いずれはこのこと露見してしまいますよ』そういわれればそんな気もしたので、『はい、ではそういたします』『いい、よくって? だれにもしられないようにやってくるのですよ』『はい、よくわかりました』それからわたしは敏男の亡骸をつんだトラックを、五反田まで走らせたのでございます。 「みなさまは死体の首を斬り落としたことについて、わたしを鬼畜のような女だと|思《おぼ》|召《しめ》すでしょうが、それについてわたしはなんの弁解もいたしません。しかし、首斬り作業に従事しているうちに、敏男の遺志とわたしの希望が、偶然一致していることに気がつきました。わたしはあの無残な敏男の体を、だれの眼にも|晒《さら》したくはございません。さりとてなにもかも埋めてしまって、あのひとを永遠にこの世から抹殺してしまうのは忍びがたいことでございました。それには敏男の遺志を尊重し実行するのがよいのではないか。首だけでもあとに遺して、山内敏男なる人物がこの世に存在していたという|証《あか》しを、立てておいてあげたほうがよいのではなかろうか。 「生首切断作業はまもなく終わりました。ここでいっておきますが、敏男の首から下をどこに埋めたか隠したか、それは申し上げないことにいたしましょう。敏男の遺体はあのままそっとしておいていただきたいのでございます。いまあるところに|未《み》|来《らい》|永《えい》|劫《ごう》、眠らせておいてやりたいのでございます。さて、わたしは敏男の生首と、敏男の筆になる短冊をひっさげて、もういちど病院坂の家へ引き返しましたが、そのときには弥生さまのお姿も、由香利さんの亡骸もどこにも見当たりませんでした。わたしは弥生さまがあの亡骸をどういうふうに始末なすったか、いまもって聞いてはおりません。その話はわたしどものあいだではタブーになっているのでございます。 「さて、病院坂の家で敏男さんの遺志を実行すると、わたしはクルマを駆ってもういちど、五反田の家へかえり、クルマをそこへおいてギャレージを出ました。嵐はもう峠を越しておりましたけど、雨も風もまだそうとう強かったのです。あの晩、東京のあちこちで停電騒ぎがあったそうでございますが、さいわい東急は動いていました。わたしはそれで田園調布のひとつさきの駅までいって下車すると、そこから徒歩で法眼家まで引っ返してまいりました。あんな晩のことでございますから、防水服に身を固め、防水頭巾で顔をかくしたひとりの女の存在など、だれも気にとめるひとのなかったのは、むりもないことだとお思いください。 「法眼家の裏口のちかくまでまいりますと、物陰にかくれていらした弥生さまがつと現われて、わたしの手をとりご自分の部屋へ導いてくださいました。さいわい弥生さまが外出なすったことに気づいたひとは、だれもいなかったのです。わたしたちが弥生さまのお部屋で差しむかいになったのは、十九日の午前一時ごろのことでございましたでしょうか。そこで弥生さまが切り出されたおことばを、ここでこと新しく申し上げるまでもございますまい。もちろんそのまえに弥生さまはいろいろテストをなさいました。わたしのヘヤー・スタイルをかえてみたり、体のプロポーションをお聞きになったり、裸になったらどこかに特徴のある|痣《あざ》や|黒子《ほ く ろ》があるかなどと、妙なご質問もございましたが、そんなものはどこにもないと申し上げると、ではこれを|嵌《は》めてごらんなさいと、わたしの左指にはめてくださいましたのは、さっきまで由香利さんの指にはまっていたダイヤの指輪ではございませんか。わたしはこれはなんのまねですとお訊ね申し上げると、『あなたは今夜から由香利の身代わり……いいえ、由香利そのものになるのです。そして、あした二階に寝ている滋という子と結婚して、アメリカへ旅立つのです。あなたならばそれが出来る。あなたは機略も胆力もあるひとだ。あなたならきっと成し遂げられる。どうぞわたしのいうことをきいて|頂戴《ちょうだい》』と、声をのんでさめざめとお泣きになるのでした。あまりにも奇想天外なこのアイディアに、わたしがびっくり仰天したことは申し上げるまでもございますまい。しかし、弥生さまというひとはふしぎな説得力をもったかたでございます。いろいろお話をうかがっているうちに、やってやれないことはないと思いはじめたのですから、われながらふしぎでございました。思うにそのときのわたしはすっかりデスペレートになっていたのでございましょう。敏男を亡くしてこの世の希望を失いはてていたわたしは、この奇想天外な大ペテンを、やってみるのも面白いではないか。いずれは露見するであろうが、露見したらそれまでのことと、そう覚悟をきめたのはわたしの心に法眼の家名に対する|憬《あこが》れが、根強く巣喰っていたからでございましょうか。 「それにしても露見すればそれまでのことが、現在までつづいたのは、われながらふしぎでなりませんが、その原因のひとつとしては、滋というひとがあまりにも善人だったからでございましょう。これはお世辞でもなく外交辞令でもなく、滋はほんとうに立派なひとでした。あんなに純粋で、ひとを疑うことをしらぬひとは、世間でも珍しいのではございますまいか。わたしたちのペテンに乗って有頂天になっている滋を、わたしははじめバカにしていました。しかし、あの純粋な魂をもっているひとを、わたしはしだいに尊敬しはじめ、果てはほんとうに愛するようになったということは、滋も思い当たってくれることでございましょう。思えば敏男との愛は|怒《ど》|濤《とう》のような、激しく荒々しいものでした。それに反して滋との愛は|緩《ゆる》やかなテンポながら、しっかり大地に根をおろしていくような、安心して|倚《よ》りかかっていられる愛情でした。もちろんその底にはいつ露見するともしれぬという不安、危ない綱渡りをしているという|危《き》|惧《ぐ》が、つねにわだかまっておりましたが、それだけわたしは滋を愛し、滋の愛情に|倚《よ》りかかってきたのでございます。 「それにしても早過ぎた妊娠に気がついたときのわたしの恐怖、絶望……わたしは身も心も狂おしく、こんどこそ露見するであろうと思いのほか、わたしを由香利さんだと信じて疑わぬ滋は、それさえ当然のことと受け止めてくれたのでございます。 「ここで鉄也にひとこと申し遺しておきます。あなたは非常にふしぎな運命のもとに生まれたのですが、決して不倫な関係から生まれたのではありません。あなたの実父の敏男が生きていたら、あなたを誇りとしたでしょう。あなたの養父の滋がつねにあなたを誇りとしてくだすったように。あなたは無限の可能性を内蔵しているひとです。未来にむかってつよく生きていってください。 「さて、言葉が少し先廻りしすぎましたが、由香利さんの身代わりとなろうと決心したとき、わたしはいろいろしなければならぬことがございました。山内小雪の指紋はどこにも遺してはなりません。十九日の夜わたしはひそかに五反田のギャレージへ舞い戻り、指紋ののこっていそうな場所を入念に拭きとりました。そういうことをすることに罪の意識がなかったとはいえませんが、いざとなったら死をも辞せずと決心していたわたしは、それほど恐怖は感じませんでした。それから弥生さまと相談して、わたしは三通りの遺書を山内小雪の名前でしたためました。そのときはじめてわたしは生首風鈴のことを打ち明けたのでございますが、弥生さまはいったんは驚かれたものの、それほど強くわたしを責めようとはなさいませんでした。『出来たことはしかたがない。やっぱりあなたは強いひとなのね』と、しきりに溜め息をついていらっしゃいました。弥生さまにお渡しした三通の遺書のなかから、捜査の進展状態によって、いちばん適当と思われる一通を、いちばん適当と思われる時期に、弥生さまが投函してくださることになっていたのです。わたしが法眼由香利としてアメリカへ飛び立ったあとで。 「二十日の夜わたしがひそかに本條写真館へ電話をしたのは、敏男の生首に冬の遺体の二の舞いをさせたくなかったからでございます。ああ、あの蛆虫! それだけは決して、決して」  決して、決してという強い語気とともに、この恐ろしいテープは終わったのである。      四  夢殿のなかはシーンと静まり返っている。金田一耕助にとってはこのテープを聞くのは二度目だし、弥生にとってはそれは万事承知のうえのことである。だからそこにはショックはなかったが、それでも重っ苦しい雰囲気が、相対する金田一耕助と、几帳のなかの女性とのあいだに、ピーンと張り詰めた糸のように引かれている。 「で……?」  と、弥生がなにかを督促するように呟いた。  金田一耕助は無言のまま、鉄の函のなかから三枚の写真を取り出すと、それを黒いカーテンのなかへ差し入れた。それは深い穴のなかに身を横たえている全裸の由香利の写真が一枚、それから鞭の輪を右手にまいた由香利の右腕のクローズ・アップ。さらに輪のなかから突出している血にそまった錐状のものの細部写真。 「あなたは本條徳兵衛を呼びよせて、遺体の処分を依頼なすったのですね」 「おっしゃるとおりでございます。あの坂上の電話から写真館へ電話をしたのでございます。さいわい直吉も房太郎も留守で、徳兵衛だけがひとりで留守番をしておりました。わたしの要請にしたがって、徳兵衛が自転車に乗ってあのひどい嵐のなかを駆け着けてくれました」  弥生のことばは落ち着いているが、さすがに年齢のせいと今度の事件のショックからか、強い息切れは争えなかった。 「あなたは徳兵衛がどこへこの遺体を埋めたか、ご存じじゃありませんか」 「いいえ、しりません。そのことについては徳兵衛はひとこともわたしに申しませんでしたし、わたしも聞きたいとは思いませんでした」 「あなたは万里子さんや由香利さんに、どうしてあんなに冷淡でいられたんですか。いいえ」  と、金田一耕助はいくらかことばを強めて、 「あなたはなぜ小雪さんと由香利さんが、瓜ふたつほど似ているとしったとき、あんなにひどく泣かれたんですか、あなたみたいな気丈なかたが……」 「金田一先生はその理由を、もうご存じなんじゃございませんか」 「この写真のせいではございませんか」  金田一耕助が取り出したのは古ぼけて、ひどく変色した一枚の写真であったが、さすがにそれを手にとったとき、金田一耕助のからだはかすかにふるえ、その眉は世にも|忌《い》まわしげにひそめられていた。  それは|閨《けい》|房《ぼう》のなかにいる男と女の写真であった。床が取ってあったが掛け蒲団はひんまくられていた。寝床のうえには|浴衣《ゆ か た》を着た男がもろ肌をぬぎ、箱枕をかかえて俯伏せになり、尻を高くおっ立てていた。俯伏せになっているとはいうものの、顔はわざと写真機のほうへむけ、しっている人間ならばそれがだれだかハッキリ認識できるようなポーズをとっていた。脂ぎった中年を過ぎた男で、髪を短く刈り、|蟇《がま》のように醜態な顔をした男だが、その顔は苦痛と喜悦に|歪《ゆが》み、口の端から|涎《よだれ》さえ垂れているように見受けられる。  その男のむこうがわに立て膝をしている長襦袢の女性は、二十歳を過ぎたか過ぎぬくらいの年配だが、その髪かたちからして年代は、明治の中期から末期と思われる。女は長襦袢の肌もあらわに、右手を大きくふりかざしているが、その右手には鞭が握られている。 「奥さん、その女性はあなたですね」  金田一耕助はその写真をカーテンのなかに差し入れながら、痛ましそうな声で質問した。 「男はいったいだれなんです。ひょっとするとあなたの叔父さまであったと同時に、のちに養父になられた|猛《たけ》|蔵《ぞう》さんではありませんか」  返事はなかったがカーテンのそよぎによって、弥生が屈辱と怒りのためにからだをふるわせていることが想像できる。 「奥さん、この時代の写真技術では盗み撮りというのは不可能ですし、げんにその写真の裏面に、明治四十二年十月十日、本條権之助謹写とあるところをみると、本條権之助を招いて、わざわざこういうえげつない写真を撮影させたのですか」  答えはなかったがその無言が、金田一耕助のことばを肯定していることになるのだろう。 「なんのために?」 「わたしを手放さないために。わたしをすっかり琢也にわたしてしまいたくないために、そういう写真を撮っておいて、わたしを恐喝していたのでございます」 「奥さんはいつごろから猛蔵氏と……?」 「琢也と結婚する以前、わたしはすでに猛蔵に犯されていたのでございます。猛蔵にはそういう趣味がございました。マゾというのでございますか。わたしの母の千鶴はそれについていけなかったのでございます。そこで浮気をしていたのでございますが、どこでもほんとうの満足をえられないうちに、わたしに眼をつけたのでございますね。おしゃまで、やんちゃで、駄々っ児だったわたしに……」  その語りくちは淡々として、なんの抑揚もなかった。こういう写真が遺っているということを、このうえもなく恥辱としながら、自分をそういう窮地におとしいれた男に対する憎悪を、あらわに表現するのはもう潔しとしないという口調である。 「なるほど、それであなたは万里子さんを、猛蔵さんの子ではないかと思いこまれたのではございませんか」 「猛蔵がそう吹きこんだのです。金田一先生、女の体は浅ましいものでございます。猛蔵を心の底から憎みながらも、あの男に抱かれているときのほうが、主人に愛されているときより、より強烈な愉悦を味わわされたものでございます」 「ご主人はこういう秘密を……?」 「もちろんしらなかったと思います。しかし、わたしになにか隠しごと……それも世にも重大な隠しごとがあるということくらいは感づいていたにちがいありません。それがわたしに対する警戒心となり、わたしを恐ろしい女だと思いこむ原因となったのでございましょう。主人がそう思いこんだのもむりはございません。わたしは主人が思いこんでいたより、はるかに恐ろしい女でございましたから」 「それにはもうひとつ。万里子さんに対する、あなたの愛情の欠如があったのではございませんか。あなたは万里子さんをみるたびに猛蔵さんの子だと思いこみ、その|疎《うと》ましさを事業欲で晴らしていられた……そういうあなたをご主人はご主人で、疎ましく思われたのではございませんか」 「女らしくない女だと思いこんだのでございましょう」 「ところが二十年まえの九月十八日の夜、あなたはとつぜん小雪さんに会われた。小雪さんは琢也さんのタネである。そのひとが由香利さんと生き写しである。すると由香利さんもしんじつ琢也先生の孫であったか……そこにあなたの大きな歎きがあったわけでございますね」 「万里子にしろ由香利にしろ、ほんとうに可哀そうなことをいたしました。わたしがもう少し母として、祖母として愛情を傾けてやったら、ああは悪くならなかったでしょう。それをわたしはまた一途に猛蔵の血だと思い込み、いっそう疎ましくなったのでございます」 「わかりました。それでは奥さん、これらの写真や乾板、フィルムの類は一切奥さまに返還することにいたします。きょうあなたは本條家へひとを差しむけて、お約束を実行してくだすったそうですから。それではこれで失礼を」  一礼して去ろうとする金田一耕助を、 「あ、ちょっとお待ちになって」 「はあ、なにかまだご用ですか」 「こういうものをここへおいていかれても、わたしにはもう始末をする力がございません。しかも、わたしはもうだれにもこういう浅ましいものを見られたくはございません。先生、そこに大きな鉄の乳鉢と鉄の乳棒のようなものがおいてございましょう」  なるほど相対しているデスクの端の床のうえに、直径四〇センチばかりの大きな鉄の鉢と、長さ一メートルほどの鉄の棒がおいてある。 「先生、お願い。そのなかで乾板をふたたび|原《もと》に戻らぬように粉砕し、写真やフィルムは灰にしていただきたいのでございますが……」  金田一耕助はちょっと考えたのち、 「承知しました」  かれは弥生の健康状態が、どのていどのものかしらなかったが、かなり老衰しているのであろうと、そぞろ同情にたえなかった。かれは鉄の乳鉢に乾板を入れ鉄の棒で打ち砕いた。砕いて砕いて、二度と原型に復することの不可能なまで木っ端微塵と打ち砕いた。それから写真とフィルムをそれに添え、ライターの火を移した。フィルムと写真はたちまちめらめらと燃えあがった。その炎であの黒い四角なカーテンの枠が染まったとき、 「おお……おお……おお……」  と、苦痛と歓喜のいりまじったような呻き声がきこえた。むりもない、そのとき弥生は八十何年かの生涯を苦しみつづけた怨念が、無に帰したことをしったのだろう。それきりカーテンのなかは静かになった。 「奥さん、これでよろしいでしょう。これでなにもかも|一《いっ》|切《さい》空の空に……」  |几帳《きちょう》のなかから応答はなかった。金田一耕助はもういちど声をかけたが返事はなかった。そこにあるのは死の静けさだけである。 「奥さん、ど、どうかなさいましたか」  金田一耕助は駆け寄って几帳をめくってなかを覗いた。そしてそこに掌のうえにのらんばかりに小さくなった弥生が、体を二重に折りまげるようにしてつんのめっているのを発見した。 「奥さん、奥さん」  金田一耕助は弥生のからだを抱き起こしたが、そのとたんおもわずゾーッと顔をそむけた。見るべからざるを見たと思った。かつての弥生の秀麗な面影はそこにはなく、そこにあるのは小さく|凋《しぼ》んだ|疣《いぼ》|々《いぼ》だらけの世にも醜怪な顔だった。頭髪もほとんど脱落していた。弥生はおそらくひどいリューマチを患っていたにちがいない。手も足も、いや全身ことごとく|萎《な》えはてて、その上体は空気のように軽かった。 「|蛆《うじ》|虫《むし》……」  と、金田一耕助は心の中で呟いて慄然とした。じっさいそれは蛆虫が着物を着ているようにみえたことである。  弥生の息は絶えていた。    拾遺      一  捜査陣はついに山上良介氏のアジトを発見した。山上良介氏はマンションのちかくに貸し駐車場をもっていた。貸し駐車場は、五つ並んでいて、いずれもシャッターで厳重に防衛されていたが、その第三号が山上良介氏の駐車場であった。  捜査陣の熱心な聞き込み捜査は四月十二日の夜、吉沢平吉がその駐車場のまえで足跡を断っていることをつきとめた。駐車場の借りぬしがだれであるかはすぐ判明した。マンションの管理人は独房にいる法眼滋と面通しをして、すぐにこのひとが山上良介氏にちがいないと証言した。滋の変装術なんてどうせ大したことではなかったのである。  貸し駐車場はすぐに開かれ、なかから国産車が引っ張り出された。あとでわかったところによると、このクルマは盗難車だったそうである。このクルマの後部トランクから青鉛筆が発見された。三栄日曜大工センターの従業員たちによって、その青鉛筆こそ吉沢平吉が、四六時中ほとんど耳からはなさなかったものであることが証言された。  そこでだいたいつぎのような想定が下される。吉沢平吉はおそらくこのギャレージのなかで刺殺され、クルマのトランクへ詰めこまれて、用賀の日曜大工センターへ運ばれたものであろう、法眼滋はあらかじめその大工センターで販売していた千枚通しを手に入れて、用意していたものであろうと。  法眼滋は自首して出たとはいうものの、はじめのうちはとかくふてくされて黙秘権を行使していた。しかし月が改まって五月一日、監房のなかで金田一耕助提供のテープを聴くに及んで、|俄《が》|然《ぜん》態度が変わったという。はじめかれはそれがなにを意味するかわからず、キョトンとして聴いていたそうだが、最後まで聴き終わると俄然興味を催したらしく、もういちど聴かせてほしいと懇願した。二度目を聴きおわったときはじめてかれは落涙した。そして、たっての希望で三度目を聴き終わったとき、かれはさめざめと泣いたという。それから急に神妙になり牛込のアジトを打ち明けた。  牛込のアジトから第一の殺人に関する、かずかずの証拠品が発見されたが、それらの証拠品よりも、もっとひどく捜査員を憤怒させたのは、兵頭房太郎によって作成されたと思われる、世にもえげつない第一の恐喝状であった。その恐喝状のえげつなさから、かえってその恐喝状に躍らされた法眼滋に、同情の声さえあがったくらいである。  兵頭房太郎はもちろん逮捕されていた。はじめかれは|佯狂《ようきょう》をよそうていたが、医師団による精神鑑定の結果、それが佯狂であることが指摘されたとき、かれに対する検察陣の心証はひどく険悪なものになったという。      二  青山にある法眼家の墓地に新しい|卒《そ》|塔《と》|婆《ば》が建てられた日、鉄也は美穂とともに、関根玄竜夫妻につれられてその新墓に詣でた。僧侶の読経がおわり四人が帰路についたとき、はからずもむこうからやってきた「|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》」の同窓四人のものに出っ|会《くわ》した。佐川哲也と鉄也美穂とのあいだに、ちょっと|気《き》|拙《まず》いというよりも、バツの悪そうな空気がながれたが、鉄也ははっと一歩まえへ出て佐川哲也と面とむかった。鉄也はきれいにヒゲを剃り落としている。 「佐川先生、ぼくひとこと先生にお尋ねしたいことがあるんですが……」 「はあ、どういうこと?」 「先生はなぜあんなにしつこくぼくにつきまとわれたんですか。ぼくを憎んでいられたんですか」 「とんでもない」  佐川哲也は|莞《かん》|爾《じ》として、 「だれがビンちゃんの息子さんを憎むやつがあるもんか。鉄也君、紹介しとこう。左から順にフロリダの風ちゃんことピアノの秋山風太郎、マイアミのまあちゃんことテナー・サックスの原田雅美、当時まだ見習いだったケンタッキーの謙坊こと加藤謙三。それにテキサスの哲ことドラムの佐川哲也、それへ加えて君のお父さんのサムソン野郎のビンちゃんこと、トランペットの山内敏男。これが『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』のメンバーだったんだ。われわれはみんな仲がよかった。当時は若かったからケンカもしたし、功名争いもやったさ。しかし、だれひとり欠けても『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』は成立しなかった。つまりわれわれは同志愛的結合によって強く結ばれていたんだ。しかも君のおやじはそのリーダーだった。そのリーダーの息子さんだとしったとき、だれが君を憎んだりするものか」  佐川哲也はちょっと鼻をつまらせて、 「おれは君が可愛かったんだ。むやみやたらと可愛かったんだ。抱きしめて頬ずりしてやりたいくらい可愛かったんだ。コイちゃんのことさえなかったらなあ」  佐川哲也はかわいた声で笑っている『|怒れる海賊たち《アングリー・パイレーツ》』の残党のなかでも、哲也についで感受性の強い秋山浩二はむこうをむいて鼻をかんでいた。 「ありがとうごさいます」  鉄也はふかぶかと頭をさげると、それからキッと相手を|視《み》すえて、 「それにしても先生はまだ独身だそうですが、なぜ結婚なさろうとはしないんです。よけいなことをお尋ねするようですが」 「するよ、するよ、結婚するよ」  佐川哲也は鼻白んだように笑って、 「きょうこのお墓参りがすんだら、今夜にもプロポーズしようかと思ってんだ。相手はここにいる連中はみんなしってる女性だけどな」  それはおそらく伊藤貞子のことであったろう。 「それはおめでとうございます。それではお仕合わせに」 「いや、君のほうこそ」  そして、かれらはたがいに目礼をかわしていきすぎた。      三  さて、玄竜夫妻と鉄也と美穂はそのまま青山のうちへかえったが、そこで玄竜老人は鉄也のまえに開き直った。 「ときに鉄也くん。君、法眼の姓はこのまま相続するが、法眼・五十嵐両家の相続権はいっさい辞退したいといってるそうだが……」 「はあ、いま弁護士さんと相談中なんです」 「それもよかろう。ところでなあ、鉄也くん」 「はあ……」 「あの事件のさい、新聞もテレビもラジオも、つまり報道関係者は君たちふたりのことを、A少年B少女で押し通してくれたが、あのA少年とホテルへしけこんだB少女というのが、この美穂だということは、学校中でしれわたっているそうじゃよ」 「すみません」 「君があやまることはないさ。美穂のほうから誘ったんだそうだからね。しかし、美穂はもう学校へ帰りたくないといっている。そこでここにいる婆あさんや、いまオランダにいる|倅《せがれ》夫婦とも国際電話で相談したんだが、美穂をもういちどデュッセルドルフへやろうと思っている。さいわいむこうにいいピアノの先生がいらっしゃるそうだから」 「それはいいですねえ」 「それはいいですねえじゃないよ。なあ、鉄也くん。いまは娘のひとり旅なんか珍しくない時代じゃ。しかし、われわれ夫婦は古いふるゥい人間じゃで、この幼い孫娘をひとりで海外に出すということに強い抵抗を感ずるんじゃ。そこでだれかたしかな|騎士《ナ イ ト》が必要になってくる。鉄也くん。君、その騎士になってやってくれるだろうな」  鉄也はしばらく考えていたのち、卒然として立ち上がり、老夫婦のまえにふかぶかと|頭《こうべ》を垂れた。 「おじいちゃま、おばあちゃま。ありがとうございます。ぼく、ぼく、お役に立ちたいと思います」      四  四月十二日の晩、鉄也が三栄日曜大工センターの現場にいあわせたのは、その日の午後かれのところへ電話がかかってきたからだそうである。今夜の七時半頃これこれこういう場所へいってみろ。おまえのおふくろの若き日の行状が、もっと詳しくわかるだろう。電話の相手はいっぽう的にそれだけいうと電話を切ってしまった。それはいったんテープにとって、そのテープをいろいろ細工したような声だったという。ところが滋をしるひとは、みんなしっているところだが、かれはサ行の発音にいささか異常があったという。長らく海外にいた人間の常として、s の発音を th と発音するくせがままあった。どんな細工をしてみても、テープにそのくせが残っていたという。  鉄也はたびたび監房の滋を訪れた。はじめはなかなか会って貰えなかったが、ひと月ほど通っているうちに、ついに面会場で対面することができた。鉄也はいった。 「お父さん、われわれの将来がどうなろうとも、わたしは生涯あなたを父と信じて終わるでしょう。幼時からこの年まであなたに愛していただいたことを、どうして忘れることができるでしょう。ぼくにとってはあなたよりほかに父はいないのです」  そのときふたりをへだてる障壁のむこうで、滋は|嗚《お》|咽《えつ》し、果ては|号泣《ごうきゅう》したという。  光枝もしばしば監房を訪れたが、滋は頑として面会を拒否して譲らなかった。光枝はいまや涙の人である。|晨《あした》に泣きぬれ、夕べに泣きむせんだ。五十嵐産業の当てがい|扶《ぶ》|持《ち》もちで、彼女は生涯生活には困らないだろうが、その代わり五十嵐家再興は|諦《あきら》めなければならないだろう。      五  さて、最後にこの事件の記録者であるところの私は、世にも悲しむべき報告を読者諸賢におつたえしなければならない。  その年の六月のはじめごろ、私ははからずも緑が丘マンションの管理人、山崎さんご夫婦の訪問をうけた。ご夫婦とも顔色が変わっていた。 「先生、金田一先生はどうかなすったんじゃないでしょうか」 「金田一君がどうかしたんですか」  ご夫婦の話によると金田一耕助は一週間ほどまえ、荷物をまとめて|飄然《ひょうぜん》と旅に出たという。私はしかしそれを聞いても驚かなかった。  金田一耕助という男がなにか難しい事件を解決すると、そのあと救いようのない孤独感に襲われるということは、私がいままでたびたび力説してきたところである。かれは事件解決に成功したとき決して得意ではいられない。得意どころかむしろその反対に、激しい自己嫌悪に陥るということは、この物語のなかでも指摘しておいたはずである。 「それはしかしいつものくせじゃないですか。耕ちゃんいまごろひとり淋しく旅の空」 「いいえ、それは今度はちがうんです」 「ちがうとは」 「おととい銀行から通知があってびっくりしたんですが、金田一先生、私の口座に莫大な金額を払い込んでいらっしゃるんですよ」  と、その金額をきいて私もびっくり仰天せざるをえなかった。それは子供のないこの老夫婦が、つつましく暮らしていけば、余生を楽に過ごしていけるくらいの金額であった。 「そればっかりじゃございませんのよ。先生ったら、それに譲渡税までちゃんと払っていらっしゃいますのよ」  おくさんのよし江さんはおろおろ声であった。 「まさか、自殺なさるおつもりじゃ……」 「そんなバカな!」  私は一喝してこの老夫婦を追いかえしたが、そのあとさっそく多門修君に電話をしてみた。すると電話のむこうで多門君の声が爆発した。 「あっ、先生、いまボス、いや、風間俊六先生のご命令で、お宅へ電話しようと思っていたところなんです」 「金田一君がどうかしたの」 「どうやらアメリカへ飛んだらしいんですが、先生のほうへなにかそんな話がありましたか」 「いいえ、全然。しかし、それ、間違いのない話なんですか」 「もう間違いはなさそうです。ボスの命令でいろいろ調査したんですが」 「それじゃ、耕ちゃん、旅行のスケールがだんだん大きくなってきたかな」 「そんなノンキな沙汰じゃありませんよ。先生は全財産をあちこちの施設に寄付していったらしい形跡があるんです。ボスの説じゃ、耕ちゃんもう二度と日本へかえらないつもりじゃないかって」  それを聞いて私は|愕《がく》|然《ぜん》としたが、風間俊六氏のこの予想は当たっていた。それ以来金田一耕助氏の消息はいまもって|杳《よう》としてわかっていない。しかし、氏がアメリカへ飛んだことはたしかなようだ。旅券交付もうけているし、アメリカ行きの航空機の乗客者名簿にもその名前が載っている。  それについて等々力大志氏はおろおろ声で私にいった。 「それもこれもみんな私の責任です。こんどの事件で私がヘマばっかりやったもんだから、金田一先生、世をはかなまれたのではないでしょうか」  岡山のほうからも磯川警部からたびたび照会があったが、私はなんと答えたらよいか返事に窮した。  金田一耕助氏がロスまで飛んだことはたしかなようだ。ロスにはそうとうかれの識り合いがいるはずである。しかし、そのどこへも立ち寄っていなかった。あの広大なアメリカの天地のどこかへ金田一耕助氏は消えてしまったとしか、いまのところいいようがない。  読者諸賢もご存じのとおり、その年の秋の石油ショックで、日本の高度成長も終止符を打ったばかりか、それ以来西側諸国は深刻な不況に悩んでいる。アメリカも例外ではない。金田一耕助もそこまでは予測出来なかったであろうから、われわれはいっそうかれの身のなりゆきを案ずるのである。  カイザーのものはカイザーへ返せというが、いまから四十年まえアメリカからかえってきて、ひょっこり岡山県の農村へ現われ、「本陣殺人事件」を解決したかれは、それから三十六年ののち、「病院坂の首縊りの家」を最後として、|忽《こつ》|然《ぜん》として第二の故郷ともいうべきアメリカへ飛び立ち、そのまま広大な砂漠のかなたへ消えていったのであろうか。それともアメリカの都会の喧噪のなかで蒸発をとげたのだろうか。風間建設はその|厖《ぼう》|大《だい》な情報網を動員して、金田一耕助氏の行方捜査に当たらせたというが、いまだに成功したという話を私は聞いていない。  私はいまこのうえもない悲しみを|怺《こら》えてこの稿を草しているのだが、しかし、いつまでも悲歎に暮れているばかりではいられない。  失踪するまえ金田一耕助氏は成城の私の寓居を訪れてこういった。 「先生は長いことスランプで筆を執ることを休止していられたが、私はその間もいろいろ活動していたんですよ。ここに二、三当時の事件の記録があります。気がむいたら書いてください。わからないところがあったら、等々力警部さんなり、磯川警部さんなりにきいてください。どの事件にもどちらかの警部さんが関係していらっしゃいますから」  私はこれを金田一耕助氏の遺言だと信じている。遺言は守らなければならない。私はいま無限の悲哀とたたかいながら金田一耕助氏が遺していった、厖大な資料と取り組んでいるところである。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月) 金田一耕助ファイル20 |病院坂《びょういんざか》の|首《くび》|縊《くく》りの|家《いえ》(|下《げ》) |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成14年3月8日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『病院坂の首縊りの家(下)』昭和53年12月20日初版発行                   平成8年9月25日改版初版発行